(未完)「あの子に会える魔法の小瓶」No.033.
目覚ましが鳴る少し前に、理解は目覚めた。
大瀬のところへ行かなければ、最初に考えたのはそれだった。
もし昨日の記憶があるなら、激しい自己嫌悪に襲われているかもしれない――死のうとするかもしれない。
眼鏡をかけてベッドを降りる。
顔を洗うだけの猶予はあるだろうか、と思いながらドアを開けると、ガンッという音とともに何かにぶつかる感触があった。ドアの向こうに人の気配があった。それが一歩遠ざかる。それとともにドアの可動域が広がる。
その隙間から、理解が恐る恐る顔を出すと。
「昨日は、本当に、本当に――」
言葉がまとまらず、深々と頭を垂れるのは大瀬だった。
「大瀬君、いま扉がぶつかっただろう。大丈夫か――」
「問答無用で死刑だってことは自分でも重々承知しているのですが、せめて理解さんのお望みの死に方を選ぶことでその怒りを1グラムでも軽くしようかと思いまして――あ、でも朝からこんなクソの顔面をお見せしてしまうなんて、火に油を注ぐ許されない行為ですよね。もっと早く気づけばよかった、いややっぱりさっさと死んでおくべきだった――」
「大瀬君、ちょっと落ち着こう。ここは廊下だし」
理解がそう言うと、大瀬はハッとあたりを見回した。
「部屋で待っていてくれるかな――私の部屋で死んでは駄目だよ?」
理解は大瀬から視線を離さず部屋を出て、ドアを開けたままに洗面所に向かった。
焦りつつも理解の中には安堵があった。懐かしさすら感じていた。よかった、いつもの大瀬君だ、と。
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理解が部屋に戻り、あれ大瀬君がいないと部屋を見回せば、大瀬は部屋の隅で正座で待機していた。
まるでこの部屋に自分の居場所なんかありません、と言わんばかりに。絨毯の敷かれていない硬い床に座っているあたり徹底している。
顔面は蒼白だった。
「そんなところじゃ足が痛いでしょう」
そう思って手近な場所を勧めようとしたが、理解の部屋には人を招く設備がなかった。
「昨日――」
と大瀬はそのまま話し始めた。
「ちゃんと謝らなければいけなかったのに、自分、お酒を飲んでしまって――テラさんといお君に勧められて、断れなくって。いや、人のせいにするなんて最低ですね――」
「いや、あの二人を振り切れないのはわかるよ」
理解の心は昨夜の時点で整理されていた。酔ってはいたが、大瀬はすでに謝罪してくれてもいる。
潔くあろう――と、大瀬の正面に座り、
「私の方こそ、済まなかった」
理解は深く頭を下げた。
「君のものに勝手に触ろうとしたのは私だし――いや、そもそも君が作品を見せたがっていなかったことに気づいていながら、見て見ぬふりをしていたんだ。あんな事になったのはそのせいだ。本当に済まなかった」
理解が顔をあげると、大瀬は目を丸くして固まっていた。え、あ、と意味のない声を漏らしている。
「お、怒って――らっしゃらないんですか?」
「ああ」
「許してくださるんですか?」
「もちろん」
理解の心は昨夜の時点で整理されていた。
大瀬の心の準備ができていないのなら、無理強いはしない。
「よかった――」
と絞り出すように言って、大瀬は体の力が抜けたように、床に手をついた。
「ううう、ごめんなさい」
「泣かないでくれ」
大瀬は本当に大粒の涙をこぼしていた。
自分からの愛を、こんなにも頼みにしている生き物がいる。
理解はそう思うと、愛しさで胸が一杯になった。
理解本人が困るほど、怒らせたのでは、不快にさせたのでは、と大瀬が過剰に不安がるのは、好意の裏返しなのかもしれない。
大瀬の髪を、両手でわしゃわしゃと撫でる。
笑顔にしたい。幸せにしたい。
こんな子が、昨夜一人悩んでいたのかと思うと、胸が潰れそうになる。せめて寝る前の十数分間、大瀬が酔って、楽しい気分でいられたのなら、あれはあれでよかったのかもしれない、とすら思う。
大瀬は蹲って泣いている。
「大瀬君、泣きすぎだ」
「ううう、死にたい」
「え?」
大瀬の心の変化は本当に読めない。
「理解さんの海より広いお心に甘えて、理解さんを先に謝らせてしまうなんて!」
「何を言っているんだい?昨日の夜、先に謝ってくれたのは君の方じゃないか」
「――え?」
大瀬ががばりと起き上がる。
大きな目を見開いたまま理解を見上げ、しばし二人の時間は静止した。
そして大瀬は絞り出すように、
「僕――理解さんにお会いしていたんですか――?」
と言った。
「お、覚えていないのか――」
「テラさんといお君に会ったことは、ぼんやり覚えてるんです。でも、理解さんにお会いした気は、どうしてもしなくって――」
大瀬は頭を抱えた。震えている。
「じ、自分、何か失礼なこと、していませんでしたか?」
縋るような潤んだ瞳がすぐそこにあった。
理解の脳裏に、今とは180度違う、昨日の大瀬の姿が蘇る。だが理解は、
「だ、大丈夫だよ大瀬君。君は、失礼なことは何もしていない」
そう言った。嘘はついていない、と理解は思う。理解は昨日の大瀬の言動を失礼とは捉えていない。
「介抱中に、君は日中のことを謝罪していたんだ」
「かかか、介抱まで――」
「そんなに落ち込まないで」
理解は大瀬の手を取った。
「私はあの時間に心の整理ができたんだ。だから結果的によかったよ」
「でも」
「この話はおしまい。ね?」
理解は大瀬の頬を拭ってやった。
これ以上大瀬を落ち込ませたくないと思ったのは確か。だが。
理解は嘘を嫌っている。愚かな行為だ。そんなことはすべきではない。そう思い生きてきた結果、理解は嘘をつくことが非常に苦手な人間になっていたのだった。
「自分、あんまりお酒飲んだことがないんです。こんな風になるなんて、思ってなくて」
「人と飲んだこともないのか」
「はい――」
昨夜の大瀬が他人の前に現れたことはないと知り、理解は安堵した。
この家のリビングでも度々酒盛りが行われ、その度に理解は呆れたり解散を促したり巻き込まれたりしていたが、その輪の中に大瀬がいたことはなかった。
「もう――お酒なんか、飲みません」
大瀬はぽつりと呟いた。
「そこにいるだけで人様に不愉快な思いをさせている自分が、その上酔って人様に迷惑をかけてしまうなんて許されません」
大瀬の決意は固い。
確かに、酒を飲まなければ、健康を害することもなく、浪費もせずに済み、周囲の信用を失うこともない。それは理解も思ったことだった。
「これ以上、醜い姿を晒すわけにはいきません」
だが、大瀬が二度と酒を飲まないとしたら――あの子は。
「理解さんもそう思いますよね」
不意に大瀬が理解を見上げた。
君は正しい、大丈夫だと言ってほしい、そんな期待のこもったカナリアイエローの眼差し。
丸く見開かれたそれを見た瞬間、理解の脳裏に過ったのは昨晩の大瀬の姿だった。
子供のように純真で無垢で、彼も自分からの許しを求めていた。そしてあなたの言葉を覚えていると、あなたといて幸福だったと伝えてくれた。
「お酒なんて、飲まないほうがいいですよね」
「――そうだろうか」
え、と大瀬は声を漏らす。
思考の外から出た己の言葉に、理解自身も驚いていた。
「私には分からないが、酒を飲むと、人は楽しい気分になるのだろう」
理解は、大瀬の手を離した。
「適量の留めて置けるなら、むしろストレス軽減によるプラスの効果の方が大きいかもしれない。適量には個人差があるというところに難しさはあるが」
よどみなく発せられる言葉は信条とかけ離れていく。背中を汗が伝う。
さっきは大瀬の心を守るための嘘だと言い聞かせ、己を慰めることができた。だが、ならば、今のこれは何なのだろう。発言は事実には反していない。だが。
「君も、君自身の適量を知るといい」
自分はどんな顔をしているだろうと思いながら、理解が大瀬を見れば、
「そうか――そう、ですよね」
大瀬は、理解の手から離れ膝の上に置かれた、自分の拳を目を向けていた。理解の表情は見ていないようだった。
「一人でいるときに飲めば、人様に迷惑をかけることもないですし」
「――ああ」
「一人だったら間違っているところでした。理解さん――ありがとうございました」
深い尊敬、絶対的な信頼。大瀬が眼差しに込めたものは、いまの理解にはあまりにも眩しかった。
理解は初めて、大瀬の瞳から目をそらした。
つづく