風船 七海は特に子供、特に幼児に縁がない。彼らの相手が得意とは思えないし、街中で見かけてもに常に目を細めるほどでも無い。
けれど泣いている子供を見れば五月蠅いと思うよりも先に何事かと心配になる。泣く子を見たところで大抵は親子の交渉中なので口を出すことでは無いし、そもそも何を言っているのか分からない。けれど今回は違った。
街路樹の下で泣く女の子の横で小柄な女性が困り果てている。彼らの視線を追うと、青い空の下、緑の枝の隙間から赤い風船が見えた。
ああ、風船を逃がしてしまったのか。
枝に阻まれた風船は空へ逃げられないが、風も強い今日は時間の問題だろう。風船の細やかな錨、小さな紙は微妙な位置で揺れていて、小柄な母親では恐らく手が届かない。おまけに彼女の片手は赤ん坊入りのベビーカーへ添えられている。更に七海にも何とか解読できた泣く幼女の要望は強欲だった。取って、に加えて自分で取ると言い、母親をより困らせている。ああなると何をしても彼女は泣き続けてしまうのだろう。
無意識に足を止めていた七海が周囲を確認しても父親、あるいは関係しそうな人間はいない。
天気も良く、気持ちの良い秋晴れの日。風船を貰えたあの子は嬉しかっただろうに、今日を号泣で終わらせるのは気の毒だった。
物騒な世の中だ、見知らぬ男に話し掛けられたら怯えるだろう。ふう、とため息をついた七海はゆっくりと親子に近づき、静かに声をかけた。
「失礼、お困りでしたら取りましょう」
「え? はい、ありがとうございます!」
真っ直ぐに木へ歩く七海に彼女はすぐ意図を察してくれたようだ。怪訝な顔も一瞬、若い母親の顔には助かったと書かれている。けれど幼女は別だった。泣きたくて泣いているんじゃないとばかりに踏ん張った大きな瞳からはぽろぽろと涙が零れ、風船へ手を伸ばしている七海を睨んでいる。
「……」
七海は彼女と数秒見つめ合い、母親へ視線を動かした。
「……もし差支えなければ、私が彼女を抱き上げてもいいでしょうか。そうすればご自分で取れると思います」
「本当にすみません。この子ったら本当にもう!」
深々と頭を下げられた七海は念の為にと膝を突き、小さな子供と視線を合わせる。ここで更に泣かれては通報されかねない。
「私がお手伝いしますので、自分で取りますか? それとも私が取りましょうか」
「……が取る。自分でやる」
泣き声交じりで聞き取れなかった部分は自分の名前だったのだろう、こっくりと頷いた顔を確認した七海は再度母親を見ると、彼女は激しく頷いている。ここまで確認すれば幼女を上下に移動させても問題は無いだろう。
「では失礼します」
「いいよ!」
思い切り万歳をした子供を慎重に上空へと抱き上げると、小さな手はあっさりと揺れる紐と掴んだ。
「おじさん!」
「はい」
「……!」
ヒッと聞こえないのに聞こえた気がした声の主、見守っている母親へ七海は小さく頷く。彼女からすれば自分など立派なおじさんで間違いは無い。
「取れたよ!」
「良かったですね」
「うん!」
もういいだろう。枝へ風船本体が引っかかっていない事を確認した七海は子供を地面へ下ろした。逃亡を試みた風船も大人しく彼女に引かれて戻ってくる。
「ママー! 風船捕まえた!」
「こら! お……、お兄さんにお礼を言いなさい、ありがとうは」
「いえ、それには及びません」
母親の叱責に子供は涙の消えた顔で首を傾げてから、涙の消えた顔で思い切り笑った。
「おじさん、ありがとう!」
「はい。ご丁寧にどうも」
「あのね、おじさん」
礼を言い、目的を果たしたのだからすぐに走り去ると思った子供に話し掛けられ、七海は再び姿勢を下げて視線を合わせる。
「このまえね、弟が産まれたの。可愛いよ」
「良かったですね、おめでとうございます」
「風船貰ったけど弟が大好きだからあげようとしたのに、逃げちゃったの。おじさんは誰かいる?」
「……いますよ」
会話がカッ飛んで意味が分からないが、彼女の弟はベビーカーで寝ているのだろうから逃げてはいない。この問いは恐らく好意を持つ相手がいるか、ということだろう。七海が素直に答えると、彼女は「はい!」と掴んだ風船を彼の顔面へ突き出した。
「おじさんにあげる。弟ねてるから! 内緒だよ」
「いいんですか?」
子供から母親へ目線を動かすと、彼女もぶんぶんと頷いていた。
「うん。おじさんかっこいいし」
「ありがとうございます」
先ほどまでは彼女たち親子と自分しかいなかったのに、何故か通行人が増えて視線を感じる。おまけに彼女の母親も困りきった顔をしていた。感謝はしているだろうが、早く立ち去りたいに違いないのに。ここで自分が断れば、またしても事件発生になりかねない。
七海は小さな手から風船を預かり立ち上がる。見知らぬおじさんに抱き上げられても怯えず、更に風船を押し付ける度胸のある子は「だから好きな子にあげてね!」と『だから』が少々意味不明なこと言い、母親の元へ駆けだした。
「ばいばーい! おじさん、ばいばーい!」
母親は何度も頭を下げながら歩き出し、ところが「おじさん、弟見るー」と叫んで七海へ戻ってこようとした娘の手を慌てて掴んでいた。
「お待たせしました、五条さん」
「……待ってはいたけど、待ち合わせは数分後だから待ったとは言えないけど。どしたの、オマエ」
布の下で五条は目を丸くしている。
ついでに言えば彼ら付近の通行人すら目を丸くしていた。手ぶらでスーツ姿の金髪外国人がふよふよと浮かぶ赤い風船一つを連れて歩いて来たのだから、そりゃそうか。
無表情で現れた七海は風船を掴んだまま腕を組み、五条を見つめている。
「五条さん、アナタ……」
「うん?」
「可愛くない、とは言えませんね」
「どういう質問だよ、それは。誰に言ってんだよ、それは。五条悟ですよ、僕は。可愛いに決まってんだろ、イケメンだし。可愛いだろうが」
「そうですね。でしたら」
はい。
「はい?」
五条は目の前に突き出された拳を見つめ、恐る恐るこつんと拳をぶつけてみる。
「違います」
「ええー?」
五条の手を七海が掴み、小さな紙切れから繋がれた紐を渡す。忠実な赤い風船がふよりとその後を付いて来た。
「差し上げます」
「……ありがとう?」
なんだろう、今日は風船と共にデートをするのだろうか。
五条は悩み微笑んでから、七海の背をゴツリと殴った。