Fan Fiction : in beakers 厚いガラスの向こうで気泡が揺れる音と、低い空調の音、一定のリズムを刻む電子音と、ペンを走らせる音。
静寂の中で、延々と記録を取り続けることが目下の彼女の仕事だった。一見無軌道なようで進展のない数値。変化がないことを確認して、ため息とも深呼吸ともつかない息を吐いた。
淡くライトアップされたガラスの向こうに目をやる。緑がかった液体の中で、巨大なトカゲがぐったりと揺蕩っていた。今は眠っている――小型の潜水艦ほどに成長してしまった、その爆発的な生命力ごと。
あまりの生命力に自壊してしまうのを無理やり繋ぎ止めるのは、医者としてのジレンマを生じさせた。その生き物は苦しんでいた。ここにいる他の、生粋の研究者たちのように、進歩のためと割り切ることができれば幾分楽になれるだろうかと彼女は考えた。そんな器用さは望んでもいないのだから、考えても無駄だと思いながら。
しかしある日、研究の主導者にして最高責任者である Prof.ジェラルドが実験体の凍結を命じた。眠っていれば苦しみからも離れられよう。と、彼が呟いたのが耳に残っている。
けれども、研究の進捗が止まっているのも事実だった。望めない進展を抱えて作業を続けることがこれほど心を腐らせるものかと、今度こそ特大のため息が出る。
腕のバンドから警告音が鳴った。大きくはない無機質な電子音に我に返る。呼び出しだ。場所は研究区域内の居住空間、自室からナースコールを押したということ。医療区以外に装置を備えているのは、一人しかいない。
薄暗い検体管理室を駆け足で出る、その先は長い廊下だ。
星のように無機質な足元灯が等間隔で並ぶ、長い通路は一面が大胆にガラス張りとなっている。外は無機質な金属色をした建造物が縦横に巡り、夜景のようだが、ビル群はどれ一つとして地面に立っていない。全て宙に浮いている。
彼方に、漆黒にぽっかり浮かぶ青い星がある。ここは母なる星を眼下に、その引力につかまって巡るコロニー・アーク。低重力のもと駆け足は軽やかに見えるが、踏ん張れないのでこれ以上速度を上げられないもどかしさがあった。
乗り込んだエレベータの中で滅菌ポーチから手袋とマスクを身に着けた。研究所内の医師資格者として、実質ある少女のかかりつけ医として、彼女は常に携帯していた。
コロニーの気圧式シャッター扉が開く。
「入るわね」
少女は壁の一面が凹んだ備え付けの寝台に横たわっていた。倒れている、と形容するのがより正しいだろう。白い肌は紅潮し、浅く不十分な呼吸を繰り返している。ブロンドの前髪をどけた際に触れた額は予期通り発熱していた。苦しげな呼気の合間に、か細い声で少女が言ったのは謝辞だった。
「ありがとう……」
「もう大丈夫。またよくなれるからね。今、どんな感じか教えて」
「寒気が、します……頭が、重くて……」
慣れた問診。肩越しに背後から突き出された装置を振り返りもせず受け取って記録を取る。後ろに立って補佐するのは同じくナースコールで駆けつけた同僚、彼に小声で指示を出す。心得た様子で頷き、部屋を出ていった。
少女は頻繁に体調を崩した。先天的な免疫不全。些細なことが、立ち上がれぬほど深刻な影響になる。復調しては床に伏せる日々。医者でもあるカーラには、しかしその都度対処するほかない。未だ気配もない治療法が見つかるまでは……だからこそ万が一がないよう、予定調和のような診察に見落としが無いよう、真剣に。それが己の役目であるから。
「マリア」
シャッター扉が開き、禿頭の老人が息を切らして入ってきた。おじいさま、と少女が呟く。そして、心配させまいとする淡い微笑を浮かべた。
「大丈夫です。カーラ先生がきてくださったので……邪魔をしてしまって、ごめんなさい」
治る見込みの立たない病と共にあって、マリアは常に前を向いていた。医者に対しては素直に病状を言うが、それ以外では主治医のカーラでさえ、弱音らしいものを聞いたことがなかった。かえって大人たちが心配になるほどに。
大気圏外に浮かぶ研究機関コロニー・アークの最高責任者、プロフェッサージェラルド。
ジェラルドの研究には複数の組織が後援している。その本人が何を望んでいるのかは、近しい研究員には瞭然だった。孫娘マリアの不治とされる病を克服するという、ひどく個人的で切なる願い。
トカゲを素体にした実験体バイオリザードを封印してから、ことさら Prof.ジェラルドが部屋に籠もりきっていることは知っていた。手がかりになるはずだったバイオリザードから進展が見込めなくなって、根を詰めているのではないか。カーラは機関の産業医でもある。そして研究者という生き物は自らの健康を投げ捨てがちだ。
他ならぬ孫娘の言葉なら聞くのではないか、祖父自身が体を崩せば元も子もないし孫も悲しむのはわかるはず。あまり無理をしないように伝えてくれとマリアに頼んだことがある。
少女は困ったような顔をして、それから柔らかい、透き通った笑顔を見せた。
わかった、私も気をつける。でも大丈夫、おじいさまはすごく頑張ってて、前に進んでいるわ。
彼女自身もまた、祖父ジェラルドが何を求めているのかを理解している。これが本当に己の3分の1程度しか生きていない少女が浮かべる表情かと、カーラの内心は驚嘆を通り越して呆れの境地だった。
しかし少女の言葉は本当だった。
「これ……いえ、彼……は、いったい」
緑白色の液体で曇るガラスの器。飽きるほど眺めてきた、実験生物を生育管理する培養器の中に、瞼を下ろして眠っているのはヒトだった。体長は1mほど、黒い被毛に覆われた手足は大きく腕は細い。頭身は低いが、彼らとしては成人はしてなくともそれなりに成熟した状態のはずだ。カーラや、隣で佇むジェラルドとは種族が異なるも、れっきとした「ヒト」だった。希少で人口は少なくとも、カーラの大学時代の同級生にもいたし、患者として受け持った者のなかにも、いなかったわけではない。
トカゲを主とする実験動物たちや、半ば機械制御をしている流動生命体の人工カオスとは、どうしても印象が違う。同じ培養器にヒトが入っているのはひどく冒涜的に感じた。
しかし……いまさらだ。命に貴賤はない。
医者としてそう誓っている。すでにプロジェクトチームは生物実験の一線を超えていたのだから、今更なのだ。人体実験も。そう思うことにした。所詮カーラは、 ジェラルド・ロボトニックという世紀の天才が先導する船の乗組員、彼に比べれば凡庸な研究者に過ぎない。彼にしか描けない科学の可能性の航路に魅せられて乗ってしまったからには、ついていくしかない。
「こんどこそ」培養器の照明に照らされた老科学者が茫洋と呟く。「こんどこそ、解となるものだ」
踵の後ろに、押しやった倫理の残骸が折り重なっているような気がした。
「ねえ先生。シャドウに会ったのよね」
診察後、道具を片付けていると、マリアが話しかけてきた。この頃彼女は調子が良く笑顔は花が開くような活力があって、この結果なら後回しにしていたやりたいことができるねと笑いあったところだった。
「シャドウ?」
「あたらしい子。まだポッドから出るには準備が必要だって仰っていたけれど、お話できる日が待ち遠しいわ。どんな子になるのかしら」
カーラは手を止めて、二度瞬きした。まるでかわいらしいスイーツやブティックの話をする面持ちで少女が言及するものが、今ジェラルドがかかりきりになっている実験体のことだと気づくのに少しかかった。