想い知る時【銀唯】「ちょっ! 唯? とにかく落ち着こうか? な……?」
「私は冷静だよ」
フローリングに仰向けに押し倒された銀河を、唯が組み敷くような体勢で見下ろしている。背中にひんやりとした床の感触。ドラマだったらこのまま胸キュンな展開が始まるところだが、唯の表情はそれはそれは険しかった。
「唯〜。とりあえず、俺の上からどいてもらえないか? 話し合おう。な?」
銀河が諭すように告げると、唯の瞳からみるみるうちに涙が盛り上がってきた。次に瞬きをしたら、すぐにでもこぼれ落ちそう。唇もわなわなと震えている。
「銀河くんが悪いんだよ! だって、キスをしてくれないだもん!」
二人が修羅場になっている現場は、銀河のマンション。唯が高校を卒業して、法的に成人といえる年齢に達したところでようやく入ることが許された場所だ。二人の関係が歳の離れた幼馴染から恋人へと変化したこともあって、こうして週末はお家デートを楽しむようになった。そして今日も、二人きりでのんびりまったりと平和的に過ごしていたのだ。しかし、夜も更けてきたしそろそろ家に送ろうかとなったところで、唯にこの展開に持ち込まれてしまったのだ。銀河が押し倒される側だ。
手を出してくれないことに、不安を抱いての行動だとわかるから責める気持ちになれなかった。三十代に足を踏み入れた銀河だが、そういった方面が枯れてしまった訳ではない。まだそこまで歳は食っていない。好きな女と二人きりでくっついている間、そういう意識はずっとしている。だが、唯にはまだ手を出していなかった。成人したとはいっても、彼女は銀河にとってこれまでと変わらず大切で特別な女の子だ。小さく華奢なその体を欲望のままに組み敷いて、ものにしてしまうことは簡単にできる。でもそれはしない。本当に本当に、唯が大切だからだ。干支を一周するくらい抱えて拗らせたこの想いを一気にぶつけたら壊れてしまうんじゃないかとも、恐れに似た感情を抱いている。だからこそ……。
「銀河くんが教えてくれるまではどかない! 私の魅力や色気が足りない? それとも、付き合ってると思ってるのは私だけ?」
一息でまくし立てると、唯はゆっくりと瞬きをした。すると、瞳に留まっていた涙が、堰を切ったように溢れ出してくる。涙と一緒に鼻水も出てきたのか、ズビズビと啜ってとんでもない顔になってしまった。
「俺の態度が、お前をそこまで追い込んじまってたのか……」
銀河が唯の頬へ手を伸ばし触れる。唯が嫌々をするように顔を背けようとしたから、もう片方の手も伸ばして両頬を挟み込みその動きを阻んだ。それ以上は抵抗する意志がないのか、唯はおとなしく泣き顔を銀河に晒した。
「うう。今、涙と鼻水でものすごくブスになってるから見ないで欲しい」
「お前は泣き顔も可愛いさ」
「銀河くんのバカーーー」
そう告げると、唯は銀河の上にそのまま体を預けてきた。ラッコの親子みたいな体勢になってしまったが、それはそれで銀河にとって丁度良かった。
「お前に魅力や色気が足りないとか、理由としてあり得ねえよ」
「本当?」
「あ〜。本当に本当。マジだ」
「……信憑性が足りない」
日頃の言動からの自業自得とは言え、唯は言葉だけでは信じられないようだ。
「銀河くん、ごめん……。銀河くんが私のことを好きだって思ってくれてるのは、分かってるんだよ。でも、一緒にいるだけじゃ足りなくて私はどんどん欲張りになってくる……」
──いよいよ覚悟を決める時だな。
銀河は心の中で呟いた。惚れた女にここまでさせてしまった上にここまで言わせて……。それでもはぐらかして我慢するのは、銀河にとってももう限界だった。
「唯。顔を上げろ。このままじゃ、キスできねぇだろ?」
「え!?」
唯は、銀河の胸元に埋めていた顔を上げる。まだ残っている涙の跡。彼女は今の自分はブスになっていると言っていたけれど、銀河から見るとどうしようもなく可愛くて、魅力と色気に溢れている堪らない顔だ。
「一つ確認。銀河さんが、お前になかなかキスをしない理由……。この後キスをしたらバレちまうだろうけど、それでもいいって言うならな?」
「いいに決まってる!」
「ハハッ。それでこそ、唯だな……っと!」
掛け声とともに、銀河はくるりと体勢を変える。唯の頭が痛くないように腕枕をして、添い寝をするような形になった。
「するぞ?」
「いいよ。でも……予告されると緊張する……」
「俺もだ」
唯は、銀河の言葉にくすくす笑いつつそっと目を閉じる。銀河は、そのふっくらとして瑞々しい唇に自身の唇を重ねた。キスをするなんていつぶりだろう? 女性経験がゼロではない銀河だがもう記憶の彼方だ。唯の唇は、びっくりするくらい柔らかくて、このまま貪り尽くしてしまいたくなるくらい甘い。彼女とゼロ距離で触れ合えたことで溢れ出してくる激しい感情。長い年月を掛けて降り積もってきた銀河のこの想いは、唯にとって重たすぎるのかもしれない。でも銀河は、それを伝える覚悟をさっき決めたのだ。このキスに、全てを込める。
「んっ……」
徐々に深くなってくるキスに、苦しげな声が唯から漏れる。狂おしいくらいの気持ちは、きっと伝わっただろう。今日はこれくらいにしておこうと唇を離しかけたところで、今度は唯が唇を寄せてきた。
「まだ銀河くんとくっついていたい」
とんでもない殺し文句をどこで学んだのか。長年、想いを降り積もらせてきたのは銀河だけではない。そう告げるかのような彼女からのキスに、銀河は想いとともに抱いてきた恐れが溶かされていく気がしたのだった。