疑心暗鬼「では、ここで伊吹とはお別れです」
それは友人と「また明日」と別れる時のような、あっさりとした声だった。
谷ケ崎伊吹の腹に、時空院のナイフが深々と刺さっている。
柄を掴んでいる時空院の手に、谷ケ崎は本能的に手を重ねた。刃を突き立てるその手をぐっと掴んで動きを封じようとした。
目と鼻の先。間近に交差する視線。貫かれた苦痛に歪んだ白い瞳は、(なぜ)と必死に問おうとする。驚愕と疑心で揺れるその目の色を楽しむように深く見つめたまま、時空院は静かに笑っていた。
ばしゅ、と嫌な音が身体の中に伝わって、ナイフは引き抜かれる。肉の中から引きずり出された刃に絡みついた血液は飛び散って、地面を赤く塗った。
唐突な出来事に、有馬と燐童は一瞬何が起こったのか理解できずに立ち尽くしていた。
――……
港に程近い工業地帯。戦争が終わったことで事業が縮小され、稼動していてもそのほとんどがオートメーションの工場群。
倉庫やコンテナが並ぶこのエリアには、身を隠すのにちょうどいい建物がいくつか点在している。
防波堤に打ちつける波の音を聞きながら、D4はその中の一つの建物をしばらくの拠点とする予定だった。
建物の中は薄暗い。様々な作業ラインが組まれた入り組んだ構造の工場。閉鎖的な内部で、けれど唯一開けた空間があった。
階下をぐるりと囲う上階は、作業工程を監視するための足場が組まれて吹き抜けになっている。
据え置かれた大きな機械や排出される水蒸気を外へ逃がす為のダクトが張り巡らされた壁面。
こういう工場見学は、いくつになっても興味をそそられるものだ。
「マジで誰もいねえのかよ」
「凄いな…初めて見た……」
有馬と谷ケ崎が興味津々とそれらを眺めている後ろで、時空院は引率の教師のようだった。
「もうこの辺りは人の手を全く必要としていない工場ばかりですから、しばらくは拠点に出来そうですよ」
非常灯はついたままだし、水力発電のモーター音も遠くで聞こえている。燐童は首を傾げる。
「とは言っても、監視員くらいはいてもいいと思うんですけど…」
いくらすべて機械に任せていると言っても、警備員さえ導入していないなんてことがあるのだろうか。
「一応一通り見て回りましょう」
用心に越したことはない。燐童の呼びかけで、谷ケ崎は燐童と、有馬は時空院と、いつものように自然と二手に分かれようとした。
時空院が何の前触れもなく谷ケ崎を刺したのは、その時だった。
「では、ここで伊吹とはお別れです」
刺さっていたナイフが引き抜かれて、腹を押さえた谷ケ崎の足元がふらりとよろめいた。そこへ容赦のない追撃。
首を真横に切り裂くように頚動脈を狙った刃。直撃する寸でで身を引いて避けたが、鋭利な切っ先は皮膚に数ミリ届いていた。
定規で線を引いたみたいに切り口が出来て、そこから細く弾け飛んだ血液が時空院の頬を濡らす。
「っ!?」
ほんの数秒の出来事。「何してるんですか」と叫ぶよりも先に動き出すのは周囲の状況。
バタバタと駆け込んでくる数名の足音。ハッと上を見上げると、武装した女達に囲まれていた。燐童には見覚えのある隊服。
中王刑事局特殊部隊【言浚】
「谷ケ崎さん…!」
咄嗟に、燐童は谷ケ崎のカバーに入る。凶器から出来るだけ距離を取らせようと谷ケ崎を突き飛ばし、自分は時空院と谷ケ崎の間に立ち塞がる。何がなんだか分からない。でも、この男が谷ケ崎を攻撃したことは確かだ。ぐっと軋む心を押し殺し、時空院に向けて、マイクを起動しようとした。とにかく今は谷ケ崎を守らなくては。
「キミにそれが担えるとでも?」
あっという間だ。頬に唇が触れるほど距離を詰められる。耳元に甘く囁かれる声に心臓がぞっとする。鼻に届く甘い香りはきっと死神の香りだ。
戦闘の修羅場は燐童だってそれなりに経験してきている。けれど相手はそれを上回っていた。暗躍や騙し討ちなどではなく、本物の戦場、殺し合いを知っている軍人の動き。
躊躇いなく狙いを燐童に変えた切っ先は、確実にその額を仕留める動きで振り下ろされようとしていた。
ほぼ同時、周囲を取り囲んだ女達が上階からマイクを起動する。スピーカーが展開する音。どさりと力なく倒れる谷ケ崎。対峙する燐童と時空院。
瞬く間に展開していく非常事態に有馬は舌を打つ。こういう時は、判断の速さがキーになる。
燐童がマイクを構えるよりも先に、有馬は銃口を壁面に向けていた。暴走する殺意の刃は、有馬の一手により燐童には届かない。
バン!
有馬が撃った弾丸は一本のダクトを撃ち抜き、破裂した管から爆発的に水蒸気を噴出させた。狙いは的中。勢いよく噴射された蒸気は時空院に当たり、彼はコートを翻してその場から距離を取る。オーケー、そのまま良い子にしててくれ。
破裂した衝撃に連動して、脆くなっていたバルブが次々に誘発されていく。
バン! バン! 次から次へと破裂音が続き、高温の水蒸気が至るところから降りかかる。赤い回転灯が一斉に灯り、うーうーと耳を劈くサイレンが響き渡る。
全員が蒸気から逃れようと身を屈める中、有馬は低い体勢で駆け出し、燐童と谷ケ崎を回収した。ほとんど引き摺るように、谷ケ崎のパーカーの首を掴む。
「耐えろ」
悪いが背負うのは無理だ。重傷なのは分かるが走れ。たった一言にそれらの意図を全部詰め込む。
谷ケ崎もこの緊急事態を重々承知しているのだろう、有馬の力を借りつつも倒れないギリギリの姿勢で前のめりに足を動かしていた。
シュー…シュー…と空気が抜ける音。爆発した蒸気の勢いは収まり、屋内は徐々に視界が開けていく。
「………」
地面にぽたりぽたりと残された血の跡。貧しい兄妹が落としていったパンくずのようだ。あの脱獄からずっと履き込んできたスニーカーが、一歩づつその跡を踏みつけて辿っていく。
行き着いたのは建物の側辺。通路の突き当たり、海風で朽ちてしまったバルコニーの欄干だった。
ここから下へ飛び降りたということか。下にあるのは海。水面を見渡しても人影は確認出来ない。
(飛び込めばもうあの銃は使えない)
これはおそらくミスリード。彼らは飛び込んだと見せかけて他の経路に逃走した。
……しかし、あの傷を負った谷ケ崎を抱えて一体どれだけ走れるのか。
致命傷こそ与えられなかったが、あの出血なら適切な処置が出来なければ半日と保たないだろう。
……否、もしくは有馬なら多少の無茶はさせるかもしれない。
「話が違うじゃない」
不意に背後から掛けられた女の声は、明らかに嘲笑を含んでいた。相変わらず癪に障る声質だ。時空院は振り返らずに静かに笑う。
「そう遠くへは逃げられませんよ」
海を眺めたまま背中で答える様子に、女は大げさな溜息を吐きかけた。
「せっかくのお楽しみを譲ってあげたんだから、楽しませてくれなくちゃ嫌よ」
ね? ―――
女はわざと彼が持っていた肩書きでねっとりと呼びかけた。
「今は貴女のほうが上官ですよ」
黒い羽根を閉じたような背中は動じずに笑うだけ。あーあ、つまらない男。
私達は人を痛めつけることでしか息が出来ない人種。その狂気を同類だと認めているのだから、……期待外れなんてやめてよね。
――……
道路を走る車内は奇妙な静けさに包まれている。
この傷の谷ケ崎を抱えて海に飛び込むのは現実的ではなかったし、走って逃げるにはあまりにも分が悪い。
あんなありきたりの見せ掛けなんてその場しのぎなのは分かっている。でも一秒でもいい。あの場を離れる為の時間が欲しかった。
身を隠せる場所をと策を巡らせる中、ちょうど通りかかった一般車両を強奪できたのは不幸中の幸いだ。
「……くそが…」
交通量の少ない夜道をひたすら真っ直ぐに走り続ける。周囲一帯に警戒線を引かれる前に抜け出さなくては。
チラとバックミラーを見れば、後部座席では燐童が、ぐったりと横たわった谷ケ崎の首筋に自身の上着を強く押し当てて祈るように蹲っている。
取り乱した様子はない。けれど時折すすり泣くような鼻音が聞こえる。
……よりによって最も付き合いの長い時空院が谷ケ崎を裏切った。しかも、燐童が最も憎む言の葉党の息がかかった計略で。
(さすがジェネラル。人の傷つけ方をよくご存知で)
皮肉をたっぷり込めて心中そうボヤいてみても、現状は何も変わらない。込み上げる苛立ちを発散させるためにとりあえず一発ハンドルを叩き殴った。
あのイカレ野郎が何を考えているのかなんてこれっぽっちも分かる気がしない。考えるのはあとだ。切り替えろ。
海を渡るこの大橋を超えた先には高層ビルが立ち並んでいる。一か八か、目指すのはシンジュクディビジョンだ。
――……
数日後。
以前D4が使ったことのある廃墟の一つ。
ラブホテルだったらしい建物はあの頃よりも更に朽ち荒らされていて、屋内でも風が吹き込んでいた。
おそらく昔はロビーだった場所。フロントの前で、有馬はエントランスに向けて静かに銃を構えている。
「答える気はねえだろうが一応聞いておく。……なんで裏切った」
たった今到着した宿泊客のように暢気な雰囲気で入り口に立っているのは時空院。両腕は後ろで組んでいるが、ナイフを持っているのは分かっている。それ以上踏み込むなと警告している銃口に、相手はがくんと不気味な角度で小首を傾げた。
「それを聞いて有馬くんは私と一緒に来るのですか?」
薄ら笑い。まるで逢う魔が刻に遭遇する幽霊か魔物だ。掴みどころがなくて、何を考えているのかさっぱり分からなかった。
「くだらねえ質問だな」
言い終わると同時に引き金を引く。相手は黒いコートをひらりと翻して弾丸を避け、そのまま外へと姿を消した。
「………」
辺りは一気にしんと静まり返る。あの日から、時空院は有馬達の周囲にパッと現れては消えていく。どこで遭遇するか分からない緊張感で、身も心も休まる時がない。
正直、劣勢に置かれるストレスに耐性のない有馬は参ってしまいそうだった。今だって本当にそこにいたのかと疑いたくなる。あれは誰だ? 本当に時空院なのか。
チームの空気が悪くなれば誰よりも先に「糖分が足りていないのでは?」なんて茶化していたあのバカは、一体どこに行ったんだ。
(~……何なんだよ…)
壁に残った銃痕をいくら睨んでも、腹の中で渦巻くこの歯切れの悪い気持ちに答えは出せなかった。
銃声を聞きつけてロビーへの階段を降りてきた燐童は、誰もいないエントランスに銃口を向けたままの有馬を見て一瞬言葉に詰まる。ひどい顔色をしているのがここからでも分かった。夕暮れ時の冷たい風に乗って、微かに甘い残り香が鼻に届く。
「……時空院さんでしたか…」
「あぁ、ここも移動したほうがいい」
燐童の声でようやく意識をエントランスから離した有馬は、重く沈んだ表情を切り替えて銃をホルダーに戻す。足早に階段を上がってくる。
「谷ケ崎は」
「一番上の、奥の部屋に寝かせました。まだ一人では動けそうにないので……」
そうかと頷く有馬の背中を追って、燐童は続けた。
「相手が悪すぎます。僕らが今まで使ってきたアジトはすべてバレていますし、行動パターンも知られてる…」
そうして一番の戦力だった谷ケ崎はいの一番に封じられた。何もかも手の中で転がされているような気分だ。
有馬は横目で廊下の窓から外を確認しながら奥へと進んでいく。取り囲まれている気配はない。
「神宮寺のところもさっさと移動して正解だったかもな」
谷ケ崎の応急処置は神宮寺寂雷を頼った。
自宅に押しかけた過去の因縁に最初こそ警戒を露わにしていたが、谷ケ崎の容態と足りない頭数を見て何かを察し、無償で処置を施してくれた。
まだ万全ではないと引き止める医者の言葉を無理に振り払い、場所を移動したのはつい最近だ。……金で解決していない以上、言浚の追っ手をここに招くわけにはいかなかった。
「時空院さんに知られていない場所を探さないと…」
「当てはある」
短く答えた有馬に、燐童は目を見張る。
「本当ですか」
「匿ってくれるかどうかは別にしてな」
過去の関係に縋るのはごめんだと思ってここまできたが、今はそうも言っていられない。
相手は言浚を連れている。こいつらを見捨てて一人で逃げたところで見逃してくれるとは思えない。標的は全員だろう。確かに谷ケ崎に重傷を負わされたのは痛手だが、復活させればまだこちらにも望みはある。……あのバカの目を覚まさせるには、こっちもバカをぶつけるしかない。
谷ケ崎伊吹の武器は、あのとんでもない火力のパワーだけではないのだ。
「おい谷ケ崎、………」
部屋のドアを開けた有馬は、その先の室内を見渡して一気に脱力して天を仰ぐ。誰もいない。
「え!? そんな……」
後ろからついてきていた燐童も愕然と立ち尽くす。確かに谷ケ崎を寝かせたはずのベッドには、人が寝ていた微かな窪みが残っているだけだった。
形跡を見れば襲撃を受けたわけではないことは一目瞭然。谷ケ崎は、自らここを出て行ったのだ。何の為に? そんなの、決まってる。
「あぁ~……面倒くせぇぇえ……!」
有馬は思わずうんざりした声で唸る。そりゃそうだ。こうなるに決まってる。
裏切られた理由が分からない。ならば本人をとっ捕まえて聞いた方が早い。素直で実直なあのバカが考えそうなことだった。でもな、それは今じゃねぇーんだよ。
……自分の容態もわかんねえのかよ、あのガキは。
廃墟を覆い隠す山間。夕暮れ時、木々が落とす影は濃くなっていく。
黒いロングコートのフードを目深に被ったその背中は、すぐそこまで迫った暗闇に取り込まれてしまいそうだった。
「わざわざ殺されにきてくださったんですか?」
数メートル後ろ、背後に立った谷ケ崎の気配に気がついた時空院は、けれど振り返りはしなかった。不自然に明るくて不気味な声。まるで中身が空っぽなブリキの人形。お前は誰だ。
「丞武……」
はぁと身体がツラくて息が上がる。腹を貫かれた痛みは残っているし、正直一歩歩くだけでもやっとだった。それでも、有馬や燐童に庇われているばかりではいられない。こいつの真意を聞かないことには、立ち向かえない。こちらを見向きもしないその背中に、谷ケ崎は静かに問うた。
「お前に何があったんだ…。正直に話せ」
「あはは、正直に…ねぇ…」
ようやく谷ケ崎を振り返った時空院は、ホルダーに仕舞っていたナイフを取り出す。まるでこの世のすべてを愛しく迎え入れようとするかのように、両腕を広げて笑っていた。
「お話しても構いませんが、私は嘘をつくかもしれませんよ? その嘘で伊吹を丸め込んでいい様にしたいだけかも」
さあどうしますかと楽しげに伺ってくる瞳孔の開いた瞳に、谷ケ崎は当然のように言う。
「俺の目は誤魔化せない。それに、丞武は俺に嘘は言わない」
一拍、とても奇妙な沈黙があった。
谷ケ崎から何の根拠もなく突きつけられるその純度の高い信頼は、時空院の中にある何かを少しずつ壊していく。
悪意の羽根を広げていた両腕はバタリと力を失い、あぁ…と嘆かわしく溜息をつく。
「残念です。キミまで私の期待を裏切る……」
「? 何の話だ」
「ねえ伊吹、……殺意を失った私は私と言えるのでしょうか…」
それはほんの一瞬だけ零れ落ちた、彼の中にある憂鬱。もしくは不安。
思いもよらず思い詰めた声色に、「なに?」と谷ケ崎が真意を聞き返す間は与えられなかった。
黒く染まった怪物が、踏み込んでくる。
決して油断はしていなかった。寸でで相手の重心が変わったこともしっかり見抜けていた。けれど、痛みがいつもなら出来る動きを鈍らせた。
「っぐ、っ!」
使われたのはナイフの柄。その柄の底が、的確に刺された場所に叩きつけられる。ぶちぶちと皮膚を繋いだ縫合が破かれる感覚があった。
「――っ…!」
呼吸をしていられないほどの激痛に、思わず呻いて両膝を地面についてしまった。痛みに堪えてうぐと歯を食いしばる谷ケ崎に、時空院は幼い子供にしてやるように目の前に屈んで目線を合わせる。無防備に苦悶する表情をるんるんと覗き込んだ。
「ほら、どうしました? 早く立ち上がらないと殺されてしまいますよ?」
「っ…あぁ……今ので分かった、お前が何をしたいのか…」
苦痛で上がった息をなんとか整えながら、谷ケ崎は何度か小さく頷いた。腹を押さえると、パーカーの中でじわじわと広がるぬめりを感じる。傷口が開いて血が出ているようだった。
「お前は俺を殺さない」
いや、殺せない。そう意図を含んだ言葉だった。
この状況で何故かそう断言した谷ケ崎に、時空院は怪訝に眉を寄せる。
「何を言っている…?」
嫌な予感がして、少しだけ声に警戒心が混じる。眼鏡の奥の瞳がすっと冷たくなった。対して、谷ケ崎は時空院を見てふと笑ってみせる。
「お前こそどうしたんだ、丞武。今回は一人なのか…? この前はたくさん連れてきてただろ、中王区のやつらを…」
谷ケ崎伊吹の強さはこうして一対一で向き合った時こそ発揮される。それは、言葉で人の心の奥底を良くも悪くも暴いてしまう力。純度の高い真っ直ぐさが、何もかも暴いてしまう。
「丞武なら、本気を出せば今の俺なんて簡単に殺せるはずだ。なのにお前はそうしない」
畳み掛ける谷ケ崎の声には徐々に静かな熱意が込められていく。火が灯った白眼は、氷のように冷たい眼差しを真っ直ぐに見据える。
谷ケ崎は確信を持って、この結論を突きつけた。
「お前は俺たちを追ってるんじゃない。逃がしてるんだ」
言い切った直後、ゴッと頭を横殴りにされた。殴られた勢いのまま身体が地面に倒れる。腐った落ち葉の湿り気と匂いが鼻をついた。呻く間も無く強い力で後頭部の髪を掴まれ、無理矢理に仰け反って晒された白い喉へ、ナイフの切っ先が突きつけられる。
「馬鹿げた妄言を…」
殺意を突きつける時空院は珍しく楽しげではなく、厳しい表情をしていた。敬語が外れた低い声。
「じわじわと追い詰めてゆっくり殺すため、とは思わないのか…?」
谷ケ崎はこの時空院丞武という人間に、出逢ってから一度も恐怖なんて感じたことがない。だってお前は、……お前は最初からずっと、
「思わねえよ」
「……何故?」
今にもこの喉元にナイフを突き立てようとしている時空院へ、恐れも疑いも焦りも憤りさえもなく、ただ真っ直ぐに言う。返す言葉は決まっていた。
「仲間だからな」
高く振り上げた時空院の手の中で、ナイフがペン回しのように滑らかに回されたのが見えた。直後、どん!という衝撃が体の真ん中に叩き込まれる。ごふと口から吐き出たのは潰れされた肺から逆流してきた空気。多少の血も混じっていた。
痛みを認識するよりも先に、耳元でざくりと軽快な音が聞こえて、谷ケ崎の目の前は真っ暗になった。
――……
「―…谷ケ崎さん!!」
ほとんど悲鳴のような燐童の声。廃墟から出た森の中で、倒れている谷ケ崎を見つけた。
駆け寄る燐童の背中を追いながら、有馬は数メートル先で仰向けに倒れた谷ケ崎が目を閉じたまま動かないことを確認し、同時に周囲にも目線を投げる。
やはり部隊に取り囲まれているような物々しい気配は感じられない。あのバカ、……もしや単独で俺らを追っているのか?
「谷ケ崎さん!?」
燐童は反応のない谷ケ崎の傍らに滑り込むようにして膝をついた。見下ろす顔色は真っ白で、少しはマシになったと思っていた目の隈もひどくなっている。
どうにも生気を感じられない様子に燐童は一瞬躊躇したが、土嚢のように重い上体を膝に乗せるようにしてその身体を抱え上げた。そうして微かに血を流している首元に慎重に手を当てる。湯を入れた分厚いマグカップぐらいの鈍い熱さではあったが、温かく脈を打っていた。
「……生きてる…」
谷ケ崎は気を失っているだけだった。強張っていた二人はさすがに盛大に胸の底から息をつく。
「手間かけさせやがって」と恨めしくその顔を見下ろした有馬は、視線の端に見覚えのあるものを捉えた。
「おい、それ……」
と、燐童の傍らを指を差す。位置は倒れていた谷ケ崎の頭のすぐ真横。落ち葉の地面に、墓標のようにナイフが一つ突き立てられていた。
燐童は微かに息を飲み、ゆっくりとその柄を握る。深く深く突き刺さった刃を小刻みに揺らして土を捲り上げながら、ガッと思い切り引き抜いた。時空院が使っていたナイフで間違いないだろう。血はついていない。
木々が、風もないのに急に騒がしく枝や葉を揺らした。
視界の端に佇む人影が見えたような気がして、燐童はナイフを握り直し、有馬はホルダーから銃を抜く。同時に音がした方角を睨み、それぞれが手にした武器で警戒した。
「…………」
誰もいない。確かに何者かの気配があったように思えたのに…。ただの幻覚、勘違い、この異常な緊張感が生み出す錯覚だったのだろうか。
かぁー! かぁー! 響き渡る烏の声。
バサバサと聞こえたのは、真っ暗な夜へと暮れていく空に、烏の群れが飛び立った音だったようだった。
「……とにかく、場所を変えましょう」
「あぁ……」
有馬はまだあの気配が気掛かりで、森の奥へと静かに目を凝らす。
(らしくねぇーだろ…)
頑なにトドメを刺さないこんなやり方。まるでギリギリで生かそうとしているように思えて、まだ心のどこかに時空院を恨みきれない名残惜しさが残ってしまう。
どうせならとことん恨ませろ。ぶっ殺してやると叫ばせろ。
「何がしてぇーんだよ、あいつは…」
「それが分かれば苦労しませんよ…」
闇に紛れる黒い羽根。現れては消えるあの不気味な影の真意を、まだ捕まえられそうになかった。
――……
ガサ、ガサ、と腐った落ち葉を踏みしめるスニーカー。何もない闇の中で、そのソールだけが黄緑色にぼんやりと光っている。
たった独り、森の奥へと歩いていく黒い人影。目深に被ったフードの中からうっすらと聞こえてくるのは、伸びやかなクラシックの旋律を奏でる鼻歌。
ベートーベン、ピアノソナタ三十一番三楽章。
悲劇を嘆くこの物語がどこへ向かおうとしているのか、今はまだ誰にも分からない。
そう、……きっと本人でさえも。