「雲居の空」第1章 王族としての役目1.王族としての務め
話がある。中つ国の王である母に呼び出された千尋はいつも通り風早を伴って謁見の間へ向かった。
「常世の国の皇子と婚約……?」
「ええ」
娘の、そして国の未来も左右する大切な事項であるにも関わらず、母は表情ひとつ変えることなく千尋に告げてくる。
もしかすると、母にとっては千尋は大切な子どもとしてよりも、「道具」の側面が強いのかもしれない。
そんなことすら思わせてくる冷静な話しぶりである。
常世の国。
かつては中つ国と刃を交わした一族―月読の一族。しかし、中つ国との争いに敗れたため、遠い異界へと逃げざるを得なくなり、そこで建国されたのが常世の国である。
あくまでも伝承の出来事であり、今は両国の関係も穏やかなものとなっており、人々が行き来し、交易も盛んに行われている。
しかし、いつどのような理由で両国の関係が悪化するのかわからない。そのため、関係をより磐石なものとするため、皇族同士の婚姻を結ぶことにしたらしい。
「特にあなたは二ノ姫。一ノ姫がこの国で内政を整えるのに対し、あなたの責務は他国に嫁ぎ、その国と我が国の平和の懸け橋となることなのです」
そう告げられたが、千尋の心中は穏やかではなかった。
「でも、私には……」
千尋は後ろに控えている風早を見る。
風早はいつもの穏やかな表情から一変し、険しい顔つきをしているのがうかがえる。ただし、あくまでも従者という立場上、それは風早と親しいものしか感ずることのできない程度の変化ではあったが。
「そうね。あなたが風早のことを大切な『従者』として見ていることは、この母も存じております」
『従者』、その言葉に千尋は反発を覚える。
「従者ではないわ。ひとりの男性よ。誰よりも大切な」
そう反論するが、母は冷静な瞳はそれ以上の言葉を出すことを許さなかった。
「姫、あなたはわかっていますよね。皇族として生まれた以上、必ずしも自分の望む婚姻ができるとは限らないと」
それは知っている。生まれたときからずっと母から聞かされていた。「いつか、この国のために結婚するのですよ」と。
そして、風早からも聞かされていた。「姫は、やがて俺ではない誰かのもとに嫁ぐのでしょうね」と。
「でも、姉さまは……」
思わず身近なものの名前を出す。
今日も公務の合間に羽張彦と仲睦まじい様子を見せていた姉―一ノ姫。
確かに姉には国を担うという大きな役割がある。しかし、愛しい人が傍で控えている中行うことによって思いもしない効果を産むかもしれない。
「一ノ姫は一ノ姫、あなたはあなたなのです。あなたに与えられたのは、この国の平和と安泰のために生きることなのです」
これ以上、話し合っていても意味はない。そう思い知らされ、千尋は母のものを去ることにした。
「風早は知っているの、アシュヴィンのこと」
自室に向かう途中、千尋は風早に尋ねた。
風早が言うには、自分は何度も何度も同じ運命を繰り返してきたらしい。その運命は少しずつ形を変え、常世の国との関係もわずかではあるが変わり、また運命が流転するたびに千尋の恋仲の相手も違ったらしい。
常世の国の皇子については名前だけは聞いたことがある。剣術においては誰よりも飛び抜けた皇子がいる、と。ただ、自分は女であるし、平和な世において彼の武人としての腕前はあまり価値を見出せない。そのため、優れた噂を聞いても、心の中に留めることはしていなかった。
「ええ、まあ」
一方で風早は彼のことを知っているらしい。歯に物が詰まったような返事をしてくる。
「それは昔のこと?」
どうやって探ればいいのだろう。そう思いながら、千尋は端的に聞いてみた。
「もちろん昔の彼も、そして今の彼も知っていますよ。千尋(あなた)は知らない。でも、俺は知っている。そんな昔のあなた方をね」
その言い方は普段の風早らしからぬ曖昧な言い方だった。
「知らないって…… そもそも風早は何を知っているの……?」
私の知らない私の過去、私だけど私ではない過去の自分。その中で、自分とアシュヴィンはどんな関係だったのだろう。そして、一番間近なところで風早はどんな想いでふたりを見つめてきたのだろう。考えるだけで胸が痛くなる。だけど、それとは比べ物にならないくらいの胸の痛みを風早は感じ続けてきたのだろう。自分が知らないだけで。
「俺もすっかり人間になってしまいましたね」
風早は視線を下げ、自嘲気味にそう話す。
知らず知らずのうちに風早を傷つけている自分は何を言っても無駄なのかもしれない。だけど、声を掛けずにはいられない。
「でも、その方が私は好きよ」
「ありがとう、千尋」
だけど、一番近くにいて、でも一番遠いところから千尋を見ていたときと今は違う。
「かつては手に入らないのが当たり前だった。だけど、こうして人の幸せを知ってしまった。だからなのでしょうね。つらいのは」
そして、そう言いながら風早はさらに顔をゆがませて千尋の瞳を見つめてきた。
「結婚する、ってどういうことか、わかりますか?」
「えっ……?」
何を当たり前のことを。そんなことを思いながら千尋は風早の金色の瞳を見つめる。
すると、風早は先ほどの迷いは一切捨て、はっきりした口調で言う。
「男女の契りを交わす。もう少しはっきり言うと、性行為を行うのです。例え気持ちは他のものに向いていようと」
先ほど、婚姻の話を聞いた時からそれは覚悟していた。しかし、先ほどはどこか他人事のような気持ちであったのも事実だ。それが自分の身の上に振りかかる話だとは受け止めていなかった。
しかし、動揺する千尋に対し、風早はもっと衝撃的な言葉を口にする。
「もっと言うなら、皇族たるもの、子を産む必要もあるでしょう」
そもそも、そのための婚姻なのだ。両国の血を引くものを誕生させることによって、和平をもたらす。それが狙いなのだ。自分だって本当であれば、ひとりの恋する女性だが、王族という立場がそれを許してくれないのだろう。
「風早……」
諦めないといけないのだろうか。この人に対しての想いは。どんなに長い時間を掛けて巡り合っても、やはりすれ違う運命なのだろうか。そして、それを受け入れないといけないのだろうか。
答えはひとつしかないのかもしれない。受け入れるという。だけど、もう少しだけそのことに抗いたい。たとえ結末が同じだとしても。
そんな千尋に対し、風早は悲しみを滲ませたような表情で千尋を見つめる
「ただ、あなたは昔も今もこの国のために犠牲になることには変わらない。それは俺にとって悲しいことです」