嵐の夜に一ヶ月後の日米合作オーディションに向けて、心愛はジョギングを始めた。
気合いを入れて始めた自主トレに、僕も付き合うと森下から申し出た。本気で女優を目指す心愛を応援したい気持ちと、少しでも一緒にいたい気持ち。
借受人に辛辣な申告を告げる時、泣かれたり暴言を吐かれたりすることもある。何事も親身になってしまう性分。自分に出来ることはせめて債務者の生活が苦しくならないような返済計画を提案し続けることだけ。どれだけ苦心しても、最終的には無理にでも集金しなくてはならない。気が滅入ることが多いこの仕事の日々の中で、ほんの少しでも彼女に会えると気持ちが明るくなる。救われる。前向きになれるような気がした。
「ちょっと、タイム、待って、」
「ほらほら遅いよ、元体育教師のくせに~!」
体育教師だった頃に比べて持久力は確実に落ちていて、軽いジョギングなのに女性の心愛に追いつけないのはそれなりにショックだった。
でも、最近になってようやく身体が勘を取り戻し、走りながら会話を交わす余裕が出てきた。
「監督の作品に出られたらいいなぁ」
心愛の壮大な夢の話を聞きながら、そういえば自分はこうやって身体を動かすのが好きで体育に打ち込んだのだったなと思い出す。肺にたっぷり吸い込む空気を清々しく感じるのも、久しぶりだった。
本来自分が持っていた感性を、こんなにも引き出してくれる。恋は偉大だ。
その日、仕事終わりに合流した心愛と少し遠くの公園まで足を伸ばしていた。
数日前に発生した台風が東京を通過するのは今夜の予報。その天気予報をあてにしていたが、実際には思ったよりも早く雨が降りだしていた。
ぽつぽつとした雨ならまだしも、雨足は唐突に一気に強くなり、二人は公園の中をびしょ濡れになって走る。
途中、身体が痛いほどの雨粒の嵐に、森下はジャンパーを脱いで 少し遅れて走る心愛を引き寄せて その頭を庇ってやった。ずぶ濡れになっているにも関わらず、森下の影に入って「最悪!」と叫ぶ心愛は思ったよりもケラケラと笑っていて、思わずこちらまで笑ってしまう。
ここまで濡れたら確かにもう笑うしかない。ドラムを叩くような激しい雨音の中を走りながら、心愛は大きな声で森下を呼ぶ。先導するように隣を走る森下は向かう先を決めているような足取りなのだ。
「ねぇちょっと、どこ行くの!?」
「僕の家が近いので、そこまで走りましょう…!」
そうなの!? と驚いた心愛は目線を上げるが、頭を覆うジャンパーで少しだけ緊張した面持ちの森下の表情は見えなかった。
――……
女性をこの家に上げるのは初めてだった。
出所してから住んでいるこのアパートは一般的なワンルーム。自身も節制している身ではあるが、谷村姉妹が住んでいる線路沿いのボロアパートよりは立地も築年数も悪くはない。一人暮らしの男が住むにはこのくらいでちょうど良い。
……が、しかし女性を招くには向かないような気がする…。
玄関の前まで来て、何故かそのドアを開けるのに躊躇する森下に、心愛はツンと腕を押す。
「ちょっと。寒いんだけど」
ここまで連れてきておいてと責める声色に 森下は早々降参して両手の平を見せる。
「ちょっと、待っててもらえますか。さすがに片付けたいので…!」
どぎまぎと言う様子に「はいはいどうぞ」と頷いてやると、カギを開けた森下は猫が滑り込むように身を細くしてドアの中に入っていく。その様子があまりにも挙動不審なので、心愛はふと意地悪に笑ってしまう。
「何、女物の靴でもあるの?」
「ないですよ!?」
秒速で悲鳴のような返事がドアの向こうから聞こえて、今度は吹き出して笑ってしまった。
この頃にはもうそんな風に茶化して話題に出せるくらいには、二人の間で森下の過去は自然なものになっていた。
テレビニュースでは悪天候な関東地域の状況が逐一流されていた。ワンルームの真ん中でそれを見る森下はソワソワと落ち着かない。風呂場のほうから聞こえていたドライヤーの音が途切れたのはつい今しがた。自分は部屋着に着替えてタオルで拭けば充分だが、女性である心愛にはさすがに身体が冷えてしまうのではと思い、風呂を貸したのだ。
ガチャと部屋のドアが外から開いて、ハッとする。
「ねぇこれ、干して乾くと思う?」
そう言いながら部屋に戻ってきた心愛はすっかり濡れてしまった自分の服を手に持っている。
代わりに着ているのは森下のTシャツとスエットだ。もちろんサイズは全く合っていない。
「っ、だ…っ大丈夫だと、思いますけど……」
一瞬、言葉に詰まってしまった。濡れたままでは風邪を引いてしまうからと服を貸したのは自分なのだが、実際好きな女性が自分の服をぶかぶかに着ている姿は大変心臓に悪い。
せめて変な意識はしないように。大袈裟に視線を心愛から外して ハンガーを渡す。きっと相手はこれがどれほど勇気ある行動なのか思いもしないのだろう。ありがとうと軽く言って森下の前を通り抜け、濡れた服をハンガーにかけている。
カーテンのレールにそのハンガーを下げる心愛は 窓の外を見て驚嘆の声を上げた。
「すごい雨じゃない? うち大丈夫かな?」
テレビではニュースキャスターが止まっている電車の路線を告げている。最寄りはどこも運休になっているようだ。
雨雲は谷村宅の方角へ進んでいる。この雨の強さではいくら傘を差していても徒歩で帰ればまたずぶ濡れになるのは目に見えて明らかだ。
「電話貸してもらえる? お姉ちゃん家にいると思うから」
心配そうにそう伺ってくる心愛に「もちろん」と頷きながら、森下はさっきから考えていたことをついに恐る恐る打ち明ける。
「あの、……今日、泊まっていったほうが良いんじゃないかと…」
「え………」
一拍の沈黙。心愛はじっと森下を見たまま動かない。怖い。怒られるか呆れられるか。心中身構える森下もまた、じっと動けない。
心愛はゆっくりと指を床に差す。
「……あたしがここに泊まるってこと?」
「何もしませんよ!?」
食い気味に弁明してしまう。下心はない。断じて! 絶対に!!
「僕は心愛さんに指一本触れないし、どうしても不安なら僕が外に出ていっても構いません! ただこの雨の中で帰すのは心配だし、服だってすぐには乾かないだろうから今日中に帰るとなると夜になっちゃいますし、」
「電話貸して」
矢継ぎ早に身の潔白を訴える森下の主張を遮って、心愛は手を差し出す。「え…?」ときょとんとする森下に、もう一度。
「電話、貸して」
ほら早くと催促する心愛の手振りに遠慮はない。「はいっ」と慌てて受話器を渡す森下と目が合っても、つんと澄ました表情を見せていた。
真面目で堅物な森下に(あわよくばワンナイト)なんていかがわしい気持ちがないことくらい分かっている。彼は本心でこの悪天候の中で心愛を想って申し出ているだけだ。
(あたしが意識してどうすんのよ)
本当は微かに動揺している気持ちを見せまいと、努めて冷静に自宅のダイヤルを押していた。
「うん、そうなの。ちょっと今日は帰れないと思うから、明日帰るよ」
無事に自宅に繋がった姉との通話。心愛は心なしか森下に背を向けている。こんな狭いワンルームでは隠すことなど出来はしないのに、妙に小声になってしまう。
「泊まるから……うん、え?……どこって…」
こんな嵐の夜にどこに泊まるのか。家族として当然の質問だ。姉への返答に躊躇する心愛は、チラと森下を横目に見る。何とも言えない気持ちで心愛の背中を神妙に見つめていた森下も、その会話の流れと心愛の視線に思わず姿勢を正してしまう。
「どこって……言うほどでもないけど、」
言葉に迷っていると姉から何か疑いがかかったのだろう、心愛は慌てたように言う。
「違うって! 大丈夫、あの、ほら……泥沼金融の…」
苦渋の決断。もにょもにょとそこまで言ったところで、離れている森下の耳にも杏奈の驚愕する声が漏れ聞こえてきた。その声色には明らかに囃し立てる冷やかしが混じっている。受話器を持つ心愛の手に力が入った。思わずカッとなって声が荒ぶる。
「~~違う!!」
ガシャン!! 思いっきり受話器を叩き置いて通話を遮断した。
突然爆発した心愛にビクッ!と肩が跳ねた森下は、そこからしんと静まり返った心愛の背中を恐る恐るお伺いする。
「だ……大丈夫ですか?」
「何が」
ツンとした即答に焦ってしまい、いじいじと落ち着かない指先を抑えて懸命に訴える。
「いえ、あの、~~僕はお姉さん達にご心配を掛けるようなことは…!」
「するの」
「しません…!!」
断じて! 絶対に!!
いやらしい気持ちはないと分かってほしくて必死に見つめてくる森下に、心愛は貴重な代物を鑑定するかのように大袈裟に目を細めてみせる。その表情に対峙する森下も真摯に応えて見つめ返す。
数秒の睨みあいの末、心愛はようやく「よし」と頷いた。この家への私の宿泊を許可して進ぜよう。男としての信頼を勝ち取ったようで、森下もふうと胸を撫でおろす。
「寝るときは心愛さんがベッド使ってください」
当然のように言ってベッドの布団を整える森下に、心愛は眉を寄せる。
「あんたは?」
「僕は床で」
「何よそれ。泊まらせてもらうのにそんなの嫌」
森下は困ったように微笑む。
「さすがに女性を床に寝かせるわけには」
「別に一晩くらい平気。そんなヤワじゃない」
「でも、……」
心愛はきっと弱い者として扱われるのが受け入れられないのだ。この人は最初からずっと、誰かに弱さや心の脆さを見せることが出来ずにいるような気がする。
キリリと強い眼差しで引く気配のない心愛を見て、森下は少しだけ考える。出来るだけ角がないように笑った。
「分かりました。じゃあ、じゃんけんにしましょう」
え? と怪訝になる心愛へ手の平を見せる。ほら、大丈夫。怖くない。
「じゃんけんで勝ったほうがベッド。負けたほうが床。これなら公平でしょう?」
そんな提案をされれば心愛も「まぁ…いいけど」と受けるしかない。
結果、一発で森下の負け。負けた瞬間、森下はなぜかぱぁと明るい笑顔で心愛にパーの手を見せびらかしてきた。
「僕じゃんけん弱いんですよ!」
「……なにそれ、全然自慢することじゃない」
その笑顔で気付く。気を遣われたのだ。こちらが遠慮なくベッドを使えるように……。
まったくもうと息をついた心愛は観念して頷く。森下は意外と頑固な奴だから。仕方ないから、あたしが折れてあげる。
「分かった。じゃあお言葉に甘えてベッドは使わせてもらう。けど、代わりに何か作ってあげる」
「えっ!?」
心愛にしてみれば何のことはないお礼のつもりだったのだが、森下にとってはかなりの一大事だったらしい。唖然と声をあげたまま固まった森下に、「何? 文句あんの」と至近距離に詰め寄ると、慌てて両手を上げる。心愛の言動で一喜一憂する様子が可笑しくて、つい笑ってしまった。どうして……こんな女が好きだなんて、ほんとばか。
人一人が立って満員の狭い台所。洗面所などないワンルームでは台所の流し台は身なりを整える場所でもある。ほとんど使わない一口コンロは綺麗なもので、使用感がほとんどない。冷蔵庫も小型で、心愛の胸ほどの高さしかないものだった。
ほとんど中身のない冷蔵庫に、心愛はうーんと献立に頭を悩ませる。その隣で、森下はやはり落ち着かない。冷蔵庫の中をじろじろ見られていると何となく恥ずかしくなってきてしまうのだ。まだ心愛が中を見ていたにも関わらず、思わずパタリと扉を閉めてしまった。
「? ちょっと」
「~~いや、なんか、ちょっと…」
口ごもっている内に心愛は遠慮なく再度扉を全開にして中を観察しはじめる。
「あんたちゃんとご飯食べてるの?」
まるで母親のような口ぶり。痛いところを突かれて思わず苦く笑ってしまう。
「男の一人暮らしなんてこんなものですよ」
「それにしたってもう少し買い揃えなさいよ。大したもの作れないじゃない」
「……だって、この台所で料理をしてくれるのはキミが初めてだから……」
もじもじ言う森下の緊張が伝染してきそうで、心愛は「あぁもう!」と首を振る。
「~いちいちそう言うこと言わなくていいから!あっち行ってて!」と怒られてしまい、しょんもり肩を丸めた森下は台所から身を引いた。出会ってからずっと本当のことしか話していないのに、心愛には怒られてばかりだ。
冷蔵庫の少ない材料をかき集めた心愛に作れたのは、シンプルな卵チャーハンだけだった。皿も一人分しかないせいで、心愛の分はごはん茶碗、森下の分は汁物用のお椀だ。
「お皿くらい二人分用意しておきなさいよ」と言いそうになって、でもそれじゃまるで食事を共にする『誰か』の分を要求しているようだと気づいて黙っておくことにした。
「美味しい!」
何故かずっと正座して心愛の料理を待っていた森下は、一口目で盛大に目を輝かせる。
犬だったらきっと大きな尻尾を千切れんばかりに振っている。そんな幻覚が見えそうなくらいに喜んで食べ進めてくれる顔を見ていると……まぁ…正直、悪い気はしない。
「大した事ないでしょ、有り合わせで炒めただけ」
浮かれる気持ちをはぐらかしてそう応える心愛を、けれど森下は誠意をもって見つめる。
「本当に、すごく美味しいです」
嬉しいと全身全霊で伝わってくる。くすぐったい気持ちにさせられる。あぁもういやだな、コイツといるとこんなことばっかり。お米の一粒も残さずに食べるから、思わず可笑しくて笑ってしまった。
「ねぇ、何も食べてなかった人みたいじゃん」
「こんなに満たされる食事は他にないですよ」
「あんたの満足度安あがりすぎ」
「ちょうどいいでしょ?」
キミにぴったりだと思いますよ、なんてにやんと笑って冗談を言うから腕をひっぱたいてやった。
どうせ焼肉食べ放題が月に一度の贅沢な安上がりな女ですよ!
こんなただの残り物のチャーハンで。きっと一食三百円にもならないような夕飯で。
「また作ってほしいなぁ」
「調子に乗るな」
今の自分が世界で一番幸せみたいに笑うから、……こっちまで今までの人生で一番上手にチャーハンが作れたような気がしてしまった。
――……
夜が深くなるにつれ、台風は強さを増し、窓が音を立てて揺れるほどの強風が吹いていた。荒れる雨はたまに窓ガラスに勢いよく叩きつけられる。遠くでは停電も起きているらしく、窓の外は真っ暗だった。
その暗闇を眺めて心愛の脳裏にふと過ったのは、児童養護施設で過ごした幼い記憶。ボロボロの施設を襲う嵐の夜は怖くて怖くて、姉達にしがみついて眠っていたことを思い出す。
(……別に今はもう怖くもないけど…)
心の奥底では心細さを抱えていて、泊まらせてもらえて良かったと思っているのだ。……絶対本人には言わないけれど。
暗い記憶に封をして部屋を振り返ると、なぜか森下は台所に薄い長座布団を持っていこうとしていた。
「? どこ行くのよ」
「あ、僕はこっちで寝ます」
「こっちって…玄関じゃない。ここで寝ればいいでしょ?」
言いながら、心愛はベッドに腰を下ろす。確かに狭いワンルームだが、ベッドの横には人が寝転がるスペースくらいは残っている。テーブルを壁際に寄せれば充分寝られるはずだと提案すると、森下は悲愴な表情でぶんぶんと強く首を横に振った。
「交際もしていない男女が同じ部屋で寝るなんて良くないですよ…!」
「泊まっていけって言ったのはあんたじゃん」
瞬殺の反論。森下はうぐと喉を詰まらせる。
「っそれは、確かにそうですけど…っ」
「そんな狭いところにあんたみたいなのが転がってたら邪魔」
「~~いや、でも!僕は、」
切実な森下をむむっと睨めつけた心愛はぴしゃりと言い放つ。お口チャック!
「いいからここに座る!!」
「!? っは! はいっ」
仰せのままに! 森下は指差されたベッド脇のスペースへ慌てて滑り込むようにザッと正座する。その姿にうむと頷いた心愛は、けれどすぐにふふと表情を和らげた。
「ばか。台所なんて寒いでしょ」
待てを言い渡された犬のように上目に見上げてくる森下へ、心愛はベッドから布団を剥いで渡そうとした。
「布団はあんたが使って。私はベッドだけでも充分だから」
ぐいと押し渡される布団を、森下は慌てて押し返した。それじゃベッドを譲った意味がない。
「駄目ですよ、風邪引いちゃう」
「いいから」
「駄目ですって!」
「いいって言ってるでしょ!」
「駄目です!」
そうして何往復も布団を押し付けあっている内に、立ち上がった森下がベッドに無理にでも布団を戻そうとした。その勢いに巻き込まれて、小柄な心愛は布団と一緒にシーツに転がってしまう。
ぽふと布団を挟んで重なった二人の体は、まるで森下が心愛を上から覆いかぶさって押し倒したような体勢。
「!?」
思いがけず額と額が触れ合ってしまいそうなほど迫った距離に、ヒャッと息を飲んだのは森下のほうだった。ゴムで弾かれたみたいに瞬時に飛び上がってベッドから飛び退き、足が思いっきりテーブルの角にぶつかった。痛!? と打った足を抱えてけんけんと片足で飛び上がりつつ、大慌てで両手を激しく振るう。
「ご、ごごごめんなさい…! 違うんです! そういうんじゃないんですよ!? 違います!!」
ごめんなさいと何度も何度も謝罪する森下の勢いに、起き上がった心愛は目をぱちくりと瞬かせて唖然とする。そんなにオーバーリアクションされると逆に引いてしまう。きゅうりに驚く猫のようだった。
「と、とにかく! 僕は一晩くらい平気だから!」
ドタバタと狭い室内を動き回る森下は「ほら!」と引っ張り出してきた上着を羽織ってみせる。
「布団も心愛さんが使ってください。僕の家に泊まって心愛さんに風邪を引かせちゃったら、杏里さんにも杏奈さんにも怒られちゃいますから」
「ね!?」と精一杯に安心安全を訴える森下に、心愛は「バカじゃないの」と呆れて笑った。
「もう分かった。あんたの好きにすれば。頑固な奴め」
やれやれと肩の力を抜いて微笑むその表情に、森下は心底ほっとする。
いきなり覆いかぶさるなんてそんな下世話なことは絶対にしたくない。間違ってしまっただけだけど、そんな風に笑ってもらえて、許してもらえた。嫌われなくて良かった。それだけで充分気持ちが満たされる。
その信頼を絶対に裏切りたくはないと心に誓う。あれだけ近づいて初めて感じたシャンプーの香りが自分と同じだったことは、頭から掻き消すことにした。
――……
部屋を電気を消すのは、何となく止めておいた。もちろん妙なことをするつもりは微塵もないけれど、電気を消して視界があやふやになってしまったら自制心も朧げになってしまいそうで不安だったからだ。
『あの時』、咄嗟に自分の身を守りたかったとはいえ、包丁を持ち出してしまった気持ちの弱い自分を思い知っているから、僕は自分自身にこれっぽっちも自信がない。
「……心愛さん…?」
ベッドに背を預けて床に座ったまま、森下はそうと後ろを振り返る。小さな声で呼びかけても、返事は無かった。心愛は明るい部屋でも眠れる体質のようで、外の雨音に交じってすぅすぅと穏やかな寝息が聞こえてくる。
枕に柔く流れる黒く長い髪。布団の中で胎児のように蹲って眠っている心愛の顔は見えなかったけれど、この部屋で彼女が落ち着いて眠れているならそれで良い。出来るだけ音を立てないように視線を反らして息をつく。目を閉じて、深呼吸。心臓が痛くて胸を抑えた。
(…僕は到底落ち着いて寝られそうにないな……)
……まったく本当に自分でも厭きれるほど、男は難儀な生き物だ。
――……
翌朝、心愛が起きると森下はベッドの脇で座ったまま眠っていた。
窮屈に屈んで立てた膝に額を埋めて小さくなっている。スラリとした身長の高い身体。こんなに縮こまって痛くはないのかと心配になって、心愛はゆっくりベッドを抜け出すと森下の隣にしゃがみこんでその顔を覗き込む。案の定、寝苦しそうな寝顔。
「…………、」
森下はこの一晩、本当に指一本心愛に触れなかった。
『ごっこでしょ』
杏奈に言われた言葉を反芻する。女子少年院を出てから、ずっと誰にも寄りかかれなかった。
『心愛さんは今のままで充分魅力的です』
一目惚れをするなんて心に問題を抱えている証拠。こんな借金取りの言い分なんて信じないようにしなきゃと思っていたのに。なのに、……信じていいのかな、なんて。
(……卑怯でしょ、そんなの)
優しくされたからほいほい受け入れるの? そんなのコイツに甘えてるだけじゃない?
自分のことを話せないまま答えを出してはいけない。真っ直ぐに好きでいてくれるこの誠実さに、今のあたしは釣り合わない。
(嫌われたくない……)
どうせならもっと自分に自信があるあたしで向き合いたい。女優になって、認められて、生きていていいんだと実感できた時、きっとあたしは初めて自分を大事にできるような気がする。幸せになっていいんだと、自分を許せるような気がする。
(それまで待っていてなんて言えるわけない……)
どうしようもなく悲しくなって、心愛は八つ当たりのように人差し指で森下の頬をむにと突く。寝落ちている相手はんんと微かに愚図ったけれど、起きはしなかった。
「……ばかだねぇ」
ばかなのは、きっとあたしのほう。ごめんね、……ありがとう。
――……
ガチャンという物音で、森下はぼんやりと目を覚ます。窮屈に座った体勢で寝てしまった身体はがちがちに凝り固まっていたが、首を上げて台所に立つ心愛を見つけると一気に頭が覚醒した。そうだ、夢じゃない。
「おはよ」
平皿を持って部屋に戻ってきた心愛は森下の傍に膝をついて、テーブルに皿を置く。置かれた皿に並ぶのは、……
「……おにぎり…」
小振りのおにぎりが四つ。まさか朝食までと目を丸くする森下を見え、心愛は軽く笑ってふうと息をつく。
「こうなってたら洗い物もないし、食べるの面倒くさくないでしょ?」
ちゃんと食べなさいよ。そう小言のように言って立ち上がった。何やらもう帰る気配だ。
「あんたは今日休みなんでしょ。もう晴れてるから、昨日の濡れた服もちゃんと干しなさいよ」
「えっ! 心愛さん、もう帰っちゃうんですか…?」
あっさりと玄関に向かう様子を慌てて追っていくと、靴を履いた心愛は森下を振り返る。
「あたし早番なの。さすがに一回家帰らなきゃお姉ちゃん達うるさそうだし」
「あぁ……確かに…」
杏奈はきっと昨晩のことを根掘り葉掘り聴取したがるだろう。本当に何も無かったのだが、信じてくれる気がしない。姉のテンションを同じように思い描いた二人は苦笑いで顔を見合わせた。
心愛はそういえばと今着ているTシャツを摘まむ。
「この服、」
「返さなくていいですよ」
速やかにそう辞退する森下の穏やかな笑みに、心愛は首を横に振った。
「だめ。ちゃんと洗って返すから」
そうしてにやりと強かに笑う。少しだけ意味を持たせて言った。
「次会った時にね」
意味のない約束だ。こんなことわざわざ言わなくても、会いたがりの森下はどうせ心愛を日ので会館に迎えに来る。会えると分かっていてする約束は何だか滑稽で、なのに……とても大切なことのように思えた。
森下は胸の奥をきゅっと締め付けられて、参ったなとひっそり笑ってしまう。この痛みは何故だか全く苦じゃないのだ。
「…………、」
ふふと悪戯に笑う心愛はとても愛しくて、世界で一番愛らしく見えた。
「じゃあね」と玄関を出ていく背中に、名残惜しくて一歩だけ追いかけそうになる。
「心愛さん!」
追いかけて手を握って引き寄せてしまいそうになる想いを噛み締めて、ゆっくりと大切に彼女を送り出す。
「いってらっしゃい」
これは「さよなら」じゃない。まるで一緒に住んでるみたいな言霊だ。ほわほわと花を飛ばして嬉しそうに見送ってくる森下に、心愛は笑って頷いた。
「はい、いってきます」
こんな朝のたった一言がくすぐったくて堪らないなんて、今まで知らなかった。
――……
「あ!?」
心愛を見送って部屋に戻ると、カーテンレールに心愛の服が掛かったままだと気がついた。
持たせてやればよかったのに! 慌ててハンガーから奪うように手に取って駆け出そうとして……けれど、部屋の真ん中で足が止まって思いとどまった。
…………そうか。
『次会った時にね』
(″次″を期待してくれてる……?)
未来を約束できる今を大切にしたい。
心愛も同じように思ってくれていたら嬉しい、なんて都合の良い思い上がりかもしれないけれど……。
徐々に浮かれて浮き足立つ気持ちを抑えながら、森下は手にした心愛の服を丁寧にハンガーに戻す。
窓の向こうに視線を向けると、昨晩の大荒れの天気が嘘みたいに澄み渡った青空が見えた。
先の見えない暗雲は一変して晴れやかな快晴へ。台風一過の爽やかな秋晴れ。
「次って、今日でもいいのかな……?」
こんな晴天ならきっと今日中に服は乾くから。
どこへだって会いに行く。
どんな約束も、どうか僕に守らせてほしい。
…………この先、出来るだけずっと。
■イメージソング KOH+「キスして」