名前のない怪物「伊吹!待ってください!」
有馬がやられた。必死で彼を肩に掛けて戻ってきた燐童も重傷だった。
朦朧としている二人は、生きてここまで戻ってきたのが不思議なくらいに傷だらけで、それがただのヒプノシスマイクの攻撃だけではないとすぐに分かった。
「伊吹!」
拠点にしていた廃屋の部屋。厳しく言いつける時空院の声は、激しく開け放たれたドアの音で叩き消される。
燐童から有馬を受け取っていた時空院は体重を預けてくる彼らを放棄するわけにもいかず、静かな殺意の塊と化して飛び出していく谷ケ崎を引き留めるのは間に合わなかった。
「僕が行きます」
力が入らないふらふらの状態で、燐童が立ち上がる。俯いた頭から血が垂れ落ちて ぼたぼたと床に散った。糸が切れかけた身体に、時空院はぴしゃと言い放つ。
「キミだって重傷です、あの状態の伊吹を止められるわけがないでしょう」
「止めるつもりはありませんよ」
負けじと、燐童も強い口調で返す。
「止めなくてもいいんです。でも、~っ」
でも…、と自分の肩を抱き込んだ燐童は 不意に消えてしまいそうな心細い声で言う。この身に振りかかった孤独が脳裏でフラッシュバックする。
「でも何もかも終わった時に、独りぼっちだったら…寂しいじゃないですか……」
この記憶を、谷ケ崎には背負わせない。
「だから迎えに行くんです」
行かなくちゃいけないんだ。痛みはすべて後回しだ。ツラさを振り切って、顔を上げる。
「…………」
反対を表していた時空院は、研ぎ澄まされた眼光で燐童を見定める。その鋭さに狼狽えることなく睨みつけてくる燐童の目は、絶対に譲らないと宣言していた。これは悲観でも絶望でもないと伝わってくる、強い眼差し。
……折れるしかないだろう、らしくもなくそんな熱い想いをぶつけられたら…。
「…分かりました。でももしキミが伊吹を迎えにいく前にその辺で野垂れ死んだりしたら、私がキミを地獄まで殺しに行きますよ?」
その覚悟はおありで?と続けてみると、燐童は一旦驚いたように眉を上げて、緊迫した表情をふと和らげた。
それは「キミに伊吹を任せます」と同意じゃないのかな。
「はは……やっぱり時空院さんは僕にだけ厳しいなぁ」
参ったなとやんわり笑った燐童は、壁に縋りながらなんとか部屋を出ていく。触れた壁紙やノブには血が引き摺り残されていた。
「いってらっしゃい…」
時空院は閉じたドアの向こうを、人知れず祈りを込めてそっと見送った。
ベッドに乗せた有馬は…目を覚まさない。
――……
殺すという選択肢以外はなかった。
他人の命がこの手の中で絶える瞬間を知っている。命なんて、この片手で充分に奪ってきた。
握り潰す血管の感触。親指が喉の真ん中に深く深く食い込んで、いずれ微かに皮膚を傷つける。白く塗られた爪に血が滲む。
指の腹に感じる喉仏をゴリッと押し込んで呼吸の隙を塞ぐ。踠いて逃げ出そうとする相手の身体は宙ぶらりんで、いずれ動かなくなる。
命が抜けた人間の身体はただの水嚢だ。投げるように捨てて次のターゲットを見る。
有馬達を散々と痛めつけた彼らは完全に油断していて、谷ケ崎の登場にも大したことはないと嘲笑っていた。
それが今や化け物でも見るような目。懸命に奮い立つ震えた身体。はくはくと言葉を繋ぐことはない唇。
なぁ…そんな覚悟で手を出したのか?
笑わせるな。罪を償え。代償を払え。
谷ケ崎がゆらりと蜻蛉のような足取りで一歩前に進めば、それだけで震えあがってナイフで寄るな来るなと威嚇してきた。
そのナイフを真正面から軽く奪い、遠くへ投げ捨てる。捨てて放った腕を振り子のようにして相手の鳩尾を下から撃ち上げる。
ごろんと転がった水嚢は邪魔だから足で踏みつけてから退かす。次。
銃を持っている男を見つけた。有馬の銃だ。
この溜まり場で、谷ケ崎は初めて声を発する。
「返せ」
数で押し切れと集まってくる有象無象に、谷ケ崎はゆっくりと首を回して一通り目を通す。表情も身体も、どこも力んではいないのに、不気味に気怠い静けさで絶対的な殺意を放つ。
全員殺す。
償ったところで、俺はもう何も許さない。
身体中の血液が沸騰していて、頭が痛くて痛くて堪らなかった。
「谷ケ崎さん、」
何度か名前を呼ばれていた。昼間の暖かい病院の待合室で呼ばれるような声色。
「谷ケ崎さん」
何度目かの声で、ふと我に返った。
自分がやった惨状が、目の前に広がる。倒れている人間。あり得ない方向に曲がっている人間。赤い泡を吹いている人間。爆弾でも着弾したかのように、あらゆるものが散乱している。
怪物の行進は、すべてを破壊し尽くしていた。
悲惨な爆心地の中心に立つ谷ケ崎もさすがにノーダメージとはいかず、至るところに代償を負っていた。
「燐童です。分かりますか?」
燐童は時折ふらつきながらも 転がっている人間の合間を縫って進んだ。不自然にフリーズしている谷ケ崎へと声を掛ける。
ゆっくりと出来るだけ脅かさないように目の前に歩み寄っても、谷ケ崎の目は焦点が合っておらず夢遊病患者みたいだった。
すべて投げ出して脱力している谷ケ崎の両手を、ダンスでも誘うかのようにフランクに柔く握り取る。
見ればボロボロになった手は皮膚も所々剥げて血が滲み、殴打のしすぎで腫れている。麻痺しているのか、…怯えているのか。指先だけ小刻みに震えていた。
「あぁ爪が剥げちゃいましたね。帰って時空院さんに診てもらいましょうね」
これだけ話し掛けても、谷ケ崎の反応はない。どこか別の世界にいるみたいに、茫然と立ち尽くしている。
「ゆっくり歩いて帰りましょう?」
後ろ手に谷ケ崎の手を引きながら、前を歩いた。歩を進めるたびに身体中が痛い。本当は今にでも叫び出したいくらい痛くて痛くてたまらないのに、今はこの手を離すものかと指を絡めて握っていた。
自分の身体の痛みは押し殺す。ここに来た自分の役割を果たすんだ。
「谷ケ崎さんは痛いところはないですか?僕も結構ギリギリなんですけどね。全く、中王区は何をしているんだか…ちょっと噛みついたくらいでリンチに遭うなんて治安悪すぎですよ。まぁ僕たちが言えたことでもないんですけど」
誰にも届いていない声を、燐童は飄々と語り掛け続ける。きっといつかは届くと信じて。
真っ暗な世界を歩いている。
踏みしめた場所から血が溢れて、それが次から次へと足跡になって続いていく。
そんな妄想。幻想。
「ありがとうございます」
暗闇の中、不意にそう聞こえて足が止まった。
顔を上げると、闇の中にぽっかりと切り抜かれたように燐童だけがスポットライトに照らされて、こちらを見て微笑んでいた。
「僕たちの為に怒ってくれて、ありがとうございます」
言われた言葉の意味を、ゆっくりと自分の中に取り入れる。
怒った? お前らのために?
…そうなのか?分からない。人を殺してきただけだ。どうしても堪えられなくて、…すべて殺意の力に変えてきただけ。
やっぱり未来なんてないんじゃないか?
やっぱり…人は簡単には変われない…もう戻れない。目の前は真っ暗だ。
俺は山田一郎のようには、なれないんだ…。
デスペラードの意味を知っている。
『絶望する人』
なぁ……どうしたらここから抜け出せる?
俺には無理だ…。広い世界なんて見えない。
自分だってボロボロなのに、強がって谷ケ崎の手を引いてくれている燐童に申し訳なくて堪らなかった。
礼を言われることなんて何も出来ないのに、届いた言葉がどうしてこんなに悲しいのだろう…。もっと違うやり方が、もっと違う上手な生き方が、出来れば良かったのに…。
帰りついてドアを開けると、バッと時空院が立ち上がる。
「伊吹!」
駆け寄ってそのままガバッと両腕を広げ、谷ケ崎を大きく抱き締めた。心の大きな兄が引きこもる弟を抱き止めるように。ぎゅうと深く肩を抱き込んで、無事を祝う。
「あぁ良かった!心配したんですよ、凄い勢いで飛び出していってしまったからそのまま壁を壊して進んでいってしまうんじゃないかって!」
そこか?
「…そんなことしない」
思わず、落ちていた気持ちからふと笑みが溢れた。これはきっと時空院の持つ不思議な力だ。沈んでいたものが少しだけ、掬い上げられた。
「こちらに。有馬くんなら大丈夫ですよ」
ほらと谷ケ崎の手を取って、ベッドまで導いていく。そこに横たわる有馬は顔色こそ瀕死の色をしていたが、呼吸はしてるようだった。
有馬の手の上に、時空院は谷ケ崎の傷んだ手をそっと重なるように置いた。
「大丈夫ですよ伊吹」
少し躊躇して怯えたその手の上から、時空院も労るように手を重ねる。
「ほら、生きている人間の体温でしょう?」
死を知っているからこそ分かる。血の通った感触に、谷ケ崎は静かにほっと胸の奥底から息をついた。
「おかえりなさい、ですね」
燐童も泣きそうな笑顔で谷ケ崎の甲に手を重ねる。
両サイドから時空院と燐童にぎゅっと挟まれるように支えられて、谷ケ崎伊吹は今、ここに立っていた。
『この世界に俺たちの居場所なんてない』
その瞬間、己の中にあった絶望に答えが見えた。
こんなオンボロの廃屋で重ね合う手を見て感じた想いは、これから先もずっと上手く言葉にはならないと思う。
これでいい。これだけでいいんだ。
胸が苦しくていっぱいになっていく。
唐突に思い知って込み上げてくるこの苦しさを逃がしてしまいたくなくて。空いている手でぐっと服の中のネックレスごと胸を押さえた。
(何も出来なくてもいい)
世界を変えるなんてそんな大それたことは出来やしない。
人を傷つけない真っ当な生き方なんてとうにわすれてしまった。
変えたいと願う未来はきっともう人に褒めてもらえるような、見せびらかせるものじゃないかもしれない。
山田一郎みたいになんて、なれやしない。
でも、それでいいんだ。
今ここにあるこの四つの温もりだけで、…俺には充分なんだ。
失くしたものはもう戻ってはこない。
代わりを見つけて生きるなんて、そんなのは"持っている奴"が言えることで、どれだけ足掻いても俺にはとてもそんな風には割り切れない。そうだ、分かった。
後悔は消えない。罪も、離別も、なかったことになんて出来やしない。
でもせめてこの小さな世界だけでもいいから、誰にも壊されたくないんだ。
生きていきたいんだ。
誰かに赦してほしいなんて言わないから……ただこの手の平にあるものだけでいいから…。
守らせてほしい。
こんな方法しか、こんな生き方しか、もう知らないけれど。
「…ただいま」
ようやく言えたその言葉は、少しだけ泣いていた。
――……
夢を見た。
真っ暗な世界を歩いていたら、唐突に目の前をふらふらと覚束無い足取りで歩く子供の背中を見つける。その子供は見るからにしょんもりと肩が落ち込んでいて、ぽてぽてと目的もなく歩いていた。何となく気になって、声を掛ける。
「おい、谷ケ崎」
あ?…自分で自分の発した言葉に驚いて、そこで目が覚めた。
有馬の手に手を重ねて、何やら親を待つ雛鳥のようにぎゅっと寄り添い立つ三人組が、そこにいた。
「は…?何…これどういう状況?」
思わず口をついて出た感想に、三人はハッとこちらを一斉に見た。そうしてそれぞれが安堵したように息をついたり、笑ったり、……驚いたように目を丸くしていたり。
「…んだよ谷ケ崎、死体が喋ったとでも思ってんのか」
身体中の痛みに「あーくそが」と暴言を溢して、やれやれ息をつく。
両脇から二人に支えられるようにして立っているそいつが、今しがた何をしてきたのかなんて、聞くまでもない。
服の汚れ。顔色。目の光。一目で分かる。"破壊者"のスイッチが切れた直後だ。心細げな、覇気のない声だった。
「有馬…大丈夫か」
「お前よりかは百倍な」
秒でさっくり打ち返すと、谷ケ崎は何が後ろめたいのか微かに目を伏せてしまう。
罪悪感…そんなものにいつまでも苦しむくらいなら、いっそ俺たちなど捨ててしまえばいいのに。
(不器用なガキ)
……それが出来ないからこそ、こいつなのだろうなと、もう諦めている。仕方のない奴。手のかかる奴。
「~あのなぁ、男が寄って集ってめそめそしてんじゃねーよ…」
4段層の一番下になっていた自分の手を引き抜いて、仕方ねえなと大袈裟に溜め息を吐いてみせた。笑ってしまう。
「ったく、てめえらマジで…」
そうしてそのまま届く範囲全部を掻き込むようにして、一番上から手を重ねる。
燐童も時空院のバカも…一番下になった谷ケ崎の分も。振りほどかずに全部まとめて強く握った。
「俺がいなきゃ締まらねぇー奴らだなぁ」
どんなちっぽけな手の平でも、お前が手離せないって思ってんなら……もう一緒に持ってやるしかねえんだよ。