まもりがみ「あった」
一彩は自室の奥にしまい込んでいたダンボール箱から、古ぼけた木箱を取り出した。色あせた木彫りの彫刻が施されたそれを優しくなぞる。幼い頃、燐音が一彩へくれたものだ。あの頃は繊細な彫刻だと兄の才能を羨ましがったものだが、今になってみれば、年相応の不器用さが見て取れた。ベッドサイドに座り、ゆっくりと開ける。中から古い布を取り出して、一彩は懐かしい気持ちになった。
燐音が故郷を出るまでずっと使っていたもの。ヘアバンドの大きさに畳まれたその布は、中に小さな焦げ付いた布片が縫い付けられている。華やかな着物を思わせる花模様の布片は、母親の形見だ。
一彩を産んですぐ亡くなった母親は、朗らかな女性だったらしい。父は石仏のような人で物事を語らないが、その分母が話す。天城家はそうやって団欒をしていたのだと、兄から聞かされていた。何を聞いても答えてくれ、分からなければ調べようと兄の手を引く。家事も従者に混じってこなし、父のそばでまつりごとの手伝いをする。母が笑えば場が明るくなるし、あの父ですらうっすらと笑みを浮かべる。一彩は思い出せないくらいには父親の笑った顔を見た事がなかったから、きっとそれだけ素晴らしい人だったのだろう。父が心を許すほどに、素敵な女性だったのだ。
一彩は、縫い付けられた花模様を優しくなぞった。母が婚姻するにあたり、下の者たちが街でわざわざ買い付けた着物らしい。母の葬儀と共に燃やされたが、灰の中から布片をひとつ、兄が見つけ出した。兄もまだ七つのころだから、きっと寂しかったに違いない。それでも、まだ赤子と言っていいような一彩の前で、燐音は胸を張って見せていたのだから、きっと、その頃から『君主』として、『兄』として、うえにたつものだと一彩を守ろうとしたのだ。
一彩は藍色の布をそっと折り畳むと、木箱の中へ戻した。兄は家出した時に母の形見も捨てていった。それだけの覚悟があったのかもしれない。
立ち上がり、そばに置いていた紙袋から、一彩は1枚のボードを手に取った。床に置き、同じ紙袋から沢山の端切れと接着剤を取り出す。プロデューサーやツテを頼って手に入れたユニット衣装と同じ素材のそれらを、ハサミでたどたどしく切りながら貼り付けた。黄色、市松模様、赤いライン、蛍光色。合皮、メッシュ、深い臙脂色。どれも兄を彩った色たちだ。ぺたぺたと一通り貼り付けると、最後に、藍色の布地を置いた。焦げ付いた花柄をどうするか迷って、折り込む。額に挟み込んで、後ろを留める。オフホワイトの額縁の中に彩られたファブリック。
一彩は写真を一枚とって、藍良に出来を見せた。
『どうかな』
返信はすぐに返ってきた。
『すごくいいと思うよ。綺麗にできたじゃん』
『ウム、満足しているよ』
『日付、書いといたら?』
『そうだね。ありがとう』
一彩は立ち上がりペン立てからマジックを取り出した。額縁の裏面を外し、ファブリックボードの裏側に日付と名前を書く。少し考えて、『愛する兄へ』と付け足した。
元通りにしまいなおして、額を箱へ戻す。あとは兄が帰ってきたら渡すだけだ。2箇所目のライブツアーを終えるのは明日。一彩は出来上がった『サムシング・オールド』が兄の手に渡ることを想像して、くすりと笑った。
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「ただいま」
「お帰りなさい、兄さん!」
「っとぉ、お前何歳だよ。高校卒業したろ?」
「ウム、しかし顔を見ると嬉しくなってしまうよ! 」
「ははっ、俺もだよ」
燐音が一彩の背中に腕を回す。一彩もギュウギュウに抱きしめて、燐音の帰宅を祝った。
「にゃあ」
「おー、とらきち、元気してたか?」
「んなぁ」
「よしよし、すっかりでかくなっちまって」
一彩は燐音から衣類の入った荷物を受け取り、洗面台の方へ向かった。燐音もその後に続いて、一彩に話しかけた。
「なんか変わったことあったか」
「特にないよ。とらきちも健康そのものだ」
「ん、よかった。ライブもなかなか良かったぜ!あの会場、使うなら言えよ。おもしれぇ作りしてっからメルメルと頭を抱えてたけど、その甲斐があったってもんだ」
「へぇ。いつか予定が出来るといいな」
「お前が作るんだよ。ユニットリーダーだろうが」
「あぁ、そうだね。…ところで兄さん」
「ん?」
「渡したいものがあるんだ」
「俺っちもお土産買ってきた」
「リビングで見せよう」
一彩はそう言って兄にリビングへ行くよう伝え、一度部屋へと戻った。ファブリックボードを箱ごと抱え、兄の元へ向かう。
「ほぉらとらきち、お前用のおもちゃだ」
「兄さん、また買ったのかい」
「こいつよく遊ぶからいいだろ、…大きいな」
「ウム。開けて見てほしい」
「ちょっと待った。見るからにおれっちのお土産なんかより大層なモンだろ?こっちが先」
ばらばらと紙袋をひっくり返した燐音が、一つずつお土産の説明を始める。地元の銘菓、近くの喫茶店のコーヒー豆と紅茶、漬物、レトルトのご当地カレー。山のように積まれたお土産に、ふと昔を思い出して一彩は笑ってしまった。
「ありがとう兄さん。一緒に食べよう。コーヒー、入れるかい?」
「今はいいよ。ほら、俺の説明は終わったから次はお前。開けていいの?」
「あぁ。頑張ったんだ」
「頑張った…?……あ、」
燐音が箱を開ける。オフホワイトの額に飾られたファブリックが、りんねの瞳へきらきらと写る。その真ん中にラインのように置かれた藍色の布を、燐音は指で静かになぞった。
「捨てたのに、拾ったのか」
「僕にとっての兄さんの形見だからね」
「…」
「内側にちゃんと母上の形見もあるよ、当時のままだ。開けるかい?」
「あぁ」
一彩は額を手に取り、後ろの枠を外した。ゆっくりファブリックボードを取り出して、挟むだけにしていた藍色の布を渡す。燐音はそれをじっと見つめると、何も言わずに折り込んだ布の内側を見た。
「母上」
指先が布の中へとはいる。内側にある端切れをなぞるように指が滑り、また丁寧に畳まれた。燐音の顔がどんどんと俯いていく。シワにならないよう手のひらで布地を優しく包んだま、嗚咽が聞こえ始めた。
「……」
ぽたぽたと床に涙が落ちる。とらきちが心配そうに顔をのぞき込み、燐音は鼻先を擦り付けた。
「にぃあ」
「……」
「兄さん」
「…ありがと、一彩。ちょっと、後悔してたんだ」
「……」
「故郷を出た時。きっといつかは戻るものだと思ってた。俺が何もしても里は変わらなかったから。だから、いつか里の仕組みに組み込まれる前に。知りたかった」
燐音はずっと鼻を鳴らした。
「母上ならきっと、許してくれると思ってた。背中を押してくれるはずだって。でも、連れていこうと思わなかった。いつまでも母親にすがるようじゃ、天城の人間にはなれないって、思ったから」
兄の独白を聞きながら、一彩は昔の事を思い出した。何か不安なことがあるとき、兄が天城家として表に立つ時。兄はいつもおでこを触っていた。きっと、その裏にいる母親へ話しかけていたのだろう。一彩が影武者として立たねばならなかった時には、その布地を貸してくれた。「きっと護ってくれるから。これはお守りだ」そう言いながら、小さな一彩のおでこに、端切れが当たるように。
燐音はしばらく涙を落としたあと、恥ずかしそうに顔を上げた。
「悪ぃ、昔を思い出しちまってよ」
「それはずっと、僕を守ってくれていたよ、兄さん。僕の支えてもあった」
「あぁ、それならよかった」
「いままで、ありがとう兄さん」
「例を言われるほどじゃねぇよ。それに、礼なら母上に言ってくれ」
はい、と渡された布を、一彩は元通りにファブリックボードに挟み込む。額に戻して、「部屋に飾って欲しい」と告げると、燐音は少し赤くなった目を細めて「リビングに飾ろう」と提案した。母上が、お前のことも見守れるように。一彩は兄の提案に頷いた。
「うっし、いい感じだな」
「ウム。これならばっちりだろう」
リビングを見渡せて、二人の視界に一番入るテレビの上。時計と交換して飾られたファブリックボートが、優しくリビングを彩った。