ラブレター スターライトオーケストラに正式に参加することになり、その拠点である横浜での練習に参加するため、千歳を飛び立ったのが今朝早く。ラザルスでは三年生の必須授業はもう殆どないし、ネオンフィッシュの活動スケジュールも仁科が調整済なので、しばらくは横浜に滞在するつもりだ。
引っ越しという程ではないにしろ、数日分の着替え、ノートPCと多少の録音機材、それにコントラバスを合わせるとそこそこの荷物になってしまった。嵩張るモニターはネットで発注しておいたものが夕方届く手筈になっている。そうすれば、ほぼ自宅と同様の作業ができるようになる筈だ。
それにしても疲れた。運動で体を動かすのなら苦にはならないが、慣れない肉体労働なんてするもんじゃない。
いつの間にか、菩提樹寮のラウンジにあるソファで微睡んでいたらしく、夢を見た。
朝日奈がうちへ来て手料理をふるまってくれた日、札幌で最後に会った日だ。曲を書いている時はずっと朝日奈の事ばかり考えていた。顔を合わせたあとはずっと朝日奈を見ていた。それから音を合わせて、だんだん距離感が分からなくなって。あろうことか、甘い匂いにつられて思わずキスしそうになった。
何故こんなにも気になるのかわからない。音ならともかく他人の行動に執着することなんてなかったのに。
ただ、見ていると面白い。飽きない。知りたい。子供の頃図鑑を貪り読んだ時みたいに、興味を持ったらとことん調べて、胃の腑に落とし込んで理解を深める感じに似ている。
それが何なのか確かめたくて、腹の虫を満足させた後は作業部屋に戻って曲の手直しをすることにした。自分を客観的に見るためにはこれが一番手っ取り早い。結局、解析には至らなかったが曲の方はひととおり満足できるくらいの仕上がりにはなった。
ひと息ついて、ちょっと仮眠しようと目を閉じて。気がついたら夜だった。もうとっくに朝日奈は横浜への帰途についてしまっていた。
そういえば帰る間際、朝日奈が部屋まで来て話しかけられたんだった。身体は寝ていて意識のみ起きている、いわゆる金縛り状態だな、と思ったのを覚えている。
ああ、確かにこれは夢だ。あの時はわからなかった朝日奈の表情まで見える。
「あれ、もしかして寝てる……? ふふ、座ったまま」
デスクの横に立って俺の顔を覗き込んでくすくすと笑ってる。何が面白いんだろう。俺の寝顔なのか、それとも椅子に座ったままの寝姿だからか。
それにしても今日はよく笑う。音を合わせている時も、料理をしている時も、食事をしている時も。何やら楽しそうに話しているかと思うと、次の瞬間笑っていることが多かった。出会った頃の硬い表情がウソみたいだ。
「笹塚さん、そろそろ時間なので帰ります。今日はたくさんお話できたし、一緒に演奏してもらえて嬉しかったです。さっきの曲、楽しみにしてるので出来上がったら教えてくださいね」
俺を起こさないようにする為か、耳元で囁くみたいにしてるけど、こんなに近いとは思わなかった。近付き過ぎだってわかってるんだろうか。ちょっと首を動かせば唇が触れてしまいそうな、そんな距離。当時は金縛りだったし、いまは夢の中。どちらにしても身体の自由が利かないのがもどかしい。
「あっ、そうだ」
今度はキョロキョロと辺りを見回して、デスクにあった付箋に何か書き始めた。あれか、起きたら眼鏡に貼っつけてあったやつ。ちょっと歪なニコニコマークが書かれてたメモ。
『プリン作ったので食べてください。おいしいよ!』
確かにあれは美味かった。懐かしい感じのちょっと固めの生地で、卵の濃厚な味わいとカラメルソースの程よい苦み。また食べられるだろうか。
「朝日奈さん、そろそろ出るよ」
ドアから顔を覗かせた仁科に手を振って答えると、また朝日奈が耳元へ顔を寄せてきた。だから近いって。
「じゃあ、横浜で待ってますね」
そう言って身体が離れていく際、ぱさりと落ちた朝日奈の髪がひと筋、腕組みしてる指先に一瞬触れて、するっと通り過ぎていった。