(未完)「あの子に会える魔法の小瓶」No.022.
――結局いつもこうなる。
風呂から上がり、水を飲もうとリビングに向かいながら理解は思った。
些細なことで大瀬は謝る。俯き苦しそうに。それを見て、理解も苦しくなる。
苦しめたのは私なのだろうか。いや、私は悪くない。
恋人について知りたいと思うことが、悪であるはずがない。
理解の思考は堂々巡りしていた。
自分は悪くない――なら、大瀬が謝るべきなのだろうか。それもまた違うように思われた。
「あ、理解君」
リビングには騒がしい先客がいた。
理解に気づいたのは依央利だった。
その声に、右手にワイングラスを持ったテラがこちらを向く。
こいつらは、また飲んでいるのか――と理解は呆れる。
「理解君も座って!白湯でいいんだよね」
依央利が立ち上がった。
彼らの前のテーブルにはワインの瓶、ビールの缶、つまみが広げられている。
「まったく――」
パジャマ姿でも装備している、理解の笛が鳴り響いた。
「お酒なんて百害あって一利なしでしょう!飲酒は様々な内臓疾患や認知症の原因にもなると――」
「わかったわかった」
テラが煙たそうに手をふる。
「片付けなさい。寝なさい」
「ちょっと、テラ君に八つ当たりするのやめてくれる?」
「――なぜ私が八つ当たりなんかしなくちゃいけないんですか」
さあね、と言ってテラはワインを口に運んだ。
テラは本当にわかっているのだろうか、と理解は思う。動きは鈍くなっており、いつもより滑舌も悪くなっていると自覚しているのだろうか。
なぜ多くの人は命を危険にさらしながら、恥をかくリスクを冒しながら酒を飲むのか。理解にはよくわからなかったし、わかろうとするつもりもなかった。一時の高揚感を得られたとしても、失うものと天秤に乗せて釣り合うものではないだろう。
「理解君、僕のいた席に座ってて!その辺にあるもの飲んでいいから!」
キッチンに移動した依央利が声を張る。
ふと理解は、テラと依央利に挟まれて席がひとつ空いていることに気が付く。以前理解が二人に捕まったときに座らされたポジションである。
空席の前には、ビールが一缶。先客だろうか?
「理解君」
テラが呼びかける。
「私は飲みません。飲酒なんて愚かな行為です。それに今日は――とてもじゃないがそんな気分ではないんです」
「今日だからこそだよ」
そのとき。
「理解さーん!」
突如理解の耳に届く、己の名を呼ぶ高く澄んだ声。
次の瞬間、背中に何かがぶつかる衝撃。むせかけたが痛みはない。
”それ”は後ろから腕を回し理解を抱きしめた。
「だ、誰だ!」
この家の住人なのだろうか。この家の中にいるのだから。いや客かもしれない。この時間に?
理解は混乱の極致にいたが――声には聞き覚えがある気がした。
硬直したまま目線だけ動かしてテラと依央利を見れば、
「トイレ行く前からあんな感じだった?」
「いいえ――」
などとヒソヒソ話し合っている。
「理解さんってば!」
そしていきなり理解の視界を埋め尽くしたのは、緩く波打つ空色の髪。
「え――?」
その隙間からカナリアイエローの瞳が覗く。その人は――
「お、大瀬、君――?」
これは――幻覚か?
大瀬は笑った。
彼の笑顔を見て、色彩豊かな南国の花を思ったのは初めてだった。
白い頬は生気に乏しく、しっかり食べているのだろうかと理解はよく不安になっていた。それが今は赤く染まっている。一点の曇りもない、雪のごとく白い肌と、健康的な木苺色のコントラストに目が痛くなるようだった。
頬と同じ色の目尻に、縁取られた瞳が潤んでいる。理解を真っ直ぐに見上げる、小鳥の羽と同じ色。普段地面ばかり睨んでいたそれはいま光を受けて、見たことのない鮮やかな色彩を見せていた。
その全てが、溢れんばかりの喜びを表している。
理解がここにいることへの喜びを。
驚き――あるいは見惚れて、理解はしばし動けなくなる。
「そうです、大瀬ですよ」
理解の問に、ありのままの事実を返す幼い声。そこには、苦いアルコールの香りが含まれていた。
「君――酔っているのか」
事情がわかって、理解は現実に引き戻されていく。
私はずっと、君のことで悩んでいたというのにという苛立ち。
「飲ませたんですか?」
これはテラと依央利への問だった。
大瀬が自分の意志でこの二人の宴会に加わり、酒を飲むとは思えない。
「そんなに怒る?」
と言ったのはテラ。
理解はずっと悩んでいた。
拒絶された怒りと悲しみ。だが一方で、大瀬はどんなに落ち込んでいるのだろうかと思っていた。それが。
「ああ――大瀬さん、理解君の部屋の前にいたんです」
依央利が慌てて言った。
「ノックしようか迷ってたから、理解君はお風呂ですよって言ったんです。そしたら死にそうな顔になって――というかこのまま部屋に帰したら本当に死ぬかも、って思って、連れてきて――」
「逆に感謝してほしいくらいなんだけど。というか狭い家の中で喧嘩しないでくれる?テラ君ストレス感じてるんだよね」
「テラさん!」
たしなめたのは依央利。理解は睨んでいた。
しかしテラは全くブレなかった。
「でもさあ、お酒入ると本性出るって言うでしょ。理解君も聞いたことはあるよね」
「本性?」
「お酒入ってた方が、お互い話せることもあるんだし、ちょうどいいんじゃない?」
理解が下を向けば、大瀬の顔が、互いの頬や鼻がかすめるほどすぐそこにあった。
――近い。
理解はとっさに、両腕で大瀬の体を引き離した。
「私も確かに、大瀬君と話したかった」
「じゃあ」
「でもこれは大瀬君ではない」
は?というテラの声には苛立ちがあった。
「理性の箍が外れた人間が、奔放な振る舞いを見せるのは当然でしょう。それは、単なるアルコールへの生理的な反応です。でも私は、その箍こそが人格を作り上げると、理性も含めてその人間なのだと思います。理性が損なわれているなら――それはただの獣」
「――本人の前でよく言うよね」
「獣の状態を本性と言われることに、私だったら耐えられない――これは大瀬君ではない」
理解が大瀬を見れば、目を丸くして、不思議そうに理解を見つめていた。
言葉の意味もわかっているのやら。
「大瀬君、さっさと寝なさい」
理解は大瀬の手を引いてリビングから出ていこうとした。
健康を害する、悪徳を助長するアルコールから、大瀬を遠ざけねばと思った。
さっさと元に戻ってもらわなければならない。理解はいつもの、あの俯きがちな大瀬と対話しなければならない。
後ろから、
「テラさん、いおくん、おやすみなさい」
という普段より幼い声と、おやすみ、おやすみなさい、という二人の返事が聞こえた。
===
理解は、寝袋に入り上半身だけを起こした大瀬と対峙していた。
「ほら、もう寝なさい」
理解が肩を押すと、大瀬はきゃあと笑って床に手をつく。その拍子に、緩くウェーブした前髪がふわりと目にかかった。
大瀬は高く澄んだ声で楽しそうに笑っている。笑うと肩が揺れた。
まるで小さな子供の相手をしているようだった。
理解がため息をつくと、大瀬の笑い声が止んだ。
なんだろう、と思って見れば、大瀬の目は好奇心にまん丸に見開かれ、視線は理解の胸のあたりに注がれていた。
大瀬の興味の対象は、どうやら理解の首から下がる銀色の笛らしい。
目の色やその気まぐれさに、猫に似ている、と理解は思った。
そのまま大瀬は手を伸ばす。
理解は慌てて、笛を隠すように手で覆った。
「見せて」
なんの躊躇いもなく言う大瀬。
「人のものに勝手に触ってはいけません」
それは私のことじゃないか、という心の声を振り払う。
少し不満げに「はーい」と言った大瀬が、そのままふああ、とあくびをして長めの袖で口を覆った。
「もう眠るんだ」
大瀬は素直に寝袋にくるまった。
毎日寝袋で寝て、体が痛くなったりしないのだろうか、と理解が思っていると、
「あっ」
と言って大瀬が再び半身を起こそうとした。
「なんだ、どうしたんだ」
「トカゲのライト、消さなきゃ」
「ああ――じゃあ私が消そう」
また大瀬が覚醒して、先ほどのやり取りを繰り返すと思うと気が遠くなる。
理解は立ち上がり、トカゲのケージの前に立った。
スイッチを探しながら、
「このトカゲ、名前はなんというんだい?」
と、日中聞けなかった質問をしてみた。
「わかんない」
だが大瀬はきっぱりとそう言った。
「そうか」
起きた大瀬に聞いてみようか、と理解は思う。
「スイッチはどこにあるんだい?」
自力で探そうとしていた理解だったが、見つからず根負けして、寝袋の大瀬に聞く。
「コンセント抜いてくださーい」
「――わかった」
なんだか納得いかぬまま、言われた通りコンセントを抜く。
ライトが消えケージの中が暗くなるが、名前の分からぬトカゲは特に反応を示さなかった。
「理解さん」
背を向けたままの理解に大瀬が呼びかける。
「なんだい?」
「そいつのこと、好きになってくれてありがとう」
「――え?」
理解は振り返った。
寝袋はデスクの陰に置かれているため大瀬の顔は見えない。
「それは、いつの」
「今日、理解さん、寝てるそいつを見てたでしょ」
「お――覚えているのか?」
理解は慌てて大瀬の傍らに戻る。
「理解さんとあいつにだけ、光が差してた。きらきらしてた」
大瀬は遠く、宝物を眺めるような瞳で語った。
「――幸せだった」
睡魔に絡め取られかけているのか、言葉はぽつぽつと途切れていた。
「でも、君は、最高に幸せだと思った瞬間に死にたくなるんだろう?」
朱色の目尻と長い睫毛に縁取られた瞳が理解を見た。
「だって、理解さんが死んじゃ駄目って言ったから」
「それも――」
――覚えていたのか。
そう伝えたときには結局彼の行動を止めることはできなかったが、自分が発した言葉は、ずっと、大瀬の中に残っていたのだろうか。
そう聞こうと思っていた矢先、前触れもなく、大瀬の表情が沈んでいった。
どうして、と理解が思っていると、大瀬は寝袋で顔を覆い、
「理解さん、あのとき、僕のこと嫌いになった?」
と、小さな声で言った。
作品を見せられなかったことを言っているのだろうか。
「ごめんなさい」
その言葉の弱々しさに、理解の胸は痛んだ。
嫌いになったか――その答えなど決まっている。
理解の中にはただ、大瀬に受け入れられなかった寂しさがあった。もう怒りはない。
強いて言うなら、何が彼をそうさせるのか、その答えが欲しかった。だが答えを得ることが難しい事もまたわかっていた。
本当は、早く、ぎこちなくも温かい、元の関係に戻りたかった。それが何よりの願いだった。
寝袋の開口部から、空色の頭が覗いている。撫でてやりたかった。
だが、理解はためらっていた。この大瀬を受け入れられなかった――いや、受け入れてはいけないと思っていた。
もしもいま、姿以外は何もかも変わったこの大瀬を受け入れてしまったら、愛おしく思ってしまったら――それは理解の知る大瀬という人への、一人思い悩んでいたという、理解の知る大瀬への、酷い背信になるのではないか。そう思っていた。
だが。
「君は、本当に大瀬君なのか」
理解は問うてしまった。
何気ない一瞬を、昔伝えた言葉をずっと覚えてくれていたこの人が。貴方といたあの瞬間自分は幸福だったと伝えてくれた人が――大瀬であってほしい、そう思ってしまった。それなら理解は救われる。
理解はそっと、大瀬の髪を撫でた。愛しい柔らかな感触。
大瀬の、まだ誰にも見せたことのない一面に、アルコールが初めて光を当てたのだ。
大瀬の複雑な魂の一部が、外から触れられる形で浮かび上がったのが――「この子」なのではないか。きっとそうだと理解は信じた。
すると、大瀬がおずおずとその瞳を覗かせた。理解は笑い返す。
大瀬は、小さな花が咲くようにぱっと微笑み、そして理解の手を取った。
理解の手が、それより少し小さい大瀬の両手に包まれている。
「理解さん、おやすみ」
幸せそうに大瀬が瞳を閉じた。
理解も「うん、おやすみ」と答える。
やがて、大瀬のたたえていた微笑みが、ゆるゆると解けていく。
あとには、ただひたすら無垢な寝顔だけが残った。
理解は、魔法が解けた瞬間を見たように思った。
大瀬の手からもすっかり力が抜けていたが、理解はしばらくそのままでいた。
いつもよりほんのり赤い気がするその手は、見た目の通り温かかった。
つづく