乗り込め!モルカー! 初めてそのモルカーに出会ったのは警察からの追撃をなんとか振り切った直後だった。
「いやここから徒歩はさすがに無理だろ」
山を越えなくてはならない道すがら、道路脇の草木に絡まってか細い声で鳴いていたのが、その一匹のモルカーだった。
スリップして頭から突っ込んだ、というところか。自力で抜け出そうともがいてはみたもののおそらくどうにもならなくなってしまったのだろう。
ぷい~と完全に参ってしまった声が雑草の向こうから聞こえてくる。四人は歩道にはみ出たその尻尾を眺めて話し合う。
「……これ、人乗ってねえのか」
「そのようですねえ」
「生きてんなら乗れるよな」
「まぁ…野良ならなんとかなりますかね?」
モルカーは車だが生き物でもあるため見た目から性格まで様々。飼い主がいるモルカーは大抵主のことが大好きで、見知らぬ他人が乗車すると勝手に降ろしてしまうこともある。この山を徒歩で超えるのはさすがにキツイ。通りかかったモルカーを襲う手もあるが、人間は黙らせればいいとしてもモルカーから乗車拒否されれば本末転倒。ならばここでコイツに乗れればラッキーだ。
せーの、と四人でそのモルカーを引っ張り出して様子を伺う。絡まった草木から救助されたモルカーは目の前に並んでいるのがどんな人間達か知る由もなく、まるで「ありがとう」とでもいうように頭を上下に揺らしていた。
予想通り運転手は乗っておらず、きっと本来なら真っ白だったであろう毛並みは汚れて黒くなっていた。
「お前、一台か」
谷ケ崎の問いかけにうんうんと頷くたびにモルカー特有のきゅっきゅっと子供が鳴らすサンダルのような音が鳴る。
「俺たちのこと、山の向こうまで乗せてくれないか?」
すかさず燐童が人当たりのよい営業スマイルで続ける。
「もちろんタダでとはいいませんよ。向こうの街に着いたらレタスでもなんでもご馳走させてください」
レタス。その一言でモルカーの耳がぶんぶんと振り回される。どうやらこの個体もレタスには目がないらしい。同時に腹を空かせていたらしく、車体からぐうと腹の根も鳴いた。
「よし、交渉成立だな」
早々に窓から乗車する有馬は運転席。助手席には燐童。後部座席には谷ケ崎と時空院が並ぶ。
「あれ。中は意外と綺麗ですね」
「故障も無さそうだぜ」
「野良というよりは迷子というところでしょうかねえ」
もふっと柔らかい感触の座面を撫でながら、谷ケ崎は三人の会話を聞き流していた。
あれから、もう何ヶ月経つだろう。
拾われたモルカーは結局今もD4を乗せている。もちろん正式な所有手続きはしていない。
車体の基本色は白。山を降りてからさすがにこの汚れっぷりは目立つと四人で洗車をしたのだが、なかなか落ちなかった黒い汚れが点々と腹や足、耳の端に残って斑模様になっていた。
途中、迷子ならば捜索願が出ている可能性もあるからと、宿泊したホテルで乗り捨てようとした。
駐車場に置いていかれることを察したモルカーは慌てた様子で四人を追いかけて、どこまでもついてこようとした。頑なに冷たい態度で去っていこうとする四人に、ついにモルカーは心細く泣き出してしまう。しくしく。とぼとぼ。諦めずに健気に四人の後ろをついてこようとする。それでも、振り返らずに無視して捨てていく。……という判断が、谷ケ崎にはもう出来なくなっていた。
「甘ちゃんが。これで俺らに足がついたらてめえのせいだからな」
再び乗り込んでそう煩わしげに吐き捨てた有馬が、ひっそりとハンドルを握り締めてくれたのはモルカーだけが知る内緒の話だ。
D4を乗せたことで、普通車両だったモルカーはパトモルカーとのカーチェイスや細い路地を突破するコントロール力も備わっていき、今では立派な脱獄犯専用モルカーに成長した。
「たまには変装させてあげないと、駐車中に見つかってしまうかもしれませんよ」
付き合いが長くなれば乗っている車体を捜索されてしまう。時空院の提案で時折帽子を被ったりサングラスをかけたり。モルカー自身もそれを満更でも無い様子で楽しんでいて、燐童がスマートフォンで写真を撮ろうとすればキリリと決め顔をするようなお茶目な性格だった。
「あいつ、どんどん俺らに染まってね?」
休憩に立ち寄ったパーキングエリア。駐車したモルカーを遠くに眺めながら有馬は煙草を吹かす。……モルカーの中ではなんとなく吸えないのだ。
「有馬くんが乱暴な運転するからですよ」
ガムシロップしか入っていないコーヒーカップを片手に時空院も同じように眺めてふふと笑った。ちょうど谷ケ崎が燐童に手伝ってもらいながら大きなレタスを千切ってモルカーにあげている。
『「連れていく」と言い出したのはお前だろ』という有馬の主張により、モルカーの世話は谷ケ崎が担当すると決めた。
決めたはずなのだが、不器用さが気にかかって結局ああして手を貸してもらっているのが現状だ。まるで初めて犬を飼う家族のよう。
最初の頃、時空院がレタスにコンデンスミルクを丸々一本ぶっかけて差し出そうとしたら阿久根からだいぶ叱られてしまった。どうやらモルカーには甘味料は毒だと言う。
「それは残念」としょんぼりする時空院に、有馬は「お前の摂取量は人間にも毒だけどな」と目を据わらせていた。
そして驚いたことに、いつもなら時空院の糖分補給を特に気に留めない谷ケ崎までもが ひっそりとモルカーを時空院から遠ざけようとした。
「丞武···だめだからな」
あのじとーとした疑いの眼差しはそれなりに悲しかったので、あれから時空院はモルカーに糖分をおすすめすることを止めている。
「······ったく」
ショリショリとレタスを咀嚼するモルカーを囲んで、谷ケ崎と燐童はブラッシングをしている。
ほのぼのと長閑な光景に舌を打ち、有馬は煙を深く吸い込む。肺に溜まった重みを長く長く吐き出して、小さな声で短く言った。
「……いつか捨てるんだぞ···」
情は凶器だ。自戒に近い言葉。いつか来る別れを、我々はいつだって心に留めている。 時空院はそっと目を閉じて微笑んだ。頷く。
「えぇ、そうですね····」
名前はつけない。それが四人の暗黙の了解だった。それぞれが、このままではいられないと分かっている。
「この辺りは主要都市って感じですかね、どこかに泊まれるところがあるといいんですけど…」
その日、燐童のナビゲーションを頼りに大通りの渋滞を避けて運転をしていた。
地図アプリや地元のネット掲示板を駆使して セキュリティーチェックのあまい宿泊施設を検索する。出来ればモルカーも格納されずそのまま駐車させてくれる施設がいい。いざという時にすぐ乗り込んで連れ出せるように。
そうして色々と調べていると、急に運転席の有馬が「おい!?」と声をあげた。次の瞬間、車体が信じられない速度で急発進。背中がシートにぐいと押し付けられるほどのスピード。
「なんですか!?」
驚いて有馬を見たが、運転手も慌ててハンドルやブレーキを手当たり次第に操縦しようとしている様子。
「くそが! おい! 止まれ!?」
しかしモルカーは全くいうことを聞かず、今度は曲がり角を猛スピードで左折。ぐいん! 激しい遠心力で後部座席の谷ケ崎と時空院の身体が一気に右に寄り転がる。
「どこ行くんだ」
「そんなに慌てなくてもいいでしょう」
ジェットコースターのような状態にも関わらず暢気な口調で文句をいう二人に、有馬は叫ぶ。
「知るか! いうこときかねえんだよ!」
すれ違うモルカー達が驚いてくるくるとスピンして目を回している。ノーブレーキでぐんぐんスピードを上げていくモルカーに、四人は成すすべなく運ばれていた。
どこをどう走っているのか把握できないまま、有馬は目の前に迫るガードレールに目を見開く。このまま直進したら直撃は免れない。ブレーキを蹴り飛ばすように踏み荒らすが、モルカーには一向にいう事をきく気配がなかった。こんなことは初めてだ。
「~~~っ!!」
迫りくるガードレールに、燐童はぎゅっと目を閉じて衝撃に備えた。シートベルトを握り締める。
キキー! 激しい擦り切れ音。
トップスピードからの急な減速と急停止に、車内のすべてが宙に跳ね上がる。踏ん張っていなかったら車外に放り出されていたかもしれない。つんのめった身体がドンと元のシートに落ちて、四人はしばらく茫然と固まっていた。
なんだったんだと唖然と目を見合わせて、それぞれ命があることにようやく息をつく。どこにもぶつからずに済んだようだ。すぐさま有馬の怒号。
「~てっめ! ふざけんな殺す気か!?」
さすがに思い切りハンドルを叩いてしまう。憤った勢いで車外に出て、モルカーを怒鳴ろうとした。しかし……
「……ぁあ?」
モルカーは感極まった表情で目の前の建物を見上げて、ぽろぽろと泣いていた。
「元の持ち主がこの病院に通院しているか入院している…といったところでしょうね」
モルカーが停まったのは大きな病院の駐車場だった。病室の病棟を真正面にして急停車したモルカーは、あの後どれだけ声を掛けてもこの場を動こうとしない。
有馬に続いて車を降りた三人も、モルカーの様子がおかしいことに気がついて責める言葉が出なかった。
静かに泣き止んだモルカーは今度は妙にしんと神妙な面持ちで食い入るように病棟を見ているだけだ。
四人はどうしたものかと目配せして眉を潜める。急発進したのも、ここに停まったのも、きっとこのモルカーの思い出に触れたからだろう。それは今まで四人が考えるのを避けてきたことだ。どんなモルカーにも持ち主はいる。
「どうすんだよ、このままここに置いてくか?」
溜息交じりにそう言う有馬は少し苛立っているようだった。
「持ち主が近くにいるならそうしてあげた方がいいのかもしれませんけど……」
燐童はチラと谷ケ崎の表情を見やる。モルカーを見つめている白い眼は、何を考えているのか分からない。けれど置いていくならせめて持ち主を見つけたいと言い出すような気がした。そう予感したのは燐童だけではない。先手を打つのは時空院。
「本当にこの病院に持ち主の方がいらっしゃるのか調べたほうがよいのでは?」
「はあ? んでそんな面倒くせえことまでしてやらなきゃなんねぇーんだよ」
苛立ちが強まった有馬に、時空院は穏やかに笑って返す。
「もしここでこの車体がまた路頭に迷って警察に保護されたら、我々と行動していた履歴もすべて明かされてしまうかもしれません。持ち主の方がいるのなら「迷子になっていたところを保護した」と丁重にお返ししたほうが安全でしょう」
警察に見つかるくらいなら一般人を上手く言いくるめておさらばするほうが得策なのは確かだ。
「……時空院さんのいうとおりですね。でも、探すといってもどうやって」
「シロップ?」
不意に聞こえた声に四人は振り返る。一人の初老の女性が、脇に立ち並ぶD4に目もくれずモルカーに駆け寄って、その耳を愛おしく目を閉じて抱き締めた。
「入院していたのは主人なんです」
シロップと名付けたのも主人だと、女性はD4に語った。
「素敵なお名前ですねえ! ご主人も糖分がお好きだったんでしょうか!?」
目を輝かせる時空院のことは、有馬が横から肘で小突いて黙らせる。
女性はようやく見つかったと心の底から安堵して、涙が流れる目元を指先で拭ってモルカーを愛おしく撫でる。
けれどモルカーのほうは未だに意識が病棟のほうに集中していた。女性を蔑ろにしているわけではなく、脳内キャパシティーが病棟のほうに引っ張られているようだった。
「……何度も「もうここには来ちゃダメ」と話していたのに…」
『入院していた』という過去形。モルカーが女性の言葉を聞き入れようとしない様子。
「ご主人は……?」
確信めいた燐童の問いかけに、女性は寂しく微笑む。その笑みが物語る。主人はすでに亡くなっていた。
「通院していた頃からこの子が主人をこの病院に連れていってくれていたんです。入院するようになってからはほとんど毎日この子は一人でここに来て、主人もそれを知っていたから駐車場が見える病室をお願いしていました」
主人は弱る身体を無理やり起こして、駐車場を窓から見下ろした。精一杯の笑顔で手を振ってやれば、シロップはいつだって元気に耳を揺らして上体を起こして前足で手を振り返す。元気になってね。ボクはここで待っているからね。
「主人が亡くなったことは理解しているはずなんです…」
葬式にはもちろんシロップも参加していた。二度と目覚めない主の寝顔を、夫人とともに見送った。けれど、頭で理解することと心で受け入れることは違う。
「だけどシロップはしばらくすると一人で勝手にこの駐車場に出て行ってしまうようになりました。私はモルカーの運転が出来ないので、……その度におまわりさんに連れて帰ってきていただいて…」
主人が亡くなったことをまだ整理しきれなかったのは夫人も同じだ。そのうち、もう帰ってこない主を迎えに行こうとするシロップを見ているのがツラくなってくる。
「ある日、あまりにも主人の影を探すシロップに私がつい大きな声で「もうやめて」と泣いて叱ってしまったんです…。そうしたら……急に飛び出してそのまま行方不明に…」
語りながら、夫人は胸を押さえて泣き出してしまう。可哀想なことをしたという罪悪感。寄り添ってあげられなかった後悔。
警察やビラ配りでどれだけ探しても見つからないシロップに、心がズキズキと痛んで仕方がなかった。そうして気がつけば夫人もまた、こうしてこの駐車場に足を運ぶようになっていったのだ。
「ツラいのはシロップも同じなのに、どうして叱ってしまったのかってそればかり考えて……。でもまさか今日こうして見つかるなんて思ってもみなかった」
涙を拭った女性は全身全霊を込めてD4に「ありがとうございます」と深々と頭を下げた。その姿に、珍しく燐童でさえも上手く言葉が返せない。
「いえ、…あの、僕達は……」
ただ便利な足として利用させてもらっていただけだ。まさかそんな経緯で迷子になったモルカーだなんて思いもしなかった。脳裏に過ぎるのは、拾ってからずっと明るく走り回ってきた姿。颯爽とD4を運んでくれるその乗り心地には、主を失った過去など微塵も感じさせなかった。
このモルカーはただひたすらに「助けてくれてありがとう」の思いで自分達をここまで乗せてくれていたのだ。
「………」
言葉に詰まる燐童のそばで、谷ケ崎はそっと踏み出してモルカーの横に立った。目線は彼と同じように病棟に向けている。
もうそこにはいない誰かを想う気持ちを、ひっそりと噛み締める。
「……分かってるんだろ」
もう主人がそこから帰ってこないことを。掛けられた言葉に、モルカーはぷいっと反抗的に身体全体を横に振った。受け入れられない。受け入れたくない。
「お前の主人はもう」
ドン! それ以上は言わせまいとモルカーは谷ケ崎に横から体当たりする。軽い力でも車体がぶつかってくればさすがに衝撃はある。軽くよろけた谷ケ崎に女性は慌てて謝って支えようとしたが、時空院がそっと手で制して微笑んだ。モルカーはキリリと厳しい威嚇の目で谷ケ崎を睨んでいたが、谷ケ崎は前を見たまま静かに続けた。
「……そうやって見ないふりをしていたら、いつまで経っても苦しいままだ」
そうして胸にあるネックレスを大切に握る。
「その悲しみに正面から向き合わないと、思い出すことさえ出来なくなる」
自分がそうだった。兄を失った喪失感。未来の見えない虚無感。そこに生まれたのは逆恨みの感情ばかりで、兄を心から想ってやれる余裕はなかった。兄にだって家族は俺しかいなかったのに……。
俺は道を間違えた。今でこそその間違いがこうして不思議な縁を生み、心を救われているけれど。でも決して正しい道じゃない。やり直せる間違え方じゃない。
「急に大事な人が死んだことを受け入れろなんて、そんなのは無理な話だ。俺だってよく知ってる。でも、お前にはこうして心配してくれる家族がいるんだろ…?」
モルカーは谷ケ崎の顔をじっと見つめていた。暖かく包まれて氷が解けていくように、毛羽立っていた車体がゆっくりと落ち着いていく。
「これから少しずつでいいから、失ったものとちゃんと向き合うんだ。……いつか誰かと笑って、思い出話が出来るように」
俺だってまだ上手くは出来ないけれど……。最近は兄のことを思い出しても苦しむばかりじゃなくなった。兄のどうしようもない武勇伝を話して有馬達が笑うと、俺も一緒になって笑うことができる。本当にどうしようもない人だった。でも、……俺にとってはやっぱり家族だったんだ。
「なぁ…お前が家を出て行ったのは叱られたからじゃなくて、家族が泣いていたからだろう?」
大きな病院を眺めていた谷ケ崎は、そこでモルカーに視線を向けた。その確認に誰よりも息を飲んだのは、後ろで話を聞いている夫人だった。
「主人が帰ってくれば泣き止んでくれるかもしれないって……そう思ったんだろ…」
叶うことのない願い。それでも、走り出さずにはいられなかった。
優しさゆえの脱走。自分の悲しみよりも、家族が悲しんでいる姿のほうが何倍もツラかった。
無我夢中で主人と行ったことがある土地を遡ろうとした。探そうとした。どこにいるの。帰ってきてよ。どこへだって迎えにいくから。
そうして我を失って躍起になるがあまりスピードを誤り、コントロールを失って山道のカーブでスリップ。そのまま道路脇に突っ込んでしまったのだ。
「こんな俺たちにここまで付き合えたんだ。お前は強いから、きっと乗り越えられる」
誰かのために走り出せる強さがあるなら、前を向いて自分自身とも向き合えるはずなんだ。お前なら出来る。
決して無理に押しつけることはなく、けれどぐっと心に沁み込む谷ケ崎の言葉。シロップはもう一度ゆっくりと病棟へ目を向ける。主人との思い出が次から次へと甦ってとまらない。
『次はどこへ行こうか、シロップ!』
どこからか聞こえる声は、頑なに蓋をしていた悲しみを解き放つ。ぷいっぷいっとしゃっくりのように嗚咽を漏らしてから、ついに気持ちが溢れ出る。
悲しいよ。寂しいよ。悔しいよ。……大好きだったよ。
「ぷいぃー!!」
シロップは天に向かって噴水の涙を吹き上げてわんわんと泣いた。
一際高い鳴き声は晴れ渡った空に響き渡り、それはまるで大切な人を天国に送り届ける汽笛のようだった。
「本当にいいんですか……?」
駐車場。燐童は夫人から両手で鍵を受け取った。
散々と泣き明かしたシロップはしばらくの間、夫人にこしこしと車体を摺りつけていた。ごめんなさいというモルカーなりの謝罪と甘え方らしい。
「私はモルカーを運転できないから、この子に窮屈な思いをさせてしまいます。あの人は旅行が好きだったから、シロップにも色んなところを旅してほしい」
心から温かい思いで託してくる夫人に、困惑した燐童は打ち明ける。
「あの、…実は僕達、」
「D4」
穏やかな口調で答えを口にした夫人に、一同はぎょっと目を見開く。驚かれたことがおかしかったのか、夫人はクスクスと笑った。数日前の新聞に載っていた写真を思い出す。高速道路を逃走している脱獄犯のニュース。白黒の写真では確信は持てなかったが、シロップではないかと思っていた。
「新聞で最初に見た時はどうしようかと思いました。シロップが虐められていると思ったから…」
でも、と優しい眼差しは谷ケ崎に向けられる。
「貴方達ならきっとこの子を大事にしてくれる」
確かな想いを受け取った谷ケ崎は、夫人から目を反らさなかった。正直に答える。
「安全な旅は約束は出来ない。でも、絶対に見捨てたりはしねえ」
その真っ直ぐな決意に、燐童も頷いて同意した。
思い返せばシロップはもはや立派な脱獄犯専用モルカーだ。危険と隣り合わせのカーチェイスだって何度もこなしてきた荒くれ者。乗りこなせる人間がD4以外に一体どれだけいるというのだろう。
「確かに。こんなに有能なモルカーを乗り捨てるなんて、そんなもったいないこと出来ませんね」
生意気にもそう言って胸をはる燐童に、有馬は呆れ笑って目を据わらせる。
「いや運転すんの俺だろどうせ」
「有馬の運転だからやっぱり安全は保障できないな」
「ぁあ!? 一生後部座席の人間に言われたかねぇーわ!」
「あぁ、いいことを思いつきましたよ」
喧嘩腰が始まる二人に割って入り、時空院が唐突に人差し指を立てた。一同はえと疑いの目を向ける。こういう時の時空院の提案はぶっ飛んでいて大抵信用ならない。
「新聞や週刊誌に我々が掲載される際はシロップも写真に撮られるようにしましょう。そうすれば無事が確認出来ますし、どこにいるかも分かりますよ」
「……それ無事って言えんのか?」
「そんなことしたらシロップまで指名手配されちゃいますよ…!」
「でも懸賞金がつくかもしれないな、俺たちみたいに」
クスと小さく笑って賛同したのは谷ケ崎だけ。懸賞金。かっこいい! 話を聞いていたシロップはぷいぷいとやる気満々で鼻を鳴らした。その誇らしげな仕草に絆されて、有馬と燐童もやれやれと笑ってしまう。
「まぁどうせならとんでもねぇ金額つけさせねえとな」
「そうですね、捕まるわけにはいかない理由が増えましたね」
どこへだって連れて行くよと早速エンジンを吹かすシロップに、夫人はそっと安心して微笑む。こんなに前向きな姿を見たのは久しぶりだった。
「男同士の時間だ」と意気揚々とドライブに出掛ける主人とシロップを思い出す。この人達に預けるのはきっと正解。恐ろしい脱獄犯というイメージはとうに消えて、本当に心からそう思えた。
「いってらっしゃい」
四人がモルカーに乗り込み、駐車所を出発する。その間際、女性はそう言って笑顔で手を振った。独り立ちする子供を見送る母のような心配と慈愛に満ちた表情。
こんな風に送り出される脱獄犯なんて未だかつていただろうか。『家族』に馴染みのない四人はどうしたらいいのか照れが入ってしまい、困ったように笑ってしまったり、わざとらしく顔を背けてしまったり。それこそ息子のようなリアクションを返してしまう。
「ぷいー!」
そんな中シロップだけは素直に喜んで、D4を乗せたまま器用に手を振り返していた。
(いってきます、か…)
もう何年も口にしていない言葉だ。有馬は一度深呼吸をして、いざハンドルに手をかける。よしと口の中で呟いた。
「シロップ、てめえ俺の車になったからにはなめた走りさせねえから覚悟しとけよ」
「ぷいっ!」
任せて! 返ってくる気合のある返事に、思わず口角が緩む。
いい相棒だ。ハンドリングなら任せろ。傷一つつけやしねえから。
誰にも明かさない想いを胸に、アクセルを踏み込んだ。
黒い斑模様の白い車体。乗っているのは脱獄犯の男四人組。
カーチェイスなら他の追随を許さない最凶のモルカーは、今日もこの国のどこかを走っている。