「湖」「砂時計」「壊れた剣」 昔々、まだ海が世界の境だった頃。世界の表と裏が容易く繋がり、国が一夜で滅びた頃。
木々が青々と茂り獣たちがひっそりに暮らす山の奥に、澄んだ静かな湖がありました。
その湖に、魚は住んでいませんでした。藻は一欠片もなく、湧く虫もなく、近寄る獣がいないどころか、降る雨も吹く風も水面を避けるせいで波一つ立たない、そんな湖でした。
何しろとても澄んでいるものですから、湖の底まで見通せるはずなのですが、いくら覗き込んでも果てはなく、いつしかそこは「空の穴」と呼ばれるようになりました。
さて、獣も虫も雨も風さえ寄り付かない場所に近づくのは人間だけです。さすがに気軽に立ち寄れはしませんが、世界で最も清らかに星空を映す湖は、旅人のひそかな憧れの地でした。
人が大勢訪れれば、中には罰当たりがいるもの。その夜、空は雲に覆われて、「空の穴」は大地にぽっかりと空いた暗い穴のようでした。
満天の星空を楽しみにしていた旅人は、「こうなりゃ誰も知らない湖の底を確かめてやる」と、風さえ避ける水面に飛び込んだのです。夏の近づいてきた春の夜のことでした。
透き通る水は静かに旅人を飲み込み、泡も波紋もあっという間に水面の外へと逃げていきました。
いつまでもどこまでも続く暗闇に、旅人は段々酔った頭が冷めていくのを自覚しましたが、あらあら、なんてことでしょう。思ったよりもずっと早く、旅人は、「空の穴」の底にたどり着きました。
それは透明な砂の満ちた、なんとも不思議な場所でした。水晶を砕いたような透明な砂粒が、一粒一粒光を反射するどころか素通りさせて、そのせいで湖の底にまた水面が広がっているような、おかしなことになっています。
これが水面から底が見えなかったからくりか、と感嘆して、旅人は水底の砂を一掴み、ポケットに仕舞いました。誰かに言うつもりはありませんが、記念に証拠を持ち帰りたかったのです。
さぁ戻ろうか。そう思ったところで、旅人は暗闇に挟まれた水底に、自分以外の異物があるのに気づきました。
それは、水底に突き立てられた、一本の見すぼらしい剣でした。柄は折れて引き抜くには鍔を持たねばなりません。刀身は錆びている上に刃毀れしていて、澄んだ湖とはまるで正反対です。
こんな綺麗な場所にこんな見すぼらしい剣があるのが面白くなくて、旅人は剣を引き抜こうとしました。
「それはオススメしませんよ」
声をかけられて、旅人はびっくりしました。水の中で声が聞こえるのも変ですが、この湖に自分以外の人が潜っているのもびっくりです。
旅人は辺りを見渡しましたが、声の主は見つかりません。それもそのはず、声は湖の底、透明な砂粒の奥から聞こえてきたのでした。
「その剣は栓なのです。引き抜けば砂はこぼれ落ち、あなたの世界はこの穴に落ちていくでしょう」
栓? 落ちる? あなたは一体? いくつも疑問が浮かびますが、どれも泡になって消えていきます。そろそろ息も限界です。
それでも旅人が未練がましく砂に足をつけていると、声は吐息混じりに言いました。
「風よ。ここに来ておくれ。泡となってその方を包んでおくれ」
すると、ぶくぶくと泡が降りてきて旅人を包みました。やっと息が吸えます。それに声も。
お礼を言って、旅人は水底の声にいくつも疑問を浴びせました。
「ここは砂時計なのです。昔、今よりずっと昔、神々の火と竜の息吹で世界が形作られた頃、協定が結ばれました。この砂がこちら側にすべて落ちたら、世界は裏返り、裏の世界が表に、表の世界は裏になると」
旅人はびっくりしました。世界の裏、それは即ち常世です。「空の穴」は本当に世界の穴だったのです。
「砂がどこかに飛んでいかないよう、水が重石となり、風もこの穴を避けるようになりました。魚も獣も虫でさえ気を使って立ち入らないのに、人間はいつの世も度し難いですね」
「す、すみません。じゃあ、あなたは……」
「わたしは世界で初めての人の死者。この穴の番人をしています。その剣は砂がこぼれぬよう古代の王が差し込んだもの。触れてはなりません」
「えっと、それはズルでは?」
「人間は度し難いものですよね」
繰り返す番人に、反論できず旅人は黙りました。実際、そのズルで助かっているわけですしね。
「この剣、随分ボロボロですが、修理したり別の剣に替えなくていいんですか?」
「その剣は今の人の世では生み出せません。役目を終えるにしても、替えとなる物を用意できてからの話になりますね」
「その前にこの剣が折れたりしたら……」
「それが表の世界の寿命ということでしょう。さぁ、もう行ってください。そろそろ風に無理をさせるのも申し訳なくなってきました。世界の終わりを間近で見るのは辛いものなのです」
逆らうのも気が咎めて、旅人は水底を蹴り「空の穴」を後にしました。旅人の服が吸ってしまった水は、風に運んでもらって雲となり、雨となって再び湖に帰ったそうです。
「空の底」のある山を去ったあとで、旅人は思い出しました。ポケットに一掴み、水底の砂を持ち帰ってしまったのです。
あの水底の砂がすべてこぼれたら、世界は終わる。砂一掴みぶん、世界の終わりが近づいてしまいました。返しに行かねばなりません。
旅人は踵を返しましたが、足が止まりました。瞼を閉じれば、あの暗闇が思い出されます。酔った勢いと無知の鈍感さゆえ、あのときは平気でしたが、今は。世界の終わりを間近で見るのは辛いものなのです。番人の言葉が、ようやく理解できました。
旅人は砂を大切に小瓶にしまい、いつか返しに行こうと思いました。いつか、勇気が出たら。そのときに。
そのときが来る前に、「空の底」の上には王の命令で神殿が立ち、余人が立ち入ることは禁じられてしまいました。罰当たりな旅人のように、湖の底を探って真実を教えられた者が、王にそれを教えたのでしょうか。
いいえ。王は単に、「空の底」の映す星空に恋をしただけでした。これを誰にも見せたくない。独り占めしたい。だから蓋をして、誰も立ち入らせないようにしたのです。ええ、結果的には助かりましたよね。旅人のような罰当たりが、いつか剣を引き抜かないとも限らないのですから。
けれど、旅人は砂を返しに行けなくなりました。いつか、勇気が出たら。王に頼もう。世界の終わりを遠ざけるために。砂を返してほしいと渡しに行こう。
最後の日までそう思いながら、旅人は息を引き取りました。
さて、これがこの砂の由来です。いかがでしたか? お気に召しましたか。それは良かった。
ええ、どうぞ。お代をいただけるのですから、断るつもりはありません。今日このときより、この砂はあなたのもの。どうされますか? 大切に飾っておく? ふふ、ええどうぞ。澄んだ水のような砂は、きっと金の杯に映えるでしょう。
世界はまだ滅んでいませんから。今すぐ砂を返しに行く必要はありません。どうぞお好きに。ええ、はい。この砂を旅人が持ち帰ったのは、今よりずっと昔のこと。
まだ闇が深く夜にのしかかり、祈りが容易く人を殺した頃。遠い、遠い昔の物語。