どこか遠くから歌が聞こえてくる。それは燐音が先日レコーディングを終えたばかりの新曲でまだ世間には発表されていないはずだ。ああ、いや、でも、この声はHiMERUのものだろう。
燐音がそこに気付くと同時に意識がゆっくりと覚醒してきて目を開ければ視界がやけに暗かった。そうか、ヘアバンドがズレてるのか。ベッド以外で寝ているときはたまにあるからさほど気にせずにヘアバンドを上にずらせば燐音は自分の目を疑った。寝起きでどこかぼんやりしていた頭が一気に覚醒していく。
「おや、起きましたか」
「メ、メルメル!?」
燐音の顔を覗き込むようにHiMERUが首を下に曲げた。その動きと共に髪の毛も少し垂れてくる。さすが伊達男は下から見上げてもサマになっているな。……ではなく、HiMERUを見上げている今の状況がおかしいのだ。
とにかく状況を把握しようと燐音が首を左右に動かそうとして気付いた。今、俺っちが頭を置いているのはどこだ? 燐音の今の体勢からして自分の腕を枕にしているわけではない。でも床にそのまま寝かされているほど頭の下にある物は硬くもなかった。何より普通に寝ているだけではHiMERUの顔を真下から見上げるような状況になんてなるわけがない。
「……えーっと、メルメルさん?」
「はい」
「もしかして俺っちってば膝枕されちゃってたり?」
「正解です。天城にしては気付くのが遅かったですね」
いや、寝起きなんだから手加減してくれよ。
その言葉は燐音の唇から発せられることはなかった。見上げているHiMERUの顔があまりにも楽しそうで声に出すタイミングを失ってしまったからである。その顔にどこかむず痒い気持ちになりながらも腹筋に力を入れて燐音は起き上がった。万が一にも頭をぶつけたりしないよう距離感を測りながら。
「別にもう少しぐらい寝ていても良かったんですけど」
「メルメルの脚を痺れさせないための燐音くんの配慮っしょ」
そう答えながら燐音は必死に自分の記憶をたどっていた。さすがに燐音が寝ているところにHiMERUがやってきて勝手に膝枕を始めたとは考えにくい。いくら相手がHiMERUだろうとそこまでされたら起きる自信がある。つまり現実的に考えれば燐音が自らの意思でHiMERUの膝に頭を置いたということだ。起き上がったときの反応からしてHiMERUが現状を受け入れていたことは確実といってもいい。
特に頭は痛くないため酔い潰れるまで飲んでHiMERUの膝で眠ってしまったという線は消えた。というかそれならHiMERUは被害者になるからこんなに機嫌が良いはずもない。
今日の記憶を順番に思い出すのが一番確実だろう。確か朝から昼過ぎまではユニットで雑誌の撮影をして、夕方からは燐音のソロでテレビ番組の収録だったはずだ。そう。それで撮影機器の調子が悪いハプニングが起きて、当初想定していたよりも大幅に時間が後ろ倒しになったのだ。この影響で普段よりも疲れて帰って来て…………思い出した。
燐音の顔色を見てHiMERUも思い出したことを察したのだろう。小さく笑い声が聞こえてつい燐音はそちらを睨んでしまった。HiMERUが今更この程度で動じるわけもないのだけれど。
「ふふ。疲れは取れましたか?」
「……そりゃァもうバッチリに決まってンだろ!」
これはもうヤケクソだとばかりに燐音は大きな声を出した。あの流れで本当に眠ってしまった自分に驚きを隠せない。一緒に住んでいるとはいえそこまで気を抜いているつもりはなかったというのに。ため息を吐いた燐音の脳内には帰ってからの会話が思い出されていた。
「メルメル~たまには俺っちを疲れてる甘やかしてくれてもよくねェ?」
こんなことを言いながらも燐音は別に本気で甘やかしてほしいわけではなかった。もちろん疲れてはいるが、HiMERUとある程度の会話さえすれば回復すると分かっているからこその発言である。
「ふむ。ではHiMERUの膝でも貸しましょうか?」
読んでいた本を閉じながらそう告げるHiMERUに燐音は自分の耳を疑った。一瞬自分が感じている疲れを忘れてしまいそうになるほどに。
冗談だよな?と思いながらHiMERUの顔を見るも、普段と変わらず涼しげな顔で笑っているから判別が難しい。しかしそれもHiMERUと出会った頃の燐音であればの話で、今の燐音ならこの表情が意図することを見抜けてしまう。
……コイツ、狼狽える俺っちを見たいために本気で言ってやがる!
HiMERUの思い通りにさせたくなければ燐音には誘いを断るという選択肢も存在する。HiMERUも断られたところで落ち込んだりはしないだろう。「そうですか」などと言って本の続きに戻るに違いなかった。
「天城、どうします?」
しかし断るという選択肢が存在しているからといって、燐音がそちらを選ぶことはない。例え、本音を言えば微妙に恥ずかしいという気持ちに襲われていても、せっかくの誘いを断ってしまうなんて面白くないことをするつもりはないのだ。そして多分、HiMERUはもう燐音のそういう性格まで見抜いている。
「メルメルがそこまで言うならノってやンよ」
燐音は大股でHiMERUが座っているソファーへと向かう。そのまま隣に座れば覚悟を決めるように唾を飲み込んでからHiMERUの膝に自らの頭を置いた。
「ふふっ」
「ンだよ」
頭上から笑い声が降ってきたが、燐音はどうにもそちらに視線を向けられない。どう考えたって甘やかすような顔をしているに違いないのだ。甘ったるい空気から逃れるみたいに燐音は自分の視界を隠すためにヘアバンドを目元まで下ろした。
「いくらHiMERUといえど人に膝枕をするなんて初めてなんですが、心地はどうです?」
「……心地ねェ」
純粋に枕として判断するなら少し硬いような気もする。ただ、それを補って余りあるものはあるのだ。HiMERUの体温が疲れている身体に丁度良くて、自分でヘアバンドを下ろしたとはいえ暗い視界が妙に眠気を誘う。
「……悪くはねェよ」
この言葉に対するHiMERUの返事はなかったと思う。燐音の意識が眠りに落ちる前に頭が撫でられたような気がするだけだ。