雷火 世界樹が崩壊し新大陸発見から一年。滅びゆく運命だった世界は雲海から解き放たれ神の息吹が降り注ぐがごとく活力を取り戻し平和への一歩を歩み出していた。――だがその歩みに同道できない者も存在し混乱に乗じて良からぬ考えを企てる者も少なくはなく、国家の守護を司るメレフとしては常に悩みの種であった。
ブリューナクがグーラで活動しているとの報告が入ったのは一週間前の事だった。
まだ天の聖杯と旅をしていた頃にブリューナクにはきつい灸を据えてやった。そのはずだった。だが奴らは堪えていないようでメレフ達が世界樹を昇っている間に水面下で準備をしていたのか、戦後処理に追われる彼女達を嘲笑うかのように活動拠点を増やしているようだった。その中にスペルビアの基地があるグーラも入っていた。
他の国とは違いグーラは統治されていない。大小様々な村々がありその長達が支え合っている状況である。とりわけグーラいち大きな街であるトリゴはグーラの中心的存在で権限も強い。そのため当時巨神獣の寿命を抱え移住先を求めていたスペルビアはトリゴに基地を建設した。力と人と物資の流れの中心を押さえるためである。今でこそ新大陸が発見され、領土の問題も解消。それにプラスして大戦時のスペルビア軍の人道的支援のお陰もあってかトリゴとの関係も良好であるが、建設当時はかなり荒れたと記録されている。
グーラは戦力に乏しい。傭兵団という文化が根付いているインヴィディア、軍事国家として成長してきたスペルビアと違い農作物を育て木々の恵みを加工し出荷するのが主な産業だけに自警団はあるが無いよりはあった方が良いというレベルだった。
軍事力を提供するといううたい文句もとい脅迫でトリゴに基地を作ったためグーラ、特にトリゴの治安は曲がりなりにも改善された。現在も基地は残ったままだが徐々に縮小し最終的にはトリゴの自警団へと権利を移譲する予定である。
世界がやっと前に進み出したタイミング。縮小し移譲する計画はメレフの執務室の中だけの話であり、現実は大戦で傷ついた大地や人々の助けが必要な時節であり計画が現実的になるにはまだ時間を有するであろう。そんな中でのブリューナクの一報である。報告書に目線を注ぐメレフの眉間には深い溝が作られた。
――二週間後。
メレフは地熱エネルギー発電所を視察していた。スペルビアが巨神獣として動きを停止してから一年。それからも地熱は温度を保ったままであった。原理はいまだ不明だが領土問題に縛られることなく地熱を活用し安定したエネルギーを得られるのはありがたい事だった。そしてそのエネルギーの活用について学びたいと、本日は来客が来ていた。とはいえ気心知れた間柄のため護衛は付けていない。視察と言ってもメレフと彼の二人で施設内をまるで散歩のように歩き回っている。あと数十分で施設担当者と会談する予定のため暇つぶしをしているにすぎない。
「いつも思うんやけど、ようこないにでっかい機械を作るなぁ」
そう言ってジークは辺りを見回した。
ルクスリアの王子である彼がスペルビアを訪れたのは自国が保有する古代兵器を平和活用できないか、技術力ともに科学力を有するこの地の技術者から意見をもらうためだった。もちろん先の大戦でともに戦ったメレフに会うのも含まれてはいるが、今は王子としてそして国の特使としての顔をしている。
彼の口から出た台詞は砕けたものだが、ルクスリアの正装に身を包み背筋をしゃんとさせてメレフと会話をする姿はいつもの彼とは結びつかないほど穏やかで、そんな顔もできるのだなとメレフは関心した。
「スペルビアは広大かつ人口も多いからな。その分いろいろと物入りなのだよ」
やれやれといった様子でメレフは会談予定場所である会議室の扉を開けて入室する。その後ろをジークが着いていくとテーブルには既に資料が置かれていた。対面になるようにきちんと待機している資料を見て相変わらず几帳面やなとジークは内心で苦笑しつつも案内された席へと座った。
あと数分で予定の時間になる。施設担当者は仕事の合間を縫って参加することもありジークとしては特に気にはしていなかったが、隣のメレフは時計と空席を目だけ動かし見比べている。現れる気配が全くない事に苛つきを感じているのか、はたまた何かあって不安を感じているのか普段よりも少々落ち着かない様子にらしくないなとジークが投げかければ彼女はハッとしてからばつが悪いのかすまないと謝った。
「……何かあったんか?」
姿勢を崩し頬杖をついてジークはメレフを見やる。ジークの顔が王子から友人へと変えたのを察したメレフは足を組み背もたれに寄りかかると溜息交じりに口を開いた。
「実はグーラでブリューナクが活動しているという報告があったんだ」
腕を組みメレフはつい先日自身の耳に入った情報を伝える。活動しているのは確かだが何をしているのかは調査中であり、しかも調査があまり進んでいない。復興に新大陸の開拓にとやらなければならない事が山積みであるのに余計な手出しをされるのではないかという不安と、人手が足りないこの状況下で奴らに時間も労力も割かなければならないという苛立ち。国の盾であるメレフとしては早く解決したい案件である。
それを聞いてジークもまた腕を組み思案する。友人として何か声を掛けてやりたいが、国を背負う者として痛いほどに気持ちが分かるがゆえに言葉が詰まる。国も違えば指揮系統も違う。できることも当然違ってくるのだ。
さてどうしようかとさらに思索に耽るその一歩を踏み出したところで扉が勢いよく開け放たれた。
「メレフ様!」
「どうした」
走ってきたのだろうか、乱れた呼吸を整えつつも封書を手にした一人のスペルビア兵が入り口で敬礼する。
彼女の問いに威勢の良い返事で応えると兵士は封書をメレフに差し出した。
「殿下とのご歓談中に失礼いたします。ブリューナクの件で進展がありましたのでご報告に参りました」
「いい、気にするな」
さっそくメレフは封書を受け取り報告書に目を通す。そこにはブリューナクがグーラの野盗を引き入れ戦力を拡大していると書かれていた。しかしいったいどれだけの数が増えているかは分からないとの事だった。
グーラは統治されておらず他国に比べて法的拘束力も薄い。したがって牧歌的な空気が流れている地域だが何かを画策するにはうってつけの場所である。ましては野盗であれば定住しているものはほぼゼロと考えていいだろう。そうなると数の把握は困難である。しかし放置しておけばグーラが危険だ。特にスペルビアの基地があるトリゴの街は確実に狙われるであろう。どのみちスペルビアでなかろうがせっかく手に入れた平和の大地が焼かれる姿はもう見たくない。メレフは一つ息を小さく吐くと姿勢を正し兵士に告げた。
「これよりグーラに潜むブリューナクの掃討作戦会議を始める。今から二十分後、一四三○作戦会議室にて集合と伝えろ」
「はっ!」
兵士は敬礼すると素早く退室する。小走りに去っていく兵士を眺めてジークもまた小さく溜息を零した。いつの時代になっても争いの種は無くならない。国家間の競争は文化発展の為にもある程度は必要だとは思うが、それは命を危険に晒す争いではなく経済や技術力といった人の生活に基づいた平和的に行われるものだと考えている。それに今回の事件は国家転覆を狙うテロ組織の活動である。争いの芽が出る前に摘みついでに除草剤でも撒くくらいの覚悟でなければ無くす事は難しいのだろう。良からぬ事を企てる輩は大抵地上に現れず、地下にてその機会を伺っているものだ。
ジークは肩をぐるぐる回すと立ち上がった。
「ジーク?」
「ここまで聞いて知らんぷりもできんやろ? 手伝うわ」
訝しげな視線を寄越すメレフにジークはさも当然といった調子で自分を見上げる彼女に伝えた。
「しかし……」
「自分ら国の問題や言うんやろ?」
「……」
メレフは図星を突かれたのか押し黙る。
「せやったらメレフの友人として力を貸すっちゅうことで」
「な……」
驚くメレフにジークは後ろ頭を掻いて呆れた様子でメレフを見下ろした。
「グーラはトラとニアにとっても大事な場所や」
彼の一言にメレフはハッとして目を瞠目させた。「もちろんそれだけやない。大きな戦があった後やしこの世界を危険に晒しとうない。ただ、国に縛られて動けんのやったら個人で動くしかない。そう思っただけや」
それに、野盗の一人も捕まえられんかったら跡継ぎの資格なんざないと親父にどつかれそうやしな。とジークは笑う。
真面目なのか、ふざけているのか。前者も後者も彼の本心には変わりはないのだろう。自分もなかなかの頑固者だと自覚はあるが、彼も同様のようだ。メレフはやれやれといった調子で帽子を被り直した。
「まったく……貴様という男は」
「なんや? 惚れたか?」
ジークは胸を張りここぞとばかりに顔と声を造りメレフに笑みを向ける。それを無視するかのようにメレフは静かに立ち上がると口端を上げてジークを見上げた。
「馬鹿を言え。サイカとゼーリッヒ王の苦労が目に浮かぶよ」
そう言うと背筋を伸ばし風を切るようにして歩き出す。向かう場所はもちろん作戦会議室だ。
たった一人の味方が付いただけだというのにメレフに重くのしかかっていた緊張と不安が少し和らいだ。心なしか足取りが軽くなった気さえしてくる。仲間の存在とはやはり心強いものだなとメレフは一人微笑んだ。
ジークの予定は急遽変更となり古代兵器の平和的活用の会議は作戦完了後に改めて行われる事なった。
皇宮の通信機を借りて予定の変更を伝えると案の定サイカからお叱りの声がジークの耳を劈く。とはいえサイカはジーク以上のお人好しである。事情を話せばすぐに納得し後で合流する流れとなった。隣でたまたま話を聞いていたゼーリッヒ王は諦め半分といった様子で作戦に参加する以上はきちんとメレフ殿の指示に従う事、と釘を刺して通信は切れた。
ジークが参加する事で兵士達の士気も上がり、またメレフに対して対等の立場で意見を述べる事ができる彼のお陰か会議はスムーズに進み纏まる事ができた。敵がいつ行動を起こすか分からない以上迅速に事にあたるべきというメレフの指示のもと明朝出立し、まずは現地での情報収集にあたることになった。
いつもの視察とは違い大型巨神獣戦艦は使用せず小型巨神獣船でグーラを目指した。こちらがブリューナクの同行を監視しているのと同様に、ブリューナクもスペルビアを監視しているからだ。
民間船と偽り港に到着する。情報収集した後、集めたそれらを精査し確証を得た所で本丸を叩くため今回は少人数で部隊を編成した。どうしても見た目が派手なブレイドであるサイカとカグツチは有事の際に動けるように軍にて待機となった。
二人一組となって聞き込みを開始する。皆変装し人目では軍人と分からない。メレフとジークも変装しトリゴの街を走り回った。
情報収集を始めて数時間後。集めた記録を一度交換するためにメレフはトリゴの街の路地裏で空を見上げていた。家と家の間から覗く空は狭い。日の光があまり届かないこの場所は気候が安定し過ごしやすいグーラの中でもじめじめとしていて気分が良いものではない。同じ日陰ならグーラの肥沃な大地で育った木々の下に座り木漏れ日に浸りながら読書でもしたいものだと溜息を吐く。するとただでさえ暗い視界にさらに陰が落ちる。見上げればジークがメレフに覆い被さるようにして立っていた。
「……近いのだが?」
「路地裏で男女が会うならそれ相応の姿があるやろ」
「……それがこれと言いたいのか」
「そういう事」
口から吐かれる台詞はふざけたものだが、ジークの顔はいたって真面目であり作戦の範疇である事がわかる。腑に落ちないが彼の言い分も分かるため渋々乗ることにした。
変装用のキャスケットのつばを少し持ち上げてメレフはメモ帳を取り出す。ぱらぱらと捲り該当のページを見つけると小声で読み上げていく。
最近野盗の数が減った事。基地以外で軍人らしき人物が確認された事。民間船の出入りが増えた事など。それらを報告書に記載されていた内容と照らし合わせると確かに符合する点が見受けられた。報告書の通りグーラでは野盗を引き入れ何か画策していると考えられる。しかし肝心の目的が分からない。ジークもそれは同じなようで、狭い路地裏で二人して一考するが情報が少なすぎる。これは他の部下達と集合し情報を共有した上で再考した方が良いと判断したメレフはメモ帳を閉じた。
「アンタ。特別なんちゃらって人か?」
彼女がメモ帳を閉じ顔を上げた瞬間だった。メレフが視線だけ動かし声の主を探すと路地裏の先の広くなった所にアッシュブロンドの髪から可愛らしい三角耳を覗かせた少年が一人立っていた。ここで反応すれば怪しまれる。メレフは無視を決め込む。その意図に気付いたジークは彼女の腰に手を回し自身に引き寄せた。
「子どもが見るもんとちゃうで。さっさと家に帰り」
ジークは少年から見てメレフの顔を見えないように背中を向けさせる。腰や背中に回る手がくすぐったく身を捩りたくなる衝動をぐっと堪えてメレフは大人しくしている。しかし少年は二人が思っていたよりも賢いようで、抱きしめ合う二人を見てにやりと笑った。
「隠しても無駄だぜ。アンタのその手帳とその横顔、見たことがある」
口端を上げコーラルレッドの瞳を鋭くして二人を見やる少年はゆっくりと近づくとにんまりと笑った。
「やっぱりな。アンタ、スペルビアのメレフだろ」
腰に手をあてメレフを見上げれば得意げな顔をする少年にメレフはジークに目だけで会話する。下手に反応しても怪しまれる、かと言って肯定するわけにもいかない。ここで騒ぎを起こされたとなればグーラのどこかに潜伏しているであろうブリューナクの耳に入り雲隠れしてしまうだろう。手荒であるが気絶させる事も考えたが相手は子どもである。しかも顔をしっかり憶えられている。そんな事をすればより事態は悪化するだろう。想定外の事態にメレフの脳はいつも以上に高速でフル回転する。そんな彼女の焦りを嘲笑うかのように少年は口を開いた。
「国のお偉いさんがこんな裏路地で恋人とイチャイチャしてるだなんて、知られたらまずいんじゃねーの?」
少年から発せられた台詞にメレフは目をぱちくりとさせた。少年の言っている意味がよく理解出来ずゆっくりと咀嚼するように脳内でもう一度再生する。その間も嘲笑を浮かべた少年は値踏みをするようにメレフを上から下へと目線を移すと、小さくよしと呟き腕を組んで胸を張った。
「アンタらの関係をバラされたくなければ俺の言うことを聞いてもらおうか」
イニシアチブを取ったと思ったのか少年は鼻高々といった様子で二人に提案する。メレフは再度ジークに視線を向けると彼はやれやれといった様子で溜息を吐いた。
メレフとしてははっきり言って彼の提案は受け入れ難い。そもそもジークとは恋人でもなければ許嫁ですらない。聖杯大戦にて苦楽をともにした仲間、ただそれだけである。一般的な異性同士の友人と比べたら距離が近いかもしれないがそこにロマンスの欠片も無い。だからこそこうやって潜入捜査を共にできるのだ。しかし目の前にいる少年は何を見間違えたのか自分達を恋人だと言う。勝手に恋人同士にしないでほしい。いや、今はそこじゃないとメレフの冷静な脳は軌道修正をする。先ほどジークとそれ相応の姿があると話したばかりじゃないかと。目の前の少年は恋人の振りをしている自分達を本当の恋人同士だと思い込みそれを餌に脅迫しているのだ。
これはどうにかして否定かつ自分の存在を間違えだと思わせねばならない。とにかくそんなような間柄ではないと伝えなければ。メレフが意を決して首を回そうとした矢先、ジークが先に口を開いた。
「しゃーない……お前の提案にのったるわ」
「は……?」
てっきり否定の言葉を発するのかと思っていたメレフはまたしても固まった。壊れたおもちゃのように首を回してジークを睨めつけると、彼は舌を少し出し甲高い声で「てへ」とおどけて見せた。可愛くない、むしろ気持ち悪い。そんな仕草と自分の意見を無視して勝手に了承した事にメレフは眉間を押さえた。この男をどうしてくれようかと物騒な事を考えているとジークがこっそりと耳打ちをした。
「油断はできんが相手は子どもや。適当に相手してさっさとおさらばした方がええ。運が良ければ奴さんの事も分かるかもしれんしな」
さっきのふざけた態度とは違い声のトーンを落とし真面目な声色で伝えた。
ジークの考えは確かに一理ある。少年がどういう存在のなのか(少なくともグーラ人であるのは分かる)不明だが会話をしているうちに何か分かるかもしれない。それに少年の服装はお世辞にも綺麗とは言いがたい。所謂ストリートチルドレンと推測される。現地で大人達の間を掻い潜り生きる子どもゆえに自分たちよりも情報の筋と量は保証されているだろう。国を守るメレフにとっては辛い現実だが目下の問題はブリューナクだ。彼らの問題はそれを片付けてからだと自身の頭に刻みつけるとメレフはジークから離れて視界に少年を入れた。
「いいだろう。何が目的だ少年」
固い声で告げると少年はにんまりと笑った。
「いいね。そう来なくっちゃ」
人で賑わう噴水広場には沢山の店が並ぶ。野菜に魚、肉にコアチップと品揃えは多岐に渡る。道沿いにあるテラスには木漏れ日が落ち憩いの場となっている。グーラの緑で包まれた穏やかな空気と気持ちよく晴れた青空の下、テラスで頂くセリオスティーは格別でここで振る舞われる一杯を楽しむ客の姿は多い。その一角でテーブル狭しと料理が並び騒がしい席があった。
「こちらで以上になります。ごゆっくりどうぞ」
ウェイトレスが笑顔で一礼してからバックヤードに戻るの見送る。テーブルの上にはピザにハンバーグ、スープとサラダにミートスパゲッティ。極めつけは食後に運ばれる特大のパフェだ。できたての料理が誘うように香りと湯気を立て木目のテーブルを彩る。いったいこの小さな身体にこれら全てが吸収されるのだろうかとメレフは目の前の少年を見つめた。当の少年は並んだ料理達に目を輝かせ、まるで餌を目の前に待てをしている犬のようだ。
少年の提案もとい脅迫を受け入れたメレフ達は少年に何がご所望か尋ねた。するとまずは腹ごしらえだと言ってトリゴの街にあるカフェ・サヴィーにて食事をすることになった。子どもとはいえ一体何を要求されるか分からなかったメレフは一気に緊張の糸が切れたと共にどこか馬鹿馬鹿しくも感じる。しかしこれも穏便に調査するためと思い気を引き締めた。
ずらりと並んだ料理の前でそわそわと落ち着かない少年は料理を見るだけで手をつけようとしない。メレフは首を傾げた。
「……食べていいぞ」
見てるだけでナイフもフォークも持とうとしない少年にメレフは食事を促すと弾かれたように少年は顔を上げた。メレフと少年の視線がぱちりと合う。少年はばつが悪そうに表情を歪めると咳払いをしてからフォークとナイフを持ち小さく「いただきます」と言ってから料理に手を伸ばす。その姿を見てジークは目を細めた。
数分もすればテーブルを彩った料理たちは消え空になった皿だけが並んだ。その中で塔のようにそびえ立つパフェのバニラアイスにデザートスプーンが刺さった。丸みをおびたそれがスプーンによってえぐり出されクレーターができる。そのままスプーンを頬張ると口の中に甘さと冷たさが広がる。少年は喜悦の色を満面に浮かべて手を動かした。出会った頃の生意気さは鳴りを潜め、今は年相応の子どもらしい表情を浮かべる少年にメレフは微笑みを零すとカップを傾けた。
見事全てを食べ終えた少年は満足したのか両手を挙げて背筋を伸ばした。
「もういいのか、少年」
コーヒーカップを片手にメレフが尋ねると少年は眉根を寄せた。
「あのさ、少年じゃなくてちゃんと名前があるんだけど」
「そうか。それは失礼した。……して、君の名前は?」
「俺の名前はエバン。アンタの名前は知ってるぜ、メレフだろ」
「ああ、正解だ」
「……で、ずっと気になってたんだけど……そっちのおっさんは?」
少年――エバンはメレフの隣に座るジークに水を向ける。疑心を隠さない彼の視線と聞き捨てならない発言にジークはわざとらしく咳払いをした。
「あのな、誰がおっさんや! ワイの名は……ジーク! ジーク・B・極・玄武や!」
ジークは突然立ち上がると胸を張り穏やかなテラスの空気をぶち壊すが如く声が上げた。当然くつろぐ客達の視線がジークに集中する。すかさずメレフはジークの足を蹴った。潜入調査中だというのにこの男は。大声を急に出すな恥ずかしい。といった私怨を乗せた蹴りは彼を黙らせるには十分だったようで、得意げな顔はすぐさま苦悶の表情に変化し言葉にならない苦痛に机に突っ伏した。
「……俺が言うのもなんだけど、アンタこんなんがいいのか?」
女性の中でも高身長であるメレフよりもさらに大きな男がメソメソしながら机に身を預け項垂れている様子を見てエバンは軽蔑の色を隠さずメレフを見た。
「……」
項垂れたいのはこちらだとメレフは隣にいる灰色頭を睨む。本当は誤解を解きたいがエバンはメレフとジークが恋仲だと思い込んだ上でこのような流れになっている。ここで否定すると、では何故あのような路地裏で密会していたのかと問われる事は想像に難くない。そうなると更に面倒な事になるのは必至でより問題が大きくなってしまう。それだけは避けたかった。
喉から出かかった否定の言葉をぐっと堪えてメレフは溜息交じりに答えた。
「……私も理由が知りたいものだよ」
腹が膨れたら満足したのか今度は街を見て回りたいとエバンは言った。
「君はグーラ人だろう? 見慣れているのではないか?」
それとも何か欲しいものがあるのか? とメレフが首を傾げればエバンは一瞬何かを言いかけたがすぐに口を閉じ、またしても溜息を吐いてメレフを見上げた。
「俺らがそこらへん歩いてみろよ。泥棒かスリをされると思っていい顔されないんだよ」
まぁ、アンタが気にする事じゃないけどな。とエバンは自嘲する。どこか悟ったような口ぶりにメレフの眉間に皺が刻まれた。
エバンは気にするなと言うがこれはメレフ、いやメレフ達大人が社会を形成する上で見て見ぬ振りをしてきた問題でもある。世界樹がまだ健在だった頃。世界には今以上に争いがあり、孤児どころか戦争から生じた難民までいた始末だ。スペルビアとしては出来うる限り保護していたが、手が回っていなかったのが現実だ。
子どもは親を選べない。もちろんそこには育つ環境も含まれる。子を成す事は素晴らしい事だ。だが環境が伴う事で始めて望まれる。子を残す意思と守り育てる環境、この二つがそろってなのだ。しかし、それを壊す出来事が世界には石ころのように転がっている。かつての仲間だったレックス、ニア、トラはまさしく環境を壊された側の子どもだった。そして目の前の少年も口にはしないが彼もそちら側なのだろう。メレフの瞳に悔恨の色が宿る。何か言葉を紡ごうとして手を伸ばすが引っ込めた。人の上に立つ自分が彼に何か言える資格があるのだろうかと思うと言葉が出なかった。そして彼に気を使われることが情けなかった。
複雑な表情でエバンを見下ろすメレフを見てジークは微苦笑すると表情を一転させぱっと明るい笑みを浮かべてエバンの頭を押さえつけるかのようにぐりぐりと撫で回した。
「なっ、なんだよ! 痛てっ! 痛てぇって!」
「エバンはええ子やな~」
「はぁ やめろよ!」
「ええやん~」
「よくねぇ!」
ジークの手を剥がそうと必至になるエバンに満面の笑みを浮かべてまるで我が子のように頭を撫でるジークの姿にメレフも思わず笑みを零す。そしてそっとエバンの頭に手を乗せると優しく髪を梳くように撫でた。
癖のない真っ直ぐに伸びたエバンの髪はさらさらと指の隙間を溢れていく。日の光に照らされてキラキラひかるアッシュブロンドの髪が美しかった。
ふと気付けばエバンはメレフを見上げて呆然としていた。それに気付いた彼女は首を傾げるとエバンの頬が僅かに染まる。己の変化に気付いたのかエバンは素早い動きで顔を背けてしまった。
「だ~っ! もう! 髪がぐちゃぐちゃになるだろ!」
そう言うとエバンは頭を押さえて二人から離れるように駆けだした。
――エバンの要望によって街の散策は続いた。しかし特に目的の店があるというわけではないようで、ただただ通りを歩きたまに立ち止まって一緒に露店にならぶ商品を物色するを繰り返した。途中メレフが気を利かせて服を見繕うからと店に入ろうとしたがエバンはそれを拒否した。遠慮をするなとジークが後押ししたが、彼は「服はあるし洗えばいいから」と笑みを浮かべて拒むものだからメレフはそれ以上無理強いはしなかった。その後ろでジークは何か言いたそうな顔をしていたが結局黙ったままだったのでメレフは特に触れなかった。
入店を止めて引き返す二人にエバンはほっと胸をなで下ろすと流れを変えるように「あのさ」と二人を呼び止めた。
露店を見て回り疲れたというエバンの案で噴水広場のベンチに座り飲み物を片手にグーラに吹く風を楽しんでいた。軽風が頬を撫で夕日を受けた雲は茜色に染まり舞い踊る木の葉が三人の間を通り抜け大樹へと還っていく。日が傾きだしたせいか気温は日中よりも下がり肌寒い。手に握るカップで僅かな暖を取りながらその中で揺蕩う琥珀色で喉を潤す。鼻孔に広がる香りとほのかに感じる甘みが絶妙で、緊張で張り詰めていた身体が綻んでいく。プライベートならこのまま流れに任せてゆったりとした時間を楽しむのだがな、とメレフは懐中時計を取り出して苦笑した。そろそろ集合場所に戻らなければ。
結局エバンの望みはよくわからないまま時間が来てしまった。それを伝えるため視線を横に移すとエバンはじっと地面を見つめていた。何か考えているのだろうか、見下ろす形になるため彼の表情は窺えない。
「どうした?」
エバンの背にそっと手を乗せメレフは声を掛けた。すると肩を強ばらせ弾かれたように彼はメレフの方を向いた。彼女を捕らえた双眸が困惑に揺れる。しかしその後何事もなかったかのようにエバンは「何でもない」と零しカップを傾けた。――何かある。しかしどう聞いたものかとメレフは悩んだ。ストレートに聞いて良いものだろうか、遠回しにまるで囲うように聞いた方が良いのか。子どもと接する機会が少ないメレフには判断材料が少なすぎた。それに彼は推測ではあるがストリートチルドレンである。そう簡単に心を開いてくれるはずがない。できる事なら現地人である彼から情報を聞き出す、もしくは提供してもらうつもりだったがやはり簡単にはいかないなとメレフは心中で小さく溜息を吐いた。
今まで黙っていたジークがゆっくりと立ち上がるとエバンの前で立ち止まった。そのまましゃがみ込みエバンと視線を合わせる。ジークの真っ直ぐな視線が彼を射貫くとばつが悪いのかエバンはカップの中身を見つめたままだった。その様子にジークは後ろ頭を掻くと、その大きな手でエバンの頭をぽんぽんと撫でた。
「言いたくないんやったらええ。せやけど子どもなら子どもらしく素直に甘えてええねんで?」
俯いていたエバンの顔がゆっくりと上げられる。彼の視線の先には目を細め微笑むジークの姿があった。その柔らかで頼もしい表情にエバンはぎゅっと口を紡ぐんだ後、諦めたように口を開いた。
「……俺さ、聖杯大戦ってやつで孤児になって。まぁ、なんとか生きて来たんだ。ただ……昔はこうやって母さんと父さん弟と買い物して飯食って遊んで……思い出したら少し悲しくなっちまった」
情けねぇよな。と言ってエバンは苦笑する。暗い雰囲気にならぬよう努めて明るく振る舞う姿はやはり年長者故の行動なのか、それともやせ我慢なのか。どちらにしても見ていて胸が掴まれる思いだ。
「……無理に明るく振る舞う必要はないんだぞ」
彼の小さな背中をメレフは撫でた。この小さな背中に一体どれだけの苦悩と悲哀が折り重なりのし掛かっているのだろうか。まだ十も満たない子どもにはあまりも重すぎる。まだまだ甘えていたい年頃だろうに。その細い両足で彼は自分一人でこの大地に立っている。大人の自分でさえ支えが必要であるのに、だ。
掌から伝わる温度がエバンに染み渡る。心の中で頑なに閉ざしていた場所が融解し柔らかい部分が露わになる。すると今まで我慢していたものが瞳から一粒落ち、それに続くようにぽろぽろと落ちていく。とめどなく流るるそれは悲惨な経験から溜まりに溜まった悲しみだった。
涙を見せまいと必至に我慢するエバンを見てメレフは彼の肩を掴むとそっと抱きしめるその刹那、急にエバンの身体が何かに引っ張られるかのように離れた。突然の事に呆気にとられるもすぐに目を動かせばエバンの首と腹に腕を通し彼を抑えているジークの姿が視界に飛び込んできた。
ジークの腕の中にいるエバンに哀傷は感じられない。眉を寄せ目をつり上げ、コーラルレッドの瞳は怒りと憎しみに燃えているようだ。
「何すんだ! 離せよ!」
腕の中で暴れるエバンはジークに抗うが、そこは体格の差が物を言い微動だにしない。しかしジークは口を閉ざしたままである。
「ジーク、一体どうしたんだ!」
メレフが問い詰めるとジークは一瞬目を逸らした。そして苦虫を噛みつぶしたような顔をした。彼はそのまま無言を貫くと、小脇に抱えた小刀を取り出した。
「な……待てっ!」
メレフは地面を蹴って飛び出す。同時にジークは小刀をエバンの腹へと向ける。間に合わないとメレフが覚悟しつつも条件反射で手を差しのばす。しかし無残にも、小刀はエバンの腹を捉えた。
――ビリビリッ。
刃によって何かが割かれる音が夕空に木霊する。一拍開いてドサリと今度は何かが地面に落ちる音がした。メレフが手を伸ばした先には服を割かれ呆然としているエバンとその足下には何か筒状の物が付いたベルトが真っ二つに割れ夕焼けに染まる大地に倒れるようにして落ちていた。
「……は?」
今起きている出来事に理解が追いつかずメレフは疑問の声を上げる。それを合図にジークは腕を緩めると、自由になったエバンはゆるゆると力なく地面へと頽れた。
「エバン……!」
メレフは少年に駆け寄る。怪我をしていないか恐怖で瞳を濡らしていないか、いつか見た悲劇が蘇る。その記憶を払拭するかのように首を横に振った。地面に四つん這いになった彼の肩に手を置き顔を上げようとするとメレフの手は払われた。払ったのは間違いなく目の前の少年だった。
ゆっくりとエバンは立ち上がる。よろよろと足取りは覚束ないがそこにはしっかりと自分の足で立てるという強い意志を感じた。いまだ顔は下を向いたままで表情は窺えない。慎重に震える手になんとか力を込めてメレフは再度エバンに手を伸ばす。しかし、それはあと数センチという距離で止まった。
「どうして……! どうして死なせてくれなかったんだ!」
弾かれたように顔を上げエバンは叫んだ。瞳は悲憤に濡れ、鮮やかなコーラルレッドはその輝きを無くしていた。
少年の叫びが昼と夜の境目が交じる空へと溶けていく。夜風が吹き木々を揺らす。葉と葉が重なりざあざあと音が鳴り響く。まるでエバンの心情を訴えるかのように悲しい音色だった。
悲痛な叫びを突然一身に浴びてメレフは愕然とし何も発する事ができなかった。自らの命を投げ出すその言葉が彼女には理解できなかった。まだ、幼い彼が自死を望む姿を彼女は見たくなかった。信じたくなかったのだ。
地面に落ちたベルトを拾い上げジークはメレフに見せた。
「これは……!」
ジークは黙って頷く。そこには火薬と思われる筒状のものと爆破装置だろうか、小型の機械が付いていた。
「俺がやらないと……俺が死なないと皆が殺されるのに!」
怒りと悲しみに突き動かされるままにエバンは叫ぶ。その声がメレフの心に刃となって突き刺さる。
――自然と、身体が動いていた。
メレフは両膝をつき彼の肩に両手を置くとそのまま引き寄せエバンを抱きしめた。
「命を無駄にするな! 馬鹿者!」
彼女の喉から出た言葉が空気を彼の鼓膜を揺さぶる。隠されていた本心を露わにさせ、心の中で溜まりに溜まった不安と怒りと悲しみが溢れとめどなく流れた。
「う……っ、うぁあぁぁあぁぁぁ……」
コーラルレッドの双眸から耐えていたものが流れメレフのシャツを濡らす。エバンも彼女に縋り付くと涙混じりの声を上げた。
「助けて……」
慟哭の中で告げた彼の本心からの叫びは小さいものだった。だがそれはしっかりとメレフとジークに届けられる。二人は目線を合わせると頷いた。
泣き止んだエバンを連れてメレフ達は集合場所である宿屋に戻った。見知らぬ少年の登場に部下達は訝しげな視線を彼に向けた。メレフは「諸君」という一言でエバンから自身に意識を向けさせる。彼女の鶴の一声で部下達は姿勢を正しメレフへと集中した。
「詳細と経緯を省くがこの少年は我々で保護する事になった。……これは私の勘だが彼は重要参考人になる可能性が高いと判断した。説明は追々する。今日はひとまず休め。明日の集合は〇七○○。場所は本日と同じ。以上、解散」
「はっ」
部下達が敬礼し次々と部屋を退室する。軍人特有の物々しい空気が消え去り、開け放たれた窓から入る青草の香りが夜の少し湿った空気と合わさり噴水の音と共に徐々に部屋に広がっていった。
メレフはエバンをソファに座らせると彼の対面に座る。ジークは大人二人が目の前にいると萎縮させてしまうと考え少し離れた場所に椅子を用意し足を組んで座った。
エバンの前にホットミルクが入ったマグカップを置くとメレフは姿勢を正して「さて……」と小さく息を零した。
「エバン。君の身に何があったか教えてくれないか?」
真摯な態度で彼女は問う。柔和な空気は崩さず、しかし事件に対する熱意はそのままで、エバンを保護対象としながらも彼を『ただの子ども』ではなく『個人』として相対する志を感じ取ったエバンはぽつぽつと語り出した。
一年前。グーラ辺境にある集落でエバン達は暮らしていた。小さな集落であったが皆穏やかに生活していた。しかし聖杯大戦が始まり、その手は辺境の地であるここにも迫っていた。トリゴや他の街や村々から離れた場所に位置していたため、事前に情報が回らずグーラが突然動き出し空にアーケディアが見えるまで村人達は気付かなかった。住人が気付いた時には遅く、メツが操作するセイレーンの攻撃が雨のように降り注いだ。
家にいたエバンは自室で本を読んでいた。その隣で弟のヘーネはすやすやと寝息を立てている。なんの変哲もない一日。しかし、世界には変革の時が訪れていた。
空が光る。轟音が響くと同時にエバンの視界は一瞬にして真っ白に塗りつぶされ、その後強烈な爆発音がエバンの耳を抉った。咄嗟に腕で顔を守り姿勢を低くする。いったい何が起きたのか分からないが危険が迫っているのは分かった。
長いような短いような時間が過ぎ、慎重に腕を戻すとエバンの視界は様変わりした。家は半壊し見るも無惨な姿になっている。不幸中の幸いか、エバン達がいた部屋は爆発を逃れたのか形をそれなりに維持したままだった。呆然とするエバンはふと隣にいた弟の存在が感じられない事に気づく。そして別の部屋で作業をしていた両親。エバンの背中を悪寒が走る。逸る思いに突き動かされるままエバンは半壊した家屋を進んだ。
慎ましい生活ながらも美しかった小さな村は以前の姿を無くし轟々と燃えさかる火の海が村を焼き尽くしていた。人々は倒れ、火はうねりを上げて燃え、色とりどりに咲いた花を灰に変えていく。まるで地獄そのものだった。
たまたま生き残った自分と弟のヘーネ。弟が両親を亡くしたショックで泣きじゃくるのをなんとか宥めつつ、半壊し燃え続ける家から離れると呆然とする二人に火の手が迫る。全身を覆う灼熱に生存本能が呼び起こされる。