秋の合図 締め切りのある仕事に追われてばかりいると、足りなくなるものがある。サンプリングした音源が最たるものだが、不足するのは音に限った話ではない。
たとえば人との会話、誰かと食事を一緒にとる、風呂に入る。これは朝日奈と暮らし始めてからはそれなりに改善したと思う。
それから身体を動かすこと。筋トレにストレッチ、ジョギング。目的地を決めずに遠くまで歩く。店で買い物をする。近所の猫を撫でる。どれもここしばらくご無沙汰なものばかりだ。
九月の半ばを過ぎてもまだ真夏みたいな気温が続いたかと思えば、ゲリラ豪雨で電車は止まるし、猛烈な勢力の台風は来る。コンビニの新作秋スイーツが発売され、鷲上から林檎が箱で届いた、などなど。作業部屋に籠っている間に起った出来事は、すべて朝日奈からの話で知るばかりでまるで実感がない。
さっき提出した分が問題なく通れば、少し余裕ができるはずだ。鈍った身体を動かすついでに環境音でも録りに行くか。それか、外の空気を吸いに出るだけでも気分転換になるだろう。
そういえば、朝日奈からは公園で練習してから帰るとマインが入っていた。散歩がてら向かってみて会えれば良し、すれ違ったとしても別に構わないし。
何日かぶりに靴を履いて出掛けると、日差しはそれなりにあるものの、外は気持ちのいい秋晴れだった。時折通り抜ける風が心地よくシャツの袖を揺らす。
木漏れ日の下で顔馴染みの黒猫が腹を見せて寝転んでいた。居心地のいい場所を見つけるのが相変わらず上手い。
少し歩いただけで目当てのものはすぐに見つかった。風に乗って聞こえてくるのは伸びやかなヴァイオリンの音、それから子供の笑い声。人だかりの中心にはいつも通り楽しそうに演奏する朝日奈。やっぱり生の音はいいな。
作曲中も楽器に触らない日はないけれど、屋外で演奏する機会はなくなって久しい。コンバスを持って来ていれば合わせられたのに。録音機材も玄関に置いてきてしまったし、ポケットにはスマホしか入っていない。邪魔をしないよう声はかけず、広場を見渡せる木陰のベンチで練習が終わるのを待つことにした。さっきの猫ならここを選ぶだろう。
ゆっくり雲を眺めるのも久しぶりだ。上空は風が強いらしく、澄み渡った青空にハケで刷いたような巻雲が繊細な線を描いている。
「空が高いな」
何年も前に秋の高い空をモチーフに曲を書いたことがある。当時は切ないとか泣けるとか評されて妙な気分がしたものだ。どうせ後から付け足された歌詞の影響だろうと思っていたけど、たぶんあれは札幌の空だったからだ。だとすれば短い夏を惜しむ一抹の淋しさのようなものが根底にあったとしてもおかしくはない。
関東での生活にも慣れ、いまとなっては秋の訪れは待ち遠しい。日中はともかく、夜も気温が下がらないのには辟易する。生活が変われば、考え方や感じ方も自然と変わってゆくものなのだろうけど。こいつは全然変わらないな。
ヴァイオリンの音が高い空にどこまでも響きそうですごく気持ちいい。と音色も表情も雄弁に語っている。この音を先に聴いていれば全然違う曲ができていたんだろうか。
甘く香ばしい匂いに気づいて目を開けると、いつの間にかヴァイオリンの音は止んでいて、ちょうど隣に朝日奈が座ったところだった。
「公園に来てるってことは、お仕事終わったんだ。おつかれさま」
「……ああ、返事はまだだけど一区切りついた。あんたはもう練習いいのか」
どうやら少しうたた寝をしていたらしい。暑くも寒くもなくいい風が吹いていてBGMが朝日奈の音、とくれば最高の昼寝日和に違いない。
「いまね、帰ろうとしたら焼き芋屋さんが通ったの。そしたら笹塚さんいるんだもん」
見れば茶色の紙袋を抱えている。うまそうな匂いはそれか。熱々をここで食べるのかと思えば、出掛ける用事があるとかでひとまず帰るらしい。
「紫芋のタルトに、こっちは和栗のパフェかあ」
買ってきた焼き芋を頬張りながら雑誌の秋スイーツ特集をチェックするとか、なかなか食いしん坊な光景だな。
「秋って美味しいものが多すぎて困っちゃう。源一郎くんが送ってくれた林檎もまだたくさんあるからアップルパイも作りたいし」
食べ過ぎないように気をつけなくちゃ、と言いながらまた焼き芋をひと口。食欲の秋を体現した様子は、幸せそうなので見ている分にはまあいいけど。
「天高く、唯肥えるあk……んぐ。うまい」
「だからまだ太ってないってば! 笹塚さんわたしより甘いもの摂取してるはずなのに、ぜんっぜん体型変わらないのズルい」
糖分は脳の活動で使うから足りないくらいだし、そもそも基礎代謝が違うんだから比べても意味ないと思うけど。それに、少しくらい脂肪がついてたって問題ないのに。
口を塞ぐように押し込まれた焼き芋はねっとりと甘くて、忘れていた大事なことを思い起こさせた。一番足りなかったのは恋人を抱いて眠る、だ。
サロペットの脇から手を入れて、ブラウス越しに身体の線をなぞるように撫でていく。ああ、確かに少し肉付きが良くなっているかもしれない。早く直接触れて確かめたくて堪らない。
「ひゃっ……ちょっと、つまんじゃダメぇ」
元々脇腹が弱いというのもあるけど、身を捩って逃れようとすればするほど掴みやすくなるの、知らないのか。場所を変えながらこれまでにない感触を楽しんでいると、密着したところから伝わる熱が次第に高まってくる。
触れたい。触れられたい。
お互いに恋人同士の時間が足りていない。
「太りたくないなら運動しかないだろ。いま食った分のカロリー消費に協力してやる」
「まって、なんで脱がそうとするの⁈」
「着衣のままがいいならこのまま押し倒すけど、いいか」
「良くないよくない! それにあと一時間で出なきゃならないって言ったよね⁉」
そういえば立て込んだ締め切りのせいで中途半端に切り上げたライブの打ち上げ。仁科と三人だけで仕切り直すって言ってたの今日だっけ。
まあいい、一時間あれば十分だろ。
「このままするか、ベッド行くか。選んで」
「選択肢がおかしい」
文句を言いながらも抵抗するそぶりはなく、俯いて表情が見えないまま頭をぐいぐいと押しつけてくる。
「……連れてって」
めずらしく甘えた声なんて出すから。
とりあえず仁科に『遅れる』とだけマインしておいた。