名は体を表す「谷ケ崎伊吹!」
まるで壁に雑巾を叩きつけるような、高圧的な呼び出し。
ボロボロのベンチに座っていた谷ケ崎は、ひっそり溜め息を吐いてから立ち上がった。
グラウンドの片隅。時空院と谷ケ崎は与えられた自由時間を中身のない会話で過ごしていた。
見渡せば数名の囚人達がチームを組んでハーフコートバスケットをしていたり、いかにもな輩がヒソヒソと悪趣味な取引をしていたりと、それぞれが束の間の自遊に興じている。
(やがさきいぶき)
一触即発のファーストコンタクトを経て、谷ケ崎の名前は事前に聞き知ってはいたのが、今こうして実際に彼が呼ばれている姿を見ると、なんだか不思議な感じがする。
ぽてぽてと看守のもとに向かった谷ケ崎の後ろ姿からは、あの時のようなヒリついた暴力の覇気は一切感じられない。スイッチが切れたぬいぐるみみたいだ。
看守は呼びつけた谷ケ崎に何やら指示をしているようで、座ったままそれを眺める時空院は谷ケ崎の名前を頭の中で繰り返していた。
どうせこの先どうなるかも分からない檻の中だ。会話を交わすことはあっても、互いに自己紹介らしい自己紹介や身の上話なんて、それまでは一度もしてこなかった。
もしかすると谷ケ崎は時空院の名前さえも知らないかもしれない。それほどに、この頃の谷ケ崎の他人への興味は希薄なものだった。
「そういえば、いぶきと仰るんですよね」
看守とのやり取りを終えて戻ってきた谷ケ崎にそう尋ねると、小さい声で「あぁ」とだけ返してきた。躊躇も照れもなく、至って平然と頷く。
「どんな字を書かれるんです?」
もう一歩踏み込んでくる問いかけを撥ねつける理由も、谷ケ崎には特にない。
手近に落ちていた小枝で砂の地面に漢字を書く。伊吹。谷ケ崎伊吹。
とてもじゃないが綺麗とは言えない、幼い子供のようなアンバランスな字体。不器用な書き順で書かれるそれを時空院は朗らかに見守った。
「良い字を書きますね」
「…字?」
谷ケ崎は目を丸くして首を傾げる。その様子で意図を察し、時空院も同じように拾った小枝で"伊吹"の字を丸で囲った。まるで小学校の答案用紙だ。
「春の息吹と言うでしょう?厳しい冬を乗り越えて暖かな春を知る、とても前向きなお名前ですよ。それにこの『伊』という漢字は聖職者を表しますから、人との調和や信頼を重んじるような"リーダーとなれる人"という意味にも受け取れますね」
ほら、と『伊』の漢字のツクリを解いて絵に描いてみれば、確かにそこには右手に杖を持った人が現れた。
「知らなかった…」
とても分かりやすい解説に素直に感心するが、反面、その由来はどれもとても居心地が悪い。谷ケ崎の微妙な表情を尻目に、時空院は面白いと笑った。
「今ここにいる"伊吹"とはまるで正反対な意味合いになりますねえ~?」
伊吹。明らかに嘲笑を含めた呼び方だ。にたにた覗き込んでくるその顔に、思わずむむと目が据わった。
「そういう自分はどうなんだ」
さぞ立派なんだろうなと強気に返してやると、「私は、」と谷ケ崎が書いた名前の下にフルネームを書き連ねる。
「時、空、院、丞、武、です」
一文字づつ発声しながら書かれるその字は、谷ケ崎のものより形は格段に綺麗だが、まるでパソコンで打ったかのように人間味のない筆跡だった。
「この字は分かる」
谷ケ崎は『武』の字を指差す。武器、武力、武装。谷ケ崎にとっては、対峙するものを攻撃する字という印象だ。時空院らしいなと思う。
「こっちの字は知らない」
知らないことを隠さずに知らないと言えるのが谷ケ崎という人間だ。その素直さを受け取った時空院は穏やかに頷いて、今度は『丞』を丸で囲う。
「『丞』は確かに名前で使われるのは珍しいかもしれません」
そうして『伊』と同じように、ツクリを説き解く。
「少し乱暴な解釈になりますが、穴に落ちた人をひざまずいて救い上げる様を描いたものが、この漢字の成り立ちなのだそうです」
「救い上げる…?」
思わず、解説の節々を唖然と反芻してしまう。
「この漢字の成り立ちから「助ける」の意味合いが強くなっていて、「困っている人に寄り添えるような優しい人」や、」
「優しい…?」
「古きに王を政治的に補佐していた「丞相」という地位のイメージから「知力でリーダーをサポート出来る人」という印象もありますね」
「補佐…?」
「ねえ伊吹、私にだって傷つく心はありますよ」
しくしくと大袈裟に胸に手を当てて嘆く時空院から隠すように顔を背けて、谷ケ崎はつい小さく笑ってしまう。だって、何せあまりにも似合わない。
「自分だって人のこと言えねえじゃねぇーか」
「ヒドイですねえ!キミよりは体を表していますよ」
「"丞武"のほうが一つも合ってない」
「"伊吹"のほうが合ってないです~」
「人を優しく助ける"丞武"なんか見たことない」
「"伊吹"こそ、人との調和を重んじる姿勢が見えませんね~?」
大人げない言い争い。でも、その"大人げない"を楽しんでいるのも事実だった。
「あぁ、そういえば…」と言い合いの途中で時空院は閃いてポンと手を叩く。
「?…なんだ」
何やら良い予感はしない谷ケ崎の一抹の不安をスルーして、唐突に発せられるのは、とんでもなくデカイ音量の声。北の空に向かって堂々と両腕を広げて放たれる声。
「そのままよ 月もたのまし 伊吹山!!」
爆弾が破裂したかのようだった。
彼方までよく通るその大声は当然グラウンドに響き渡って囚人達を一斉にビク!と驚かせる。
驚いたのは隣にいた谷ケ崎も同じだ。満足げな時空院の横顔を見て、唖然とする。…やっぱりイカれてる、この変態は。
宇宙に解き放たれた猫のように固まってしまった谷ケ崎に、時空院は晴れやかな笑顔で告げる。
「松尾芭蕉の句です」
そうじゃない。そこは別に聞いてない。
「この俳句の句意は、」
「オイうるせえぞ!!」
向き合う谷ケ崎と時空院の顔の間をバスケットボールが弾丸のように貫く。
実際にはどちらかにぶつけるつもりだったのだろう。が、二人はノールックで同時に軽く身を引いてそれを避けていた。それぞれに一瞬で冷えた鋭い視線に変わり、二人は同じ方向をゆらりと見やる。
「ぶっ飛ばされてぇーのかてめえら!!」
ボールを投げてきたのはスキンヘッドにタトゥーが入った男。腕に自慢があるのか、肩をぶんぶん振り回しながら谷ケ崎達に向かってきていた。背後には同じタトゥーを身体に入れた手下達を従えている。
「おやおや、何やら怒られてますよ伊吹」
「俺じゃない、丞武のことだ」
大真面目にヒソヒソ手を添えて口添えしてくる時空院に、谷ケ崎はじとりとした一瞥をくれてやる。
「どこが救いになるんだ、毎回人を巻き込みやがって」
「それは伊吹が不運の星に生まれた王だからですよ」
恭しくまるで導くように打ち返してくる。まったく、その口撃だけは敵わない。はぁ…と静かに諦める谷ケ崎の溜め息を、時空院はしてやったりで笑っていた。
「何ごちゃごちゃ言ってやがる!舐めてんのか!?」
やっちまえ!と一斉に走り出して殴りかかってくる有象無象。
「殺します?」
「…うっかりならな」
爛々と目を見開いて笑う怪物とただ静かに受けて立つ怪物。
「ぶっ殺してやる!!」
真正面に立っているのが何者なのかも分からないのか。愚鈍も甚だしい。対峙してもそれが怪物だと分からないような人間には、ぐうの音も言わせず絶望で射抜くだけだ。
暴力には暴力で返すのがここの常識。闇の常識。
「ぐは…っ!」
人間の身体に拳がめり込んだ瞬間に聞こえる、骨が砕ける音。腹の奥底でじわじわと低い炎が燃え広がる。この瞬間の興奮は、きっとこちら側の人間でなくては分からないだろう。この感覚は、一度知ったら戻れない。
手下達を蹴散らして、最後、スキンヘッドの首を掴んでいる頃には、もう意識しないうちにうっすらと口角が上がっている。
「わ、わわ悪かった!もう許し…、」
気づいたところでもう遅い。猛獣には手を出すなって、優しい家族に教わらなかったか?
「呆気ないものですねえ」
周囲に転がっている人間達を見渡して、時空院は肩を落とす。
「うっかりさんをするターンすらありませんでした」
失神している男の腕をぶらぶらと遊ばせて、次の瞬間には関節を逆に曲げる。すっかり戦意を失った呻き声は物足りず、おもちゃに飽きた子供のようにぽいと放り投げていた。
最後に倒したスキンヘッドは谷ケ崎に対して蹲って頭を垂れていた。喉が潰れて震えているその背中に、興味を失った谷ケ崎はうんざりとした息をつく。心臓の奥で燃えていた炎はすっかり鎮火して、あとに残るのは気だるい頭痛だけだった。
「ねえねえ伊吹」
この数分ですっかり定着している図々しい呼び声。
振り返ると、差し出された時空院の手にはポーションが二つ転がっていた。
「…なんだそれ」
「ガムシロップです」
はいどうぞ、とそのうちの一つがちょこんと谷ケ崎の手の平に渡された。よく分からないながらに、谷ケ崎も素直に受け取ってしまう。
「?…丞武のだろ」
返そうとする谷ケ崎の手をやんわりと押し戻した時空院は、まるでグラスを乾杯するかのようにそれを掲げて見せる。
「我らの勝利に祝杯を」
そう言って、楽しそうに笑っていた。
こんな物騒な残骸の中心で晴れやかに勝利を吟う時空院のスタンスには、重くなっていた谷ケ崎の気持ちは観念して、ふわりと軽く降参してしまう。意気揚々とポーションの蓋を開ける時空院に倣って、自分も恐る恐るそれを開封した。
「案外イケるものですよ」
「……。」
無言で放つ疑いの眼差しを物と模せず、ほらほらと促された。
「一気にいきましょう!」
「~…分かった」
視線でタイミングを合わせて、二人は軽く目の前までポーションを掲げる。
「乾杯」
指先で摘まんだポーションをぐいと煽って見上げた空。
どんよりとした灰色の雲一色で、それでも……誰かと空を見上げたのは久しぶりだったことを思い出す。喉を通った甘さは纏わりつく毒のようで、沁みわたる薬のようだった。
「……丞武はやっぱり頭がおかしい」
「伊吹ほどじゃないですよお~」
ぶっ飛ばしてやろうかと思ったが、ねっとりとした甘味に舌が怠くて止めといた。
――……
『勝利して、みなで祝杯をあげましょう』
『ガムシロはごめんだけどな』
あの時二つだった杯は、この喧嘩が終わったら四つになるんだろ。
上等だ。最後まで戦おう。
有馬も燐童も、きっと「こんなの飲めるか!」って笑いながら怒って、空を見るに決まってる。
それだけは、今、こんな俺でも信じられる未来だ。