妻一筋の領主と悪どい後妻 昔々、まだ血に尊い卑しいという枕詞がついていた頃。人の命に優劣があることが当たり前で、容易く弱者が血の海に沈んだ頃。
領主失格と謗られている男がおりました。容姿端麗、賢く利発で知識を重んじ、武芸を収め真面目に鍛錬を欠かさず、領民に思いやりを持って統治を行い、若くして亡くなった妻一筋で子を持たない領主様です。
仕方のない面もありました。血が重んじられる時代、跡継ぎのいない領主は領民の未来を軽んじていると言われても仕方ありません。養子を取れば良いと言っても、その養子を選ぶのに流される血の多さと来たら! 領主さまが後添えをもらうのが一番平和的な解決策でした。
ああ、けれど。領主さまは心から亡き妻を愛していたのです。それが領主さまの唯一の欠点だったのかもしれません。もっと心なく無慈悲な方だったなら。いえいえ、言っても仕方のないことですね。臣下たちも思いやりに欠けていました。
領主さまが選んだ後妻は、とても優雅で賢く妖艶で、冷たい血で涙の涸れた、それはそれは悪どい美女でした。
とはいえ、領主さまの統治が陰りを見せたわけではありません。領主さまの治世は相変わらず慈しみ深く。けれど時折、奥方の庭で血と悲鳴が響くようになりました。
庭園の木にイバラを編んだ縄で吊し上げられた男が泣きじゃくるのに、奥方はころころと笑います。
「ああ、なんて愉快なのかしら。女を無理やり襲って勝ち誇った男が、まるで手弱女のよう。見て、惨めに縮こまった男の印を。もうちょん切ってしまおうかしら?」
いくら罪人とはいえ、奥方の愉しみのために苦しめ殺めていいわけはありません。
なんて、後の世だから言えることです。この時代、領主の持つ権力は絶大でした。領主さまが奥方を諌めない以上、誰も何も言えません。
恐れ慄いた臣下のひとりが、奥方に媚びへつらいます。
「おお、あなた様のなんと美しいこと。その黒髪の麗しいこと。唇の赤々しさ、肌の瑞々しさ。青白く痩せ細って先立った先妻など比べものになりません」
「まぁ……とても嬉しいわ。どうもありがとう、ご親切な方」
瞳を潤ませ頬を火照らせ心よりお礼を言って、奥方は媚びた臣下を壺に入れました。内側にびっしり棘の生えた壺です。
ころころと壺を転がされ悲鳴を上げて、臣下は血だるまになって奥方様を喜ばせました。
「旦那様は仰いますの。罪人と亡き奥方を侮辱した者以外は殺めては駄目だって。
それを知ってわたくしを慰めてくれたのでしょう? ご親切な方」
感謝の印に、奥方は臣下の命だけは許してやりました。包帯まみれで言葉を失い呼吸をこぼすだけの肉塊になった臣下に、民草は恐れ慄きます。
けれど、自分だけは平気だと思う者はどこにでもいるものです。甘い汁を吸いたい者たちが、こそこそ集まって奥方様を唆しました。
「奥方様、奥方様。さぞ窮屈な暮らしをされていることでしょう。わたくしどもにお任せください。あなた様の無聊を慰める、無数の血をご用意します」
「ですからどうぞ、領主の座をわたくしに。その暁には、あなたのためにこの地を血に沈めてくれましょう」
「まぁ……皆様ご親切に。とてもとても嬉しいわ。わたくし、感激してしまいました」
熱心な口説き文句に、奥方は心からお礼を言い、彼らの首で庭を飾りました。
血を滴らせる生首は無言の絶叫で奥方を喜ばせ、それを見て領主さまもニコニコと笑ったそうです。
ええ、これが領主さまの復讐だったのでしょうね。結局ふたりの間に子はできず、ふたりを恐れぬ強く聡明な子が跡取りになったそうです。
奥方さまは意外と義理の息子を可愛がったそうですが、息子は奥方さまが苦手でした。それはそうですね。
ですけど不思議だったので、息子はある日聞いたそうです。なぜ反乱の誘いを突っぱねたのか。領主の言いつけに背かず、罪人と亡き先妻を侮辱した者以外殺めないのは何故なのか。
「まぁだって。わたくし、あの方を心よりお慕いしていますのよ。言いつけに背くだなんてとんでもないわ」
そう言って奥方は、亡き先妻の墓を丁寧に掃除して、花を供え、祈りを捧げると、その足で庭に向かい、縛られて首を仰け反らせている罪人の喉をナイフで奏でたそうです。
今は昔、まだ人の命に優劣があった頃。愛が数多の血を咲かせ、憎しみがその下に根を張った頃。
美しき領主とその妻の、沈みゆくような恋の物語。