「こはくちゃん、前より足運び上達してるじゃねェか。ご褒美に燐音くんがキスでもしてあげましょうか~?」
前半だけで終わらせておけばいいものを、天城が桜河をからかってレッスン室で絞められかけていたのが一週間前。
「おらっ、ニキ! 麻雀やるからさっさと席着けって! ニキくんが勝ったら俺っちがキスのプレゼントでもしてやるからさァ」
シナモンで天城が椎名を強制的に麻雀に参加させて嫌そうな顔をされていたのが三日前。
天城は相手が拒否すること前提でキスを迫ることがある。出会って日が浅かった頃は本当にキスくらいならやりかねない人物だと思っていたが、あの残暑が続く日にその考えは覆されることとなった。
つまり天城がキスを迫っているのは全くもって本気じゃないのだ。桜河も、椎名も確実に拒否されるタイミングでしか迫っていない。天城はキスは結婚してからという考えのようなのだから冗談でも迫るのは良いのか疑問に思ったこともあったが、実際に唇が重ならなければ何を言っても大丈夫だと判断しているのだろう。
天城の考え自体は別にいい。むしろアイドルとしては好ましいとさえ言えた。この業界はスキャンダル一つで未来が閉ざされてしまう世界だ。結婚するまでキスをしないということはスキャンダルの種を一つ摘めることにも等しい。不意打ちでキスをされるような人物でもない。だから天城がどれだけ軽口でキスを言葉にしようと関係ないとそう思っていたはずだったのに。
プロデューサーさんとの打ち合わせが終わり、彼女は次の現場があると頭を下げて先にミーティングルームから出て行った。
今日の打ち合わせに参加していたのはHiMERUと天城の二人だけである。桜河と椎名は雑誌のインタビューを受けていたので不参加であった。打ち合わせの内容は二人にも伝える必要があるが、そこは天城がやるだろう。口では不真面目そうなことを言ってもリーダーとしての責務はきちんとこなしている。
手元ではなく天城の方に視線をやれば渡された資料を興味深そうに見ていた。打ち合わせの最中に「楽しそうな仕事だなァ」と言っていたのはどうやら本心だったらしい。HiMERUとしても今回の仕事内容に文句は一切なく、成功させれば知名度の上昇が見込め実績も作れる。彼女が裏で策略を考えているとは想像しにくいが、穿った目で見ようとしても資料を確認する限り完全にクリーンな仕事だ。Crazy:Bのイメージにもぴったりで断る理由なんて見つからない。天城が楽しそうだと感じるのも必然だろう。
こちらが見ていたことに気付いたのか、自分でも無意識の間に思ったよりも見つめていたのか分からないが天城が資料から顔を上げてこちらを見てきた。バチリと視線が交わる。
「メルメルみてェな伊達男に見つめられちまうと俺っち照れちまうっしょ」
からかい混じりの口調で言われてふと一つの疑問が思い浮かんだ。こんな、おあつらえ向きの状況だというのに。
「天城は、HiMERUにはキスを迫らないのですね」
目の前の天城は何かを言いかけたのか口を半開きにしたままこちらを見ている。HiMERUの言葉をどう処理するか悩んでいるのだろうか。普段より瞬きを繰り返していることから多少は混乱しているのかもしれない。いくら疑問を解消するためとはいえ突飛な発言をした自覚は言葉を発したすぐ後に芽生えていた。けれど一度吐き出した言葉は戻ることはない。それなら開き直って疑問の解消に努めるだけであった。
「天城が直近で桜河にキスを迫ったのは一週間前、椎名にキスを迫ったのは三日前と記憶しています。それに対してHiMERUには迫られた記憶はいつだったか思い出せないほど昔のことです」
「……あ~、メルメルったら随分と細かいことまで覚えてンのな」
「天城が分かりやすく対応を変えているだけではありませんか?」
「いや、多分ニキとこはくちゃんは気付いてねェと思うけど」
「つまり、HiMERUにだけキスを迫らないのは偶然などではなく、天城の意思が絡んだ結果だと」
天城がガシガシと音がしそうなほど頭を掻いた。
「過度な踏み込みは嫌われるぜェ。名探偵さん」
「名探偵は謎を解くためならどこにでも、誰にでも踏み込んでいくものではありませんか?」
一瞬の静寂とともに天城が大きく息を吐く。どうやらこの謎解きに付き合ってくれるらしい。俺は未だに答えの推測すらできていないのだ。天城に黙秘を決め込まれたら危うく解けずに終わってしまうところだった。その内容がキスであることは少しばかり締まらないけれど。
「……言っとくけどメルメルの方から振ってきたンだからな」
「ええ、もちろん分かっていますよ」
「分かってねェから言ってるんだけどォ」
天城が拗ねたように、いや照れたように視線を逸らした。その感情の意味が分からず首を傾げると「ほらな」と天城が笑う。一体なんだと言うのだ。
「ニキとこはくちゃんはキスしようとしたって拒否してくれるけど、おまえはどうなンだよ」
二人と同じですよと返そうとして言葉に詰まった。果たして本当にそうなのだろうか。HiMERUとしては二人のように拒否することが正解に決まっている。だからここで言葉に詰まってはいけない。悩んで即答できないだなんて、そんなの天城に対しては答えになっていることと同義になってしまう。
「……こっち方面の話は経験がないから俺っちの考えも外れると思ってたンだけどなァ」
天城が気まずそうに視線を泳がせる。おい、待て。こっちの言うことも聞かずに納得するんじゃない。
「天城、勝手に納得しないで話を聞いてください」
「お、おう」
勢いで天城の腕を掴んでしまったが特に振り払われもしていないので良しとしよう。
薄らと首の後ろが熱を持っている気もするが、今はどうにかして天城の誤解を解く方法を考えなくてはいけない。だって天城が言っているのは、俺が天城とならキスしても構わないといった種類の好意を持っていると予想したからこそキスを迫らないということだ。
そんなことあるはずがないだろう。天城とは桜河や椎名と同じただのユニットメンバーだ。最初こそなんでこんな奴らと組まなくてはいけないんだと思いもしたが、今では、まあ、大切な仲間になっている。愛情を抱くとしても親愛とかそういった類のはずだ。そして日本では一般的に親愛の情ではキスはしない。海外暮らしの経験があるためそちらの文化は理解しているが、少なくともキスに対する自身の感覚としては日本人寄りなのだ。
だから、そう。天城の考えているそれは誤解だと言ってしまえばいい。HiMERUが誤解だときっぱりと言い張れば天城も渋々だろうと納得はするだろう。一度別れて明日にでもなれば今日のこの会話なんてなかったことにして振る舞うはずだ。天城も、HiMERUだってそういうことはできてしまう。
そう決めて天城の顔を見れば、普段のようにこちらをからかうこともできないまま不安げに瞳が揺れているのが分かった。
なんで、おまえがそんな顔をするんだよ。
「…………天城」
「っ、メルメルったらようやく話がまとまったのかァ?」
「ええ、そうですね」
おそらく天城は自分で言っていた通りこういった会話への経験値が少ない。からかうなり煽る意図ならばいくらでも言えてしまうが、真剣な空気だと正解も間違いも分からなくなるのだろう。それとも相手が自分だからと自惚れてもいいのだろうか。
そんな経験値が低い天城に先に気付かれていたことについては少しばかり業腹だが、そのおかげでこちらも気付くことが出来たのだから良しとするべきか。
……腕を掴んだまま離さなくて良かった。天城ならばこのくらい振り払えるだろうがHiMERUが怪我をする可能性がある限り本気を出して逃げようとはしないはずだ。
天城の腕を掴んでいた手に力を込める。天城の視線が掴まれている自分の腕に向いた瞬間に距離を一気に詰めた。急に近付いたため焦点が少しずれてしまうくらい近く、吐いた息が相手にかかってしまうくらい近く、数センチ近付けばキスができてしまう距離だ。
それだけの距離でも俺の中に何の抵抗も生まれていないことに気付いて納得してしまった。そしてこちらが納得すると同時に天城が距離を取るように思いっきり立ち上がる。ふむ、納得した途端に腕を掴んでいた力を緩めてしまったかもしれない。本当にキスをするつもりはなかったのですが。
「な、お、おまえ、何やってんだよ!」
「本当に天城とキスできるのか確かめていました」
「……は、はァ?」
「これが他の人相手なら仕事だろうと抵抗感を覚えたと思われますが、天城相手にそれはありませんでした」
ゆっくりと立ち上がれば天城と視線が真っ直ぐ交わった。先程より強く瞳が揺れている。
「つまり天城が言っていた通り、あなたに迫られても拒否しないということですよ」
言葉の意味を理解した天城がまたしても頭を掻いた。まさかそう返されるとは思ってもいなかったのだろう。
「……メルメルが勘違いだとか誤解だって言い張ってくれたらこっちもなかったことにできたんだけどォ」
「ええ。天城ならそう考えていることも承知で、なかったことにしない方を選びました」
「それで、俺っちにどうしてほしいわけ? なかったことにした方がお互いに今まで通りの距離感でいれたっしょ?」
「天城は何もしなくて大丈夫ですよ」
はァ?とでも言いたげに天城が眉をひそめる。この話に深く踏み込んだとき、天城はこちらを止めようとしただけだった。顔を近付けたときも驚きと動揺と多少の照れはあっただろうが、嫌悪感といった類のものは感じられなかった。それならば、勝算だってあるだろう。自らにこういった感情が生まれるとは想像もしていなかったが、自覚してしまえば意外なほどストンと腑に落ちてしまった。
どうやら俺は天城のことが好きらしい。
「HiMERUが勝手にあなたに好きになってもらうよう行動するだけですから」
にっこりと笑ってみせれば天城が何を言っても聞かないと判断したのか諦めたように「好きにしろ」と小さな声で許可を吐き捨てた。