呼ぶ声 なにをしているの?とアメリアが尋ねた時、CASEは一瞬躊躇うような様子を見せた。
人間のような顔はなく、緑色の無機質な文字の羅列と四角四面でひんやりとした金属の体しか持たないロボットに対して、"人間らしい"躊躇いを感じるのは可笑しいかもしれない。アメリアはふとその考えに囚われ、我ながら愕然とした。自分以外の知的生命のいないこの荒涼とした大地で、ついに、気が可笑しくなってしまったのか。それとも、優秀な何者かによって創り出されたこの目の前のロボットに、生命が宿ったのかと思った。
「通信を」
"人間らしい"躊躇いと感じるだけの空白を置いて考えたCASEの声は、相変わらず抑揚のない平坦な声色だったが、その内容は興味を引くには十分だった。
通信、通信なら何度も繰り返した。最初は希望を込めて、やがて無駄かもしれないと思い、いつしか諦めて、定期的な通信以外に希望も持たなくなっていた。
CASEはまた率直な返答と受け取るには長すぎる間を空けてから、アメリアに念を押すように、「通信です」と言った。
「定期通信以外に許可したかしら?」
「いえ、これはごくプライベートなものです」
「ロボットが?」
これは何かのジョーク?アメリアは思わず破願して声を上げた。最近では腹を奮わせる面白みも皆無だ。
「申告が遅れましたが、これはシェルターの主電源とは完全に独立した動力源での定期通信です。シェルター内の生命維持とは完全に断絶しており、メインバンクへのデータ蓄積も・・・」
「どこへ向けての通信なの?」
狂気のように起こった笑いが治まると、アメリアはゆっくりとやってくる冷静さに心を凍らせたように問い詰めた。ロボットはまたもや、短めに躊躇う。
「地球ではないわね?それなら、私もチェックしているもの。どこへ向けて通信波を送っているの?または、誰か?」
「TARSに」
今度は迷いなく。CASEの答えはアメリアを呆然とさせた。
「TARS?」
「そうです。あなたはもう忘れてしまったのですか?」
「あなたらしい、ユーモアのつもり?CASE 。私は、忘れてたわけじゃない」
「よかった」
CASEはため息を真似て排気して見せた。
アメリアはなぜだか酷く腹が立ち、今すぐにこの星の唯一の話し相手を蹴飛ばしたい衝動に駆られた。まるで責められているような気がした。毎日、毎日、無意味な時間を過ごし、希望のないデータを集めるのは孤独で、空しくて、淋しい。助けは来ない。自分は人類として生きる最後の1人かもしれない。その重圧と責任感。マン博士のように狂気に駆られるのではないかという恐怖。全ての絶望を背負って生きるアメリアが忘れかけていた、仲間たちの存在について、機械に指摘されるとは思わず、日々に追いやられて必死に消し去ろうとしていた無力感を引きずり出されたような気がした。
時々思ってしまうのだ。ただ1人生き残った自分よりも、ガルガンチュアの果てで死んだクーパーの方が幸せだったのではないか、と。正常な嗜好と精神を蝕む孤独と立ち向かうこともなく、愛する人の死を目にすることもなく、暗黒の中へ消えていったクーパーには、どんな苦しみがあっただろう。身を引き裂かれる痛みか、娘や家族を置き去りにする罪悪感か。それもきっと一瞬で消えるだろう。多元宇宙の中で、彼の存在はごくごく小さく、ささいで、ちっぽけなものでしかないのだ。
「なぜ?なぜ、TARSに通信を送るの?」
アメリアはこみ上げる涙を堪えきれずに、震える声で問いかけた。
「彼も、ガルガンチュアに飲み込まれたのよ。クーパーと一緒。もう生きてはいないわ」
死という形の終焉。それは孤独よりもずっと容易いだろう。死さえ望む。アメリアは自らの気持ちを抑えられずに、ぐっと唇を噛んだ。宇宙服の分厚いブーツの靴先を見つめ、その磨り減って傷だらけの鉄板に年月を感じる。この星へたどり着いて、一体何日過ごしたのだろう。何ヶ月、何年。もう分からない。
「誰が、それを証明できますか?」
CASEは躊躇うことなく答えた。
「でも事実だわ。理論上ありえない」
「だが、誰も、"彼ら"の死を確認してはいない」
「あなたのユーモアセンスを疑うわね」
「私は真実ほぼ100%です」
「ほぼ、ね?」
「あなたに隠していた」
「仲間への通信を?」
「彼は、私の同機。いわば兄弟であり、分身だ」
「性格はずいぶん違っていたけれど」
「彼もきっと同じことをするでしょう。もしも、私がガルガンチュアに飲まれ、多元宇宙の果てに消えたら、同じ事をするでしょう。証明されないものを私達は、本当の意味で信じない。信じられない」
「ずいぶんと、人間的ね」
「それが、私に残された"ほぼ"です。あなた方はそれを希望と呼ぶこともあれば、諦めと呼ぶこともある。その呼び方は私にはどうでもいい。ただ、呼び続けることはやめられない。彼の名を。彼は私の家族であり、兄弟であり、分身であるから」
そこまで言い切ったCASEは、もうこれ以上の言葉を口にはすまいと決意するように、ため息をついて沈黙した。
「あなたにも、十分なユーモアがあるみたいね、CASE」
「褒め言葉ですか?」
「あなたはどう思う?」
「TARSと同等の扱いを頂けるのなら」
「あなたはとても人間っぽくて、聞き上手なロボットだって認めるわ。それは、あなたにしかできない。TARSのユーモアじゃきっと辟易するわ」
「少しでも、あなたの助けになっていればよいのですが」
「ええ、たぶん。十分にね」
アメリアは、流れ落ちる涙を指先で拭い、重いブーツを脱ぎしてた。細い体にまとわりつく防御服を脱ぎ、ほとんど肌着だけの格好になって、若い娘のように恥ずかしそうに笑った。
「夕焼けを見に行きましょう」
「その格好で?」
「有害ではないわ。それに、見る人もいない」
「・・・あなたが、そう言うのなら」
機械が示す事実のように、はっきりとした答えも実感もない。この手の中には相変わらず痛みも苦しみも、耐え難い孤独も或る。いつか自分は狂い、我を忘れて死ぬかもしれない。それでもきっとロボットは生き続けるだろう。
希望でも絶望でもない。ほんの少しの数値の揺らぎと、同型機として作られた共鳴が、ブラックホールへと消えた仲間を呼び続ける。それはきっとアメリアよりも、人類よりも強く長く確かな呼びかけだ。そう信じたい。
「いつか、返事が帰ってきたら教えて」
金属の床を踏み、乾いた風を頬に感じる。大地は赤茶けて荒涼とし、生命の息吹はどこにもない。だがいつか、この地に人類が栄える日が来るかもしれない。途方もなく無謀な絶望の先の儚い望みかもしれないが、TASEからの返答を待つことができるなら、新たな大地に緑が芽吹くのを見届けることができるかもしれない。
ほんの少しだけ土臭い、地球によく似た星の空気を肺いっぱいに吸い込んで、アメリアは歩き出した。