えんだー ここにいたー! デカい声と同時に教室のドアがガラリと開く。
高専のソファで新聞を読んでいた七海と、長い手足を思う存分に伸ばし数人分の面積を独占していた五条は、来訪者の声に顔を上げた。
「探したよ、五条先生! とナナミンだ!」
「どしたの、悠仁」
「……こんにちは、虎杖君」
「こんにちは! 先生がプリント持ってこいって言ったんじゃん、探したよー」
「ごっめーん、忘れてた」
定着してしまったのか、その呼び名が。
本当にひっぱたくべきだったのかもしれないが、さすがに手を出さなかった結果、七海はすっかりナナミンで定着してしまった。とうとう返事までしてしまう有様で、もうどうしようもないなと七海は思う。あの悪気無い笑顔は今更ひっぱたけない。
五条へプリントを渡した虎杖は「んじゃ!」と退室する素振りを見せたものの、ふと動きを止めた。じっと見つめる視線に気付いた七海は再び紙面から彼へ目線を動かす。
「虎杖君、私に何か用ですか」
「んー、用って訳ないけど。前にナナミンがさ、五条先生のことを『信用してるし、信頼してる』って言ったじゃん?」
それが気になっててさ、と虎杖は言う。
「その後、私は重要なことも言いました」
「それってもう無条件な関係じゃん、凄いなーって思ってさあ。なんか、いいよね! って言いたくてさあ」
「重要なことも思い出しなさい、虎杖君」
「さすが僕!」
「アナタも都合の良いことばっか言わない」
にこにこと笑う虎杖、突然自画自賛を始めた五条へ七海は顔を顰める。
「え、違うの?」
「違う、とは?」
不思議そうな若い顔。
『信用してるし、信頼してる』
確かにそう言ったし、間違いは無いのだが。違う、とは不思議な質問だった。
「んー、俺さあ難しいことは分かんねけど。あ!」
「はい! 虎杖君!」
首を傾げて悩んでいた虎杖が突然手を挙げ、五条が「どうぞー!」と指名する。
「ナナミン、五条先生のこと好き?」
「……は?」
「その顔凄いねえ、七海ー!」
げらげらと五条が笑い出し、喧しいことこの上ない。
唖然とする七海の横で笑い転げる五条へ、虎杖がやはり悪気など全く感じられない様子で「じゃあさあ!」と聞く。
「五条先生はナナミンのこと好き?」
「好きだよー、暗いけど!」
「アナタ達、三歳児ですか。思考が」
「ナナミンは」
七海は大きなため息を吐く。ここは高専だ、保育園や幼稚園じゃない。なんなんだ、この幼い会話は。さっさと静かな空間へ戻りたい七海は、適当にやり過ごすことにした。
「……はあ。どうでもいいというのが正直なところで」
「どうでもって?」
「好意の割合は……。そうですね、51:49位でしょうか」
「51が好意の方なの? 微妙!」
「良かったね、五条先生!」
ぱあん! とハイタッチの音が室内へ響く。もちろん、手の持ち主は虎杖と五条だ。
「ありがとう、悠仁! いやいや、本当に冷たいよね、この後輩。僕は結婚してもいい位好きなのに。でも七海も僕の事を想ってくれていたとは嬉しいねえ、じゃあ七海! しよっか、結婚」
「おー!」
「五条さん」
パチパチパチと拍手をする生徒は悪くない。ならこっちだ、と七海は腹の立つポーズで調子にのっている先輩を睨んだものの、いい加減に、と出かけた言葉を飲み込んだ。
『信用してるし、信頼してる』
この男は。
初対面の相手へ七海が自信をもって言える相手だ。尊敬はしていない、出来ない。でもあの時の自分は、無条件に悩むことなく彼を選んだ。
五条悟へ連絡をした。
「……いいでしょう」
「ん? 何が」
「結婚ですよ、結婚。そこまで私が好きならしましょう、結婚」
「え?」
「五条先生、結婚すんの」
唯一無二の瞳は隠されて見えないが、真ん丸になっているのだろう。
「ええ。何だか知りませんが、我々はそういうことになりました。虎杖君が愛のキューピッドですよ」
「おいおいおい、そんな死神の遺言みたいな口調で言う? 愛のキューピッド」
「俺、皆に知らせて来るねー!」
「あっ、こら! 待ちなさい、悠仁! 三歳児じゃないんだから!」
大きく手を振りながら虎杖が走り出し、追おうとする五条の襟首を七海が掴んだ。引き戻した際にぐえっと聞こえた声を無視し、七海が代わりに声をかける。
「廊下は走るんじゃありません、虎杖君。ぶつかった相手に殺されますよ」
「はーい!」
おめでとー! の大声が遠くへ去っていき、待ちなさいのポーズのまま固まっていた五条が慌てだした。
「もう少しまともな助言しろよ!」
「教師じゃありませんので」
「ええと……、七海」
「何でしょう」
ソファへ腰を下ろした五条は、ちらちらと彷徨わせていた視線を見下ろす七海へ向ける。
「オマエも就職して脱サラしたらノリが良くなったねえ」
「ノリ?」
五条の横へ片膝を乗せ、七海はソファの背へ手をついた。ギシ、と黒革のソファが軋んだ音を立てた。
「……え?」
「ノリなんですか。ノリでプロポーズしたんですか、アナタは」
「ぷ、ぽろぽーず」
「したじゃないですか。五条さんが」
「し、しました……けど。あの、七海」
「なんです」
「僕、男の子なんだけど」
「知ってますよ」
「七海も男の子じゃん!」
「知ってますよね?」
「知ってます……」
「宜しい。五条さん、男に二言があるんですか?」
七海の手が動く。
五条の頬を撫でた指がこめかみへ、そして目隠しを上にずらすと、困惑の色を浮かべた瞳と真っ赤な顔が露わにされる。
「す、すんの? 結婚」
「しないんですか? もしや詐欺ですか、詐欺なんですか。アナタ、私のことが好きなんでしょ、好きなんですよね、まさか嫌いなんですか」
「いや、ええと だってさあ!」
「だって?」
「ぼ、僕たち、手も握ったことないじゃん……」
「はあ。じゃあどうぞ」
では、と差し出した七海の手を五条が握り、数秒。
「これって握手じゃん!」
「アナタがそう握ったんでしょ。じゃあ」
「う……」
「鵜がどうしたかは知りませんが、一つお聞きします」
顔どころか手まで赤い。
温かな手を最低限に緩め、七海は指を絡めるように握り直す。
「なんだよ……」
「アナタと結婚するとなると、五条家から私へ刺客が放たれたりしませんか」
「放たれるかも」
「そうですか。なら始末しますが、構いませんね」
「どうぞ……、か、かっこいいね、七海……」
「ありがとうございます」
その時開け放たれたままのドアから「おい」と呆れた声がした。
「家入さん。お邪魔しています」
「おめーら何やってんだ。おい、五条。今、虎杖が奇声をあげて走ってるんだが」
床に散ったプリントを拾った家入はソファの上に放り投げ、煙草へ火を点けた。
「おや、ちゃんと走らないように言ったのですが」
「ちゃんと避けてくれたがね。で、五条がえんだああーって何?」
「悠仁ぃー」
五条は空いた片手で頭を抱え、七海は眉根を寄せる。
And I will always love …….
「あれ、別れの曲ですよね?」
「そうなの? え、別れんの」
「付き合ってもいないのに別れませんよ。で、いいんですね?」
「はい……」
頭をわしわしと撫でられた五条はソファへずるずると身を沈め、家入はぷはりと煙を吐く。
「だから学校のソファで何をやってんだ、おめーら。指相撲?」