愚かな破壊者人生における「幸運の総量」は決まっていると言われている。
運はすべての人間に平等に与えられていて、すべての人間が同等の幸運と不運を経験するという話だ。
なんと馬鹿馬鹿しいことこの上ない。そんなのは幸運を経験したことがある人間の詭弁でしかない。
この世には不運しか持って生まれてこなかった人間だって存在する。
例えば、今私の手によってナイフを胸に突き刺されている彼。
死ぬには足りない浅さの突き刺しで、しかしこのまま押し込めば確実に心臓に到達する。両肩の関節を外されて身動ぐことさえ出来ない彼は機関車のようにハーッハーッと息をあげて、見開いた眼で私を見る。
「殺さないで」そう喘いでいたのは数分前。今は「殺すなら意識を失わせてください」だ。
誠に申し訳ないのだが、自分にはこの情けない命乞いに歓喜する癖はない。あぁ何か言っているなぁくらいのものだ。
そんな雑音よりも惹かれるのはじわじわと沁み出してTシャツを塗らしていく血液。手に伝わる肉を裂く感覚。力を込めればまた一段、刃が肉に沈む。くはと喉の奥から溢れる笑い声に、微かな物音が混じった。誰かの足音。
「…おや」
振り返ると、ちょうどこのトイレに入ってきたらしい男が立っていた。
ここは囚人達が自由に出入りできるエリアの中でも最も端にある公衆トイレだ。中で行われるのは大概が倫理観や貞操を欠いた暴行や取引で、あまり人は寄り付かない。よく人が死ぬせいもあって噂が絶えず、それがかえって時空院のような人種にとっては格好の遊び場所でもあった。
拷問じみた殺戮の場に不運にも居合わせたその男は、けれど表情ひとつ変えずにそこにいた。
顔色が悪く、白んだ目に隈がある男。体格は時空院と同じくらい。どこかぼんやりとした気怠い雰囲気は、自分と同じように殺しを楽しむ人種には見えない。が、男はこちらを真っ直ぐ見据えたまま動かない。
「ご一緒しますか?」
胸に突き立てていたナイフを一気に抜き取って、男に差し出すように見せてみた。後ろでは間一髪命を繋いだ男が壁に縋るように崩れ落ちて震えている。
「…いや、」
不運な男はほんの少し首を振った。視線は時空院から反らさない。その一瞬で分かる。この男が動かない理由は…、
「俺はいい」と断る文言を聞き終わる前に、時空院のほうから踏み込んだ。なら、殺すまでだ。口封じ。おもちゃが増えた。ただそれだけ。
どうせキミもこうなると分かっていたから、私に背を向けなかったのでしょう?
来ると分かっていた攻撃にまんまとやられるような奴は、この監獄にはいない。
最初の一手は軽く振り払われた。ナイフを持った手首は弾かれたが、すぐに返して逆刃のまま相手の首筋目掛けて振るい落とす。
間近、一瞬の視線の交差。互いに次の動きを読む刹那。
距離を取ろうと相手の重心が微かに下がったのを見逃さなかった。
逃がさない。空いた片手で男の胸ぐらを掴んだ。男を引き寄せる力と真上からナイフを振り下ろす力。この二つで思いきり突き刺せる、はずだった。
重い一撃が時空院の鳩尾に入った。
サッカーボールが潰れて破裂するみたいに、肺から空気が爆ぜて噎せ返る。視界は薄汚れたトイレの床と相手の靴先に変わっていた。
どっしりとした重みのある痛みに、思わず笑みが溢れる。ナイフの柄を握る手が震えた。狂喜。武者震い。ヒリつく楽しいという感情。
くの字に折れた時空院が倒れることを許さずに、男は時空院の肩を掴んだ。的を外さないように見定めて、下から拳を撃ち上げる二撃目のモーションに入る。
「アハハハハ!」
笑い声が自分だと気付くのはあとになってからだ。
アッパーを上げた拳は首を仰け反って避ける。天井を見上げて、両腕を広げ笑った。すぐに男に視線を戻すと、男はやはりただ真っ直ぐと目を反らさずに時空院を見ている。動じる様子がない。
たった数手で、互いに互いの経験豊富さと戦闘能力の高さを察してる。
薄っすらと笑みを浮かべてナイフを宙に転がす時空院に対して、相手の男は指をゆっくりと握りしめて静かに見定めていた。
「何をしている!」
乱入してきたのは看守達の怒号。電気を仕込まれた大勢の警棒にはさすがに抵抗しきれず、勝負はつかないまま終わった。
その後、二人はペナルティーとしてしばしの独房行き。時空院のほうは盗んだナイフと虐待が見つかったおかげで少々手荒い罰が下っていた。
甘んじてそれを受ける過程で、しかしあの男が谷ケ崎伊吹という人物だと知ることが出来た。
おそらく自分よりは若いだろう。それにしては落ち着いていたし、命のやり取りをよく分かっているように思えた。
ペナルティーが開けてから、時空院は食堂で谷ケ崎を見つけた。
プロファイリングは当たりだ。谷ケ崎はコミュニティに属するタイプではないようで、一人で座っていた。周りにも誰も座らないところを見ると、時空院と同じように扱いにくい存在として認知されているのかもしれない。
「ご一緒しても?」
そう言って向かいの席に滑り込む。返事は待たずにトレイをテーブルに置いて腰を落ち着けてしまえば、谷ケ崎は時空院の顔を見て一拍目を瞬かせた。さすがに驚いた様子だ。
「キミを探していたんですよ、見つかって良かった」
「何か用か」
微かに警戒心を含んだ声色に、手の平を見せて笑った。敵意はない。
「謝らなくてはいけないなと思って。たまたま居合わせただけなのに、キミにまで罰が下ってしまいましたから」
「…たまたま居合わせて殺されかけたのか」
「過ぎたことでしょう。そもそもキミは殺されていない」
「………」
言い返すことを諦めたのか、谷ケ崎は小さく息をついて静かに食事を再開する。その様子をふふと笑んで、時空院もフォークを手に取った。
「あっちに行け」とも「許さない」とも言わずに相手に好きにさせるそのスタンスは、この監獄では珍しく感じられた。
気にいらないことがあればすぐに騒ぎになる血の気の多い輩が多い環境で、どこかぼんやりとマイペースに過ごしている谷ケ崎は時空院にとっては居心地が良く、よく声を掛けるようになっていた。
「伊吹は和食のほうが好きですよね?」
どうやら看守側も扱いにくい分子は組ませていたほうが安全と踏んだのか、この頃には時空院と谷ケ崎が一緒にいても目を光らせることはなくなっていた。
「…そんなことないだろ」
「でも昨日よりよく食べてますよ」
「……人の観察するのやめろ」
「朝食のメープルシロップを残しておいたんです、良かったらぜひそのさば味噌に」
サッ! 自分の食事に手を被せて庇う伊吹を、時空院は笑う。好きな食べ物はやっぱり譲れないらしい。
「俺がくれてやった分だろ、自分のに使え」
「それもそうですね、では有り難く」
ご満悦の笑顔でとろーりメープルを包装から垂らしているその時だった。
「谷ケ崎ぃ!」
ダン!と食器が跳ねる勢いでテーブルを叩いてきたのは見知らぬ男。スキンヘッドにタトゥーを入れた男。彼の後ろに控える手下達にも揃いのタトゥーが見える。ヒエラルキーの低いチーマー。どう見ても烏合の衆だった。
もぐもぐと食事を止めずに彼らを見やる伊吹は無表情に見えるかもしれないが、時空院からすればその頭の上にははてなマークが並んでいる。
「お知り合いですか?伊吹」
「?…丞武の知り合いじゃねえのか」
「いや確実にキミの名前を呼んでいたでしょう。本当に伊吹は、」
言い終わらないうちに、テーブルが真横に吹っ飛んだ。スキンヘッドが蹴り飛ばしたのだ。
「舐めたこと抜かしてんじゃねえーぞ」
座っている伊吹の胸ぐらを掴み 額がついてしまうほどに覆い迫っている。椅子が後ろに傾いて、そのまま倒れてしまいそうなほどだった。
「借りは返せやこのクズが」
喧嘩を売る時にお喋りはよくない。スキンヘッドが伊吹の顔面に拳を振りかぶっているスピードは、馬鹿みたいのろまだった。
我々は戦闘機。鈍行列車じゃ追いつけない。
「ー…ねえ貴方、まだ私が伊吹とお話していたんですよ?」
時空院に完全に背を向けていたのも良くなかった。素人が手を出していい相手じゃない。
スキンヘッドの後頭部にはフォークが刺さっている。狙いがズレないように、その顔は伊吹が鷲掴みにしていた。
フォークを抜いた時空院は「それに、」と嘆いて続ける。足元にはぐちゃぐちゃになった食事···。食堂に響くのは悲鳴。
「~~貴重なメープルシロップが無駄になってしまったじゃないですかぁ!!」
二名、独房行きだった。
――……
「本当に伊吹は不運ですねえ」
谷ケ崎伊吹が入った独房の前、時空院はひらひらと手を振っていた。その指先には鍵。この独房の鍵だ。
「…なんでそんなの持ってるんだ」
「ある男に渡されたんですよ、いつか必要になるからと」
格子を挟んでするやり取りは茶番劇だ。
「さあ伊吹!助かりたければ私にこれからも糖分を横流しにすると誓いなさい!!」
「声が大きくないか」
こっそり抜け出す、の面目丸潰れだ。
「誓いなさい!!」
「~…分かった。誓うからさっさと開けろ」
「そして私にこれを渡してきた男に会ってみませんか」
なるほど、本題はそれか。
「…イエスと言わなきゃ開けねぇんだろ」
「ご明察のとおり」
ニッコリ。まったくこういう時だけは、笑顔が上手な変態だ。
「わあ!初めまして」
阿久根燐童。
目の前に座った時空院よりも その隣に座った伊吹のほうをじいと深く目で追う。その些細な視線の動きが引っ掛かっていた。
燐童は鍵の入手経路をあっさり白状し、時空院達と仲良くしたいから手を貸したのだと告げた。
「あれ?もしかして僕、怪しまれてます?」
「なぜ私たちのことを?」
「僕は弱いので…一緒にいてくれる人が欲しかったんです…」
それじゃ理由になりませんか?と子犬のように上目に伺ってくる。
「谷ケ崎さんも時空院さんも強いじゃないですか!脱獄する時に頼りになりそうだなあって思っていたんですよ」
「嘘にしては愛嬌があってよろしい」
「嘘じゃありませんよ」
冷ややかな時空院のリアクションに、燐童の声はトーンが落ちた。
「僕は本気です」
底が知れない笑顔に隠された刃は、確実に近づいていた。
――……
伊吹は人に擦り寄ることはないが これ見よがしに避けることもそうしない。
燐童は上手く距離を詰めて伊吹と班も同じになり、一緒にいることが多くなっていた。
その頃から、伊吹の目の隈はより濃くなっていく。頭痛を感じている様子もよく見られ、体調を気に掛けても「大丈夫だ」としか答えてくれなくなっていた。
「谷ケ崎さんのネイルって、時空院さんが塗ってあげてるんですね」
自由時間の合間に、阿久根がそう話し掛けてきた。
「そうですね、伊吹は意外と世話を焼かれても嫌がらない人ですよ」
「谷ケ崎さんはお兄さんがいたそうなので、その名残りなのかもしれませんね」
初耳だった。監獄という場所ゆえにそれぞれが身の上話を深く掘る習慣がない。
「ご兄弟がいるとは知りませんでした」
「そうなんですか」と頷いた燐童は 少し得意げな様子だった。
「てっきりご存知なのかと。あぁでもそのお兄さんも、既に他界されているそうですよ。借金取りに追われていたのだとか」
「…なるほど」
理解したのは、このやり取りは阿久根が時空院よりも深く谷ケ崎と関われているかの確認だ。谷ケ崎の懐に入れているのかどうかを計っている。
「どうして付き合いの長い私よりキミのほうが伊吹をそこまで知っているんでしょう?伊吹は自分から身の上話をするタイプではないと思いますが」
ならば、とこちらからもざわめきを起こしてみた。阿久根は大袈裟に愛嬌のある仕草で首を傾げてみせる。
「…さあ。なんででしょうねえ?」
怪しまれていることはもはや取るに足らない。あとは憎しみの炎に油を注ぐだけなのだから…。
「珍しいこともあるものですねぇ」
あの日、班行動が終わってから、伊吹がペナルティを受けて独房に入ったと噂が流れてきた。喧嘩騒ぎを起こしたのだという。
相手は有馬正弦。
大勢いる囚人の中で個人を覚えることは難しい。
が、有馬なら遠目に見掛けた記憶はある。彼も伊吹のようにどこかチームに属するタイプではないが、伊吹よりも騒ぎを起こす人物だったように思う。
おそらく周囲の人間関係に無関心な伊吹は有馬のことを知らない。面識のない相手に伊吹のほうからちょっかいをかけるとは思えなかった。
詳細は燐童も知らないと首を横に振るう。悲しそうな顔をしてみせて。
「僕が作業で班を離れたうちに、何かあったみたいです」
感じていた違和感が、確信に変わっていく。
ペナルティが開けた伊吹に話を聞けば、やはり有馬がふっかけてきただけで、軽く振り払って済ませるはずが他の囚人や看守が巻き込まれて大騒ぎになり、何故か自分までペナルティを受けてしまったのだという。
「いつもいつも、伊吹は不運ですね」
欠けてしまったネイルをされるがままに塗り直される伊吹は、小さく溜め息を吐く。自分でも己の不運さを分かっているようだった。
「伊吹は"運の平等論"を知っていますか?」
「平等?」
「運の総量はすべての人に平等に与えられているという理論ですよ」
「……そんなわけないだろ」
「そうですね私もそう思います」
軽く笑って同意した。やはり幸運に縋るなんてナンセンスだ。
「これ、伊吹に似合う色ですよ」
そう言って、噛んで形が歪んだ伊吹の爪の白を指差す。
無垢な色。素直な色。すぐに汚れてしまう、危うい色。
伊吹は時空院と自分の手を見比べて、少し首を傾げる。
「丞武は全部黒なのか?」
思いもよらない質問だった。その言葉には「白も使えばいいのに」という意味が含まれている。
「……私に似合いますか?」
真意は言わず質問に質問で返すと、伊吹はとても不思議そうに手から時空院の顔を見た。
「?…悪くないと思う」
たぶん?とちょっと自信なさげに付け加える様子に、思わずふふと笑んでしまう。
「そうですか。では、1本だけ」
隣でネイルが乾くまでどこかにぶつけてしまわないように気を付けながら 自分の白い爪を見ている伊吹は、純粋な小さな子供みたいだった。
「…伊吹には、もう少し幸運がやってくるといいですね」
そうして最後に、余らせていた指輪を伊吹の左中指に嵌めた。伊吹は厚い指輪は人を殴る時に指を痛めるからと少し渋ったけれど、
「これ以上伊吹に悪いことが起こらないように、おまじないですよ」
魔除けの意味があるのだと教えると何故か驚いた様子で目を瞬いて、それから久しぶりに柔らかい声で「意外と心配性なんだな」と笑った。
――……
「有馬くん」
自由時間が終わる間際、時空院は有馬に声を掛けた。谷ケ崎も阿久根もいない状況を狙っていた。
振り返った有馬は時空院の顔を見て 心なしか目を据わらせる。
「…何」
ぶっきらぼうな言い方でも 会話はしてもらえるようだ。脱獄するチームとしては一応認めてもらえたらしい。
「どうやって手に入れたんです?」
と、そっと有馬の足元を指差す。裾に隠し持った銃のことだと察した有馬は「あ?」と眉を寄せて質問の真意を吐けと促す。
「キミは看守に好かれるタイプでもないですし、友達もいるタイプじゃないでしょう。どんな取引をしてこの中でそんなレアなものを?」
「ケンカ売ってんのかてめぇ」
秒速で言い返すことを忘れずに、けれど有馬は返答に少し間を置いた。何かに迷っているのか、微かに視線を泳がしてからじっと時空院を見やる。ん?と出来るだけ穏やかに肩を竦めてみせた。話してくださいというお願いだ。
「…燐童に持ってこさせた」
有馬は渋々といった様子で続ける。
「前に独房行きになった時にあいつがここの鍵を開けてやるからお願いを聞いてほしいって話を持ちかけてきたんだよ。んなもん信用出来ねぇから先にそっちが俺の依頼をこなしてみろって言ってやった」
「それが銃の入手ですか」
あぁと頷く有馬は肝心な部分を話していない。
「あいつ、どうやら看守に何人も手管がいるらしい。とんだ狸だな」
ならば一人でも脱獄出来るのではないか、という疑問が浮かぶ。わざわざ何故このチームを提案してきたのか…
「それで?彼のお願いというのは?」
「……、」
有馬ははぁと息をついて 斜に構えた。
この返答を聞いて時空院がどう反応するかを見逃さない視線。言われた言葉をそのまま告げる。
「谷ケ崎伊吹に接触しろ」
二人は視線だけで互いの思惑や反応を読み合う。
このたった一つの情報で、脱獄の真意は大きく変わった。
阿久根には何か魂胆がある。この四人を繋げたことには意味がある。
有馬はその疑念を時空院に共有し、しかしきっと、…伊吹はなにも知らない。
「なぁどうする?」
有馬は珍しくしんと黙った時空院を下から覗き見る。挑発的なヘビのような笑みだった。
「"オトモダチ"なんだろ。"アレ"、良いように使われるだけかもな?」
言葉の裏に"自分は人に使われるつもりはない"と宣言している。
「例の話、てめえらが抜けるってんなら俺にはちょうどいいけどな」
気にくわねぇからと付け加えた有馬を、時空院はただ穏やかに笑った。
「私には関係ありませんよ。伊吹の問題ですから」
結局、伊吹には燐童のことを何も伝えなかった。
有馬もそれを察していたようだ。
阿久根が伊吹の心の奥深くに沈んでいた絶望に触れたのは明白。それが優しさになることもあるだろうが、今のこの現状はきっと優しさからくるものではない。
『武器を持て、火を灯せ』
四人揃って外の世界に憎悪や失望以外何も持たない人間が、闇の中を炎を纏って進んでいるように思えた。
しかし不思議なもので、そんな一枚岩でない思惑がありながらも、四人で行動していると各々立ち位置が出来てくる。誰がどんな人物なのかが分かってくる。
そして何も知らないからこそ、否もしかしたら"コントロール"に気付いていたとしても、伊吹のマイペースは変わらなかった。
彼が車の中でソフトクリームの上の部分を落とした時なんて、みんな、思わず「ふざけるな」と笑ってしまい、怒って譲ろうとしたり 買い足しを提案したり シートを拭いてあげたり。
うわべだけで繋がった関係が、そのマイペースに巻き込まれて気がついたらそれぞれの芯を食っていた。
『勝利して、みなで祝杯をあげましょう』
あんな状態で中王区相手に勝てると思って言ったわけではない。
追い討ちをかけるリリックは緩むどころか 今が好機と時空院達を包囲する。
強力なヒプノシスマイクの効果が絶えず脳を揺らし、視界がブレる。
そんな中で伊吹は、時空院達が倒れても最後まで立っていた。
みなを守るように。
あんなに、子供みたいに世話が焼けたのに…。
その背中を見て何も思わないほど、我々は薄情じゃなかった。負けじと限界まで立ち上がる力を、伊吹から与えられていた。
何度立ち上がったか、覚えていない。次第に有馬も阿久根も倒れてしまった。生きているかは分からない。
ついに時空院の手からもマイクがこぼれ落ち、アスファルトに転がった。皮膚を切り裂くナイフ形状は、結構気に入っていたのに…
身体がまるで拘束されたように動かなくなった。もう、立っていられない。
ねえ伊吹、阿久根くんのリリックを聞いたでしょう?
私たちの関係が何だったのか、私にも上手くは言えません。嘘もたくさんあったのかもしれません。
それでもキミは「手を貸せ」「いくぞ」と言ってあげられる。その甘さは、いや優しさは、きっと最初からキミに与えられていたものだ。愛されて育まれていたものだ。
「丞武!」
キミは知らないけれど…私を名前で呼ぶのはキミくらいなんですよ。
背後に倒れた三人を庇い立つ伊吹の姿が、微かな視界の中に見えた。
薄れゆく意識の中でキミと目が合ったこの時の私は、きっと笑っていたと思います。心の底から好戦的に、今この時を楽しいと感じたから…。
あぁ…どうか願わくば、伊吹にとってこの時間だけは不運ではありませんようにと願います。
まあ伊吹からしてみれば、余計なお世話かもしれませんけどね…。