誰そ彼 ソファへ腰を下ろした五条悟は、より正確に表現するとソファの座面に腰を、背中は隣に座る後輩の左側面へ預けながら、頑丈な背もたれへ話しかけた。
「なあなあ、七海ー。オマエそろそろ誕生日じゃん」
「そうですね」
「何か欲しいモンとかあるー?」
「なんでです?」
加重をものともせずに読書を続ける七海はぺらりと頁を捲りながら、実に予想外の返事をしてくれた。
ガン無視されるかなと思ったのにお返事をくれたのは偉い。偉いなあと思いながら五条が適当に伸ばした手はちゃんと七海の頭に着地し、遠慮なくガシガシと細い髪を生やす頭を撫でついでに首を傾げる。
ってか『なんでです?』とはなんで。誕生日ならプレゼントだろ、だから希望を聞いたのに。チラリと見上げた七海の視線は活字の列を追い続けている。
「なんで、って。七海がお誕生日だからだよ。優しい先輩が何かプレゼントしちゃおうかなーって」
「そうですか。いえ、特には何も」
ええー? と五条は目を丸くする。
「何かあるだろー、何かなら。そう言われると俄然何かあげたくなっちゃうね、僕は」
よっ、と必要もない勢いづけの声と共に五条は起き上がり、身体の天地をひっくり返した。
そのまま七海とソファの背へ上半身を割り込ませ、背後から肩を抱くように両腕を回す。頑丈な後輩もこれには耐えられなかったらしく、本の頁は十枚以上戻ってしまう。「ぐ」のような「ん」のような声を漏らした七海は尻を前に動かしてくれた。
ぶ厚い背中で僕を押しつぶそうとせずに場所を開けてくれるとはまたもや予想外、偉いなあと五条は感心する。とはいえほんの少しなのでなかなか苦しい。
「ソファの背が折れそうだからですよ」
「僕の考えていることがよくわかったね、七海。ならもっと前に出ろよ」
「嫌です、尻が落ちます」
「落ちない落ちない。っつーか落ちても七海なら空気椅子、空気ソファ? でいけるって!」
「嫌です、そんなのは」
ソファ座面における尻の着地面積紛争を適当に落ち着かせた五条は七海の手元を覗き込む。
「ところでさ、適当にしか僕の相手をしない七海は何を読んでんの?」
「本です」
「それは分かるけど、何語だよソレ」
「ヒエログリフといいます」
「それが嘘だっつーのは分かるんだけどねー」
ヒエログリフなら僕読めるもん! というと、怪訝そうな表情の七海がやっと振り向き、五条は笑う。
「嘘だよーん」
「読めるでしょ」
「さてねー」
あははと笑い続けながら、五条は七海の肩をがっちりと掴んだ。
「だからさあ、七海ぃー。何か欲しいもん言えよー」
「……静かな時間、でしょうか」
身体ごと頭をゆさゆさと揺らされながら、七海は本の頁を元へ戻した。念のためだろうか、きちんと栞を挟んだのが面白い。
「それは今だろー? 折角なんだから誕生日に渡したいじゃん」
「前払いでいいんですが。五条さん」
「んー?」
「退屈してるんでしょ」
「うん!」
はああ、と隠す素振りも無い大きなため息と共に本が閉じられた。七海もやっと五条の相手をまともにする気になったらしい。彼が真面目な後輩へちょっかいを出すのは主に面白いからだが、他にもまあ、いろいろとあるのだ。
「いーねー、七海! 尊敬する先輩に対するその態度、嫌いじゃないよ!」
「尊敬はしていないのですが」
「すごく正直だな、オマエ」
五条はぷうと頬を膨らませる。
「ところで五条さん、私の誕生日なんてよくご存じですね」
「ああ、うん」
まあねと言いながら、五条はちらりと向けられた青緑の瞳から目を逸らす。
「おまけによく覚えているものだ」
「いやいやいや、こと誕生日という枠だとな? オマエの誕生日ほど覚えやすい日ってなかなか無いよ」
ナイナイと五条は大きく手を振る。
「私に話した覚えが無いのですから、誰かが教えた或いはアナタが誰かに聞いたのでしょう。それが不思議だと思っただけです。五条さんにとって不要な知識だ」
「で、何が欲しいんだよ」
「……人の話を聞いていますか」
「聞いてる聞いてるー」
五条の突き出すサムズアップには目もくれず、首を曲げたままの七海はじっと彼を見つめている。
「お、その顔。実は何かあるんだろ。頼り甲斐のある先輩、優しいこの先輩が何でも叶えてあげよう。そんな難しい顔を継続中ってことは、ひょっとして物じゃないのかな? まさか僕? 僕が欲しいとかそーゆーの? やっだー、七海のえっちー!」
「どうしてそうなるんですか」
七海は五条の目の前で、隠す気など全く感じれないため息をついている。
「七海はこんな面倒くさそうな顔をしてんのに、ずっと僕の相手してんじゃん。何かあんのかなって」
「そうですね、確かに無いとは言い切れませんし」
「ませんし?」
「言われてみれば、確かに。五条さん」
「ええ?」
今日のコイツ、七海は予想外なことばかりを言う。クソ真面目な顔に動揺しかけた五条は必死に表情を取り繕う。
「何かな?」
「仕事を一つ変わって頂きたいんです。七月三日の夜なのですが、誕生日がどうのこうのと当日に固執するいうことは、お時間あるんですよね」
「……ありますけども」
実は困っていたんです、と七海は静かに言う。
「出来れば夜に時間を作りたかったんです。会いたい方がいまして」
「ふーん」
なんでも、と。
七海が優しく、けれど妙に迫力のある顔で微笑む。
「なんでもと言いましたよね、五条さん」
「……言った。おっけーおっけー、任せなさい」
「ありがとうございます」
すくっと立ち上がった七海は、支えを失ったものの自前の筋肉を駆使したおかげで倒れるまでも無く、けれど妙なポーズの彫像と化した五条へ律儀に頭を下げてくれた。
「詳細につきましては、後程ご連絡しますので」
「りょーかーい」
※※※
五条悟は七海健人の誕生日を何故知っていたのか。
後輩だから、ってのは勿論ある。ついでに忘れにくい日であるのも間違いじゃない。
「……分かれよ、ばぁか」
まあ、たぶん。たぶんだぞ、たぶんだが。
僕はアイツ、七海のことが昔から気に入っていて、たぶん好きという部類のヤツなんだろうなあといつからか自覚していた。高専時代はあんなにペラッペラだったくせに、なんだあれ。クッソ頑丈になりやがって。幅と厚みは負けるが上背なら圧勝しているこの僕がどう寄りかかっても、あの野郎ビクともしない。
ありとあらゆる場所でべたべたとくっつけば、やっぱキモーい、とか思うかもしれない。そう考えて何度もチャレンジをしたのに、やべー何この頼り甲斐のある温もり僕ここに住みたい、と思ったのだから間違いなく、たぶんどころじゃないのだ。
「好き、なんだよなあ……」
会いたい方がいる。
そう言った瞬間の七海がどんな表情をしていたのか見えなかったが、その後の機嫌は非常に良かった。こわ! とかキモ! などとは思いもせず、ただ見惚れてしまったのだから重症だ。あんな顔をした七海に頭を下げられたら、引き受けない訳にいかねえだろ。理由はともかくとしてだ。
七海のバカ。
誕生日当日に固執したのは、渡す約束さえしておけば会えるかなと思っただけだ。
思えばいつから彼の誕生日を知っていたのだろう。おまけに七海の言う通りで、覚えやすいアイツの誕生日が主に悪いとはいえ、記憶しているだけでおかしいんだ。普通気に入っている後輩の誕生日なんか、あれ? 伊地知っていつだっけと悩んだ五条は正しく日付を思い出し、舌打ちをした。
「うるさいな、僕の記憶力は!」
来年、伊地知の誕生日にオメデトーは言ってやろう。問題は七海の誕生日、つまり本日で。
特別に想うヤツの誕生日だ、会いたいじゃないか。五条自身の誕生日ならギャーギャー騒げば捕まえておける。だが、本人の誕生日にそうはいかない。
なんだよ、七海のバカ。
彼女いなそうだし、彼氏? だっていなそうなのに。なのに誕生日にわざわざ会いたいヤツがいんなら言えっつーの。いや、言ったか、ウン言ったわ。固有名詞が無かっただけだ。そんなの普通は家族か特別な相手だけだろーし、七海の場合、家族ならそう言うだろう。ところがあの真面目な堅物が仕事を代わってくれだなんて前代未聞だ。
「ならもっと先に言えっつーの」
そもそも引き受けるなよと思う。あの真面目な後輩は、どうせ仕事の前後にでも会えればいいと考えていたのだろう。誰か知らないが、この五条悟と交代させるだなんて大した相手だ。
七海の、と呟きかけた五条は形の良い唇を閉じた。バカなのは七海じゃないと分かっている、真のバカなのが誰なのかも。
夏至を過ぎて約二週間。五条の誕生日なら真っ暗な時刻でも、七海ご指定の今はまだ明るい。
暦や刻についての知識は当然あれど、正確な分単位ではない。なんとなく調べてみると、本日の日の入りは東京なら十九時一分、惜しい! と彼は思った。
あと二分でこっちも七と三だったのにと笑いながら七海から頼まれたお仕事現場に立っている。が、立っているのに飽きたので、足を拡げて腰をおろし、所謂うんこ座りで待機していた。
明るい、と言えば明るいのが、こんな時刻は命を持たないモノによく出会う。
普通の呪術師でも危険なく祓える案件だ、ただしそれが当初の一体ならば。
この刻この場所、逢魔が時に現れ蠢く呪霊。
ある時から突如一日に一度、二乗で数を、そして力を増すようになった。一体でも残すと再び増え、ソレは最初に観測された時と同様にはもう扱えない。
「ま、よくある話だよねえ。んでこーゆーのは」
一体残らず、一気に祓うのが一番だ。
今はこの場所に固執しているが、いつ土地を分け時刻を問わずに増え始めるか分からない。アレはそれほど強くなった。それでも七海なら余裕だし、五条自身はといえば歩くだけで済んでしまう。
「そろそろやりますか……。って、んんん?」
ざわりざわりと呪霊が現れ、刻が蠢く。その気配に五条が立ち上がろうとした時、大股で歩く誰かが横を通り過ぎた。そして遠慮の無い轟音が一度だけ響く。
「……あのさあ、七海。僕が言うのもアレだけどね、せめて待ってあげなよ。増えた瞬間を」
「何か問題がありましたか」
「無いけどねえ、一網打尽だし」
「アレ以上待つのも時間の無駄ですので」
ただの一閃、それで終了。
ええと……と呟きながら五条は立ち上がる。
「何やってんの、七海」
「仕事です」
首を傾げる五条へ七海は頭を下げた。
「引き受けて下さり助かりました。ありがとうございます、五条さん」
「いやだから、仕事は僕が代わってやったじゃん。何でいんの、何やってんのオマエ」
「仕事ですよ、実は代わっていないんです」
「はあ?」
ってことは、と五条は腕を組みながら考える。
「ここの担当は私のまま、ということです。ですから私が処理をしました、報告も私が。そもそも」
「なにさ」
「一度引き受けた仕事は最後まで完遂します」
だよねえーと五条は大きく頷いた。何かおかしいと思っていたのだ。顔だって思わず渋くなる。
「ってことは? 僕の立場って今はなに?」
「お散歩中といったところでしょうか」
「はー?」
「本日、五条さんのスケジュールは終日空いていると聞いていましたが、違いましたか」
「違わないけどたまたまですよ、たまたまー」
七海の誕生日なので敢えて何も入れなかった、とは言いにくい。五条はぷらぷらと手を振りながら誤魔化した。
「あのさ、七海」
「何でしょう」
「オマエさ、会えたの? その、会いたいって言ってた奴に」
「ええ、おかげさまで」
「ふーん、良かったじゃん。ボクに感謝しろよ?」
本当に手際のいいことだ。これから会うのではなく、きちんと目的を果たしてから律儀に仕事へやって来たということか。
ならなんで僕を呼ぶ必要があったんだ、ひょっとして万が一間に合わなかった場合の予備か、予備なのか? この五条悟が!
「そうですね、アナタにしか出来ないことですし」
「なんかオマエさ、よくわかんないことばっか言う子になったね、七海」
「そうですか?」
くすりと七海が笑い、初めて見るタイプの顔に五条は目を丸くする。
「鬼の霍乱?」
「日射病には気を付けてください」
「あ、ハイ」
「全く……だいぶ鈍いですね、アナタも。私は五条さんに会いたかったんですよ」
なんだこの余裕の笑み。機嫌の悪さを隠しきれない五条の顔はなかなか険しいはずだが、七海は全く気にしていないようだ。
「私の仕事を代わって頂いたら、アナタ絶対にこの時間ここにいるでしょう。なら必ず会えますよね」
「……げっ」
「げ、とは何です」
五条の顔がぶわりと赤くなる。
「七海のくせに。な、なんか生意気じゃん……」
「欲しいものは無いか」
七海が一歩近づき、五条は思わず身構えてしまう。
「アナタがしつこく聞いたんです。あの時仮に私が五条さんをと答えても、アナタ絶対に逃げるでしょう」
「に、逃げないよ。失礼だな」
「逃げますよ」
視線をきょときょとと彷徨わせていた五条は諦め、七海を見た。
「……逃げんの? 僕」
「ええ、私はよく知っているんです。ずっとアナタを見ていたから」
「……げ」
何コイツ、何言ってんのコイツ。こんな顔でこんな優しい顔でこんな凄いことをさらりと言えるだなんて聞いてない!
「なので受け取りにきました」
すっと差し出された手をしげしげと眺め、五条は先ほどと反対側に首を傾げる。
「なに?」
「私へのプレゼントを持ち帰るんです。頂けないんですか?」
アナタを。
静かな声に五条はぱくぱくと口を開け閉めし、黙って閉じる。言いたいことが声にならない。
「な、七海のくせに……」
「生意気で結構。褒められたのだと思っておきます」
「生意気、オマエ本当に生意気!」
ばくばくと鼓動は高まり、顔色が元に戻せない。どんな顔をしたらいいのか分からない。僕はいつもコイツの前でどうやって彼を見ていたのだろう。
笑顔とはほど遠い顔で五条はなんとか手を差しだし、大きな、固くたくましい手を握る。
二人はしばらく黙って見つめ合っていたものの、先にため息をついたのは七海の方だった。
「何オマエ、失礼だな」
「五条さん。アナタ、恋愛の経験ってあるんですか?」
「うるさいよ、悪かったな!」
「これは握手というんですよ。一緒に歩きにくいです」
だってオマエが正面から、とギャーギャー騒ぎ出した五条の手を七海は握り直す。指と指が絡まるようにしっかりと。
「ところで五条さん。私に何か言うことはありませんか、ありますよね」
「……誕生日おめでと、七海」
「ありがとうございます」
頂きます、と七海は笑う。