「豊前、頼みがある」
「どーした?」
それはとある日の夜の事。松井江が神妙な顔で豊前の部屋を訪れた。改まって切り出すような頼みとは一体何だろうか。豊前江は少しだけ緊張して座り直した。
「……これを」
豊前と対峙するように腰を下ろした松井がすっと差し出したのは小さな雑貨二点。豊前はそれを手に取ると、しげしげと検分した。雑貨はどちらも同じもので、箱にはピアッサーと書かれている。……ピアッサーは知っている。耳飾りを着けるための穴を開けるための道具だ。
しかし、何故これを松井が?豊前は松井に続きを促した
「僕がやると失敗しそうだから、代わりにやってもらいたいんだ」
「……確認なんだが、開けるのは誰だ?」
「? 僕だけど」
松井は案外好奇心旺盛だ。少し前にピアスの存在を知った以上、いつか興味を持つんじゃないかとは思っていた。松井が現世の雑誌に載っている装飾品を見ながら「これいいな」と呟くのを何度聞いた事か。嗚呼、ついにその日が来てしまった。
「どうしてもこれを着けてみたくて」
思わず衝動買いしてしまったよと肩を竦める松井の手には、最初にこれが欲しいと言っていたピアス一組が乗っていた。金の土台に赤い石のついたそれは、いつか雑誌に載っていた写真で見た記憶がある。だが、記憶よりも幾分か大ぶりだった。
「この耳飾りは耳に穴を開ければ着けられるんだろう?」
「それはそーなんだが……」
それはそうだと言うのなら他に何の問題があるのかと、松井が歯切れの悪い豊前に無言で問う。それはそう。それはそうなのだが——心の準備がいるから明日の晩にしてもらいたい。豊前はそう口走っていた。
耳に穴を開けるのは僕なのにどうして君が心の準備をする必要があるんだ。この道具で一息にぱちんとやってくれればいいだけなのにと、松井は訝しんだ。
……松井の言い分もわかる。しかし豊前にしてみれば、松井の体を傷物にするのだ。心の準備がいるに決まっている。大袈裟だとか言葉の使い方が違うとか言い返されそうだが、豊前にとっては一大事だ。これを着けたいと言って見せてくれたピアスは、松井が身に着けるのに大層相応しい物だと思う。だが、そういう問題ではない。
まだ早いからだめだと言われてしまったが、諦めきれなくて買ってしまった。しかしピアスを装着するためには穴がいる。穴を開けるための道具も万屋で買おう。両耳に着けるのだから二個。道具は買ったけれども、自分でやるのは少し怖い。それなら豊前に頼もう。松井の行動は大方そんな所だろう。すべて豊前の想像でしかないが、概ね合っていると思う。
「ちゃんと準備してからやりてーの。だから明日まで待ってくれ」
「……わかった。明日の夜にまた来る」
「悪ぃな」
松井は納得していない様子だが、一応受け入れてくれた。ご機嫌取りというわけではないが、埋め合わせをせねば。豊前はピアッサーを一旦預かると、松井の体を引き寄せた。くるりと体の向きを変えて後ろから両腕ですっぽりと包むと、身を捩った松井が口づけをねだってくるのでそれに応えてやる。始めは子猫の戯れのようなものだが、繰り返していくうちにどんどん深くて濃いものになっていく。そうやってしばし口吸いに耽っていた二振りだが、ふと何か思った松井が体を離した。
「……もうあれは着けていないのか?」
「あれ? ……あぁ、あれか。んー、松井が着けてくれるっつーなら出してくるけど」
豊前が戯けて舌を出すと、松井に馬鹿じゃないのと返されぺちんと額をはたかれてしまった。
翌日夜。部屋で松井を待っていた豊前は、どうして君がそんなにも気合いを入れる必要があるのかと松井が問いたくなるぐらいの気迫だった。ちょっと耳に穴を開けるだけなのに。そのうち手入れで直されてしまうまでの、束の間の装いじゃないか。松井にとっては束の間の事かもしれないが、豊前にとっては松井が関わる以上一大事なので仕方ない。
そこに座れと松井を座らせると豊前は明かりを引き寄せ、冷却剤で松井の左右の耳朶を挟んだ。こちらも手が冷たいが、そこは我慢する。十分に冷やして感覚が無くなれば準備完了で、豊前は冷却剤を盆の上に戻した。冷えて感覚の無くなった松井の耳朶を医務室で貰ってきた消毒用アルコールを含んだ脱脂綿で軽く拭くと、豊前は昨日預かったピアッサーを構えた。
「両方一気にやるぞ。手元が狂うと危ねーから動くなよ……」
「わかってる……」
横髪を耳に掛けた松井は衝撃に備えてぎゅっと目を閉じている。そんな松井をちらと一瞥すると、豊前はピアッサーの針の先をよく冷えた耳朶に当てた。そして狙いを定め——
ぱちん
松井の耳に走った衝撃は一瞬だけだった。手応えで針が貫通した事を確認すると、豊前は昼間に万屋街まで足を伸ばして買っておいた飾り気のないシンプルなピアスを、たった今開いたばかりの穴に手早く入れた。松井の着けたがっていたピアスは穴が綺麗に形成されるまでお預けだ。そのまま反対側にもぱちんと穴を開けると、同じようにファーストピアスを差し込んだ。
「終わり、っと。ほれ、鏡」
「ありがとう。……あれ?」
受け取った手鏡を覗いた松井は、自身が選んだ物とは異なるピアスがそこに填められいる事に気がついた。僕が渡した物は一体どこへ?これはどういう事なんだいと、松井は豊前に疑義の眼差しを向けた。
「しばらくはこれ。寝る前に消毒するのも忘れんな」
処置を怠ったばかりにうっかり膿んだりかぶれたりしたらどうする。痛い思いをするのは松井だ。処置が面倒くさいと言うのなら自分がしてやってもいい。豊前は松井にそう告げた。
「それくらい自分でできるから大丈夫。ぱちんとやれば終わりだと思っていたけれど、案外手間が掛かるんだね。ところでこれ、いくらだった?」
「気にすんな」
真新しいファーストピアスの代金を支払うという松井の申し出を豊前は断った。これは自分が勝手にやった事なのだから。
「そのうち俺が選んだやつを着けてくれれば、それでいーよ」
そう言うと、豊前は何の気無しに松井の耳朶に触れた。真新しい合金のファーストピアスの填められたそこはまだひんやりと冷たい。松井自身が選んだ小粒の赤い石がついた物も良いけれど、髪の先と一緒にゆらゆらと揺れる物も良さそうだ。いつか松井に似合いそうな物を万屋街で探そう。松井と一緒に探しに行くのも悪くない。
豊前がまだ見ぬ松井の耳飾りに思いを馳せていると、さっきまで冷たかったはずの耳朶がじんわりと熱を持ち始めた。ほんの小さな穴でも傷口には違いないのだから、あまり触り過ぎるのもいけない。手を引っ込めようとしたその時、指先がピアスに引っ掛かった。
「……、っ!」
松井の口から漏れる、声にならない声。気まずい沈黙が二振りの間に漂った。
——俺が悪かった。でもこれは事故だ。わざとじゃない。そこまで神経が過敏になっているとは思わなかったんだ。自分でもそんな声が漏れると思っていなかったのか、気まずいを通り越していたたまれないと言わんばかりの松井に何か言わねばと豊前は必死に言葉を探した。でも、何もフォローの言葉が思い浮かばない。
「あの、その、手入れは自分でやるから……」
「お、おう……」
白皙を朱に染めて耳元を押さえた松井に、豊前はそれだけしか返せなかった。