6月発行予定りかおせ小説「竜の住む館」冒頭まだ日が沈むなのに、その森の中はひどく暗かったことを、理解はよく覚えていました。
生い茂る糸杉の木はどれも空を刺すように高く伸びて、地面に降り注ぐはずの陽の光をほとんど奪っています。
そこは暗くて寒くて、不気味な森でした。
理解はなぜ、そんなところを一人歩いていたのでしょう。理解はそのときその森で、村の子供を探していたのです。
理解は、森の東の村で警吏さんをしていました。警吏さん――いま皆さんが知っているお仕事では、お巡りさんが一番近いでしょう。
お巡りさんがそうであるように、警吏さんのお仕事は悪い人を捕まえることだけではありません。しかも東の村の警吏さんは理解一人だけだったので、理解は色々なことをしていました。村人同士のケンカや言い争いを解決すること、なくなった物やいなくなった人を探すこと、危ない場所に誰も入れないように鎖をかけたりすることも、理解の大事なお仕事でした。理解はさらに、村人たちが健康的な生活ができるよう朝起きる時間や体によい食べ物は何かを教えたり、子供たちに読書や勉強の大切さを説いたりと彼が思う正しさを村の中に広めようともしていました。理解自身は、毎日自分は素晴らしい仕事をしているという充実感に溢れていましたが――村の人たちに受け入れられるのは、もう少し時間がかかりそうでした。
そして村のある子供は、仲間と遊んでいる間にいなくなって、どうやら理解のかけた鎖を越えて、この森に入っていってしまったようなのです。
木々の隙間、細く光が差す場所をなぞるように、理解は歩いていました。
理解は子供の影がないかと辺りに目をやります。でも右を見ても左を見ても、生い茂る糸杉の葉が作る濃い影が落ちているばかりです。
「大丈夫か!迎えに来たぞ!」と影の向こうに理解は呼びかけます。
そんな声も木と木の間に吸い込まれて溶けてしまう、そんな気がしました。
あいつを探してよ――と、慌てた子供たちがわあわあと理解の家に駆けこんできたのは、お昼を少し過ぎた頃でしょうか。
そのときの理解は、迷うことなく不気味な森の中へ駆けてゆきました――たとえ、その森に竜が棲んでいたとしても。
糸杉の森のどこかに、竜の棲む館がある――村の人々がそう噂しているのを理解は聞いたことがありました。
決まって夜に、獲物を探しに森からやってきて、狩りを終えると森に帰ってゆく竜を、人々はとても恐れていました。
竜の獲物とは人間のことです。
戦おうとした勇敢な人たちも昔はいましたが、竜の背中は真っ黒な固い鱗に覆われていて、どんな剣も矢も通らず、運よく鱗がない場所に傷をつけることができても、それもたちまち治っていく様を、多くの人が絶望とともに見ていたと言い伝えられています。
人間は竜には勝てない――ずっと昔の人々は、それを受け入れるしかありませんでした。そ
れから何十年も、村の誰もが、日が沈むと明かりを消して窓を固く閉ざしました。そして暗闇の中で「竜が現れませんように」と切実な祈りを捧げますが――その祈りは度々打ち破られました。北、南、そして東――どこかの村で哀れな犠牲者が出ているのです。
西に村はないのか、と思った人もいるでしょうか――西の村は、もうありません。十年前、竜が村人たちを殺してしまったのです。ただ一人を除いて。
理解は東の村に来たばかり。竜に出会ったことはありません。
けれどある夜、真っ黒な糸杉の森の上、満月を背にして、大きな翼を翻す竜のまがまがしい姿を窓越しに見て、背筋が粟立ったことをよく覚えています。
それでも理解は森へやってきました。それよりも、この村にやってきて初めて村の人間から頼られた、そんな喜びと使命感に燃えていたのです。
でもこの森に地図などありません。誰もが竜を恐れて森に入りたがらないのだから当然です。誰も森の中がどうなっているのかわかりません。理解もそうでした。
理解は勢い込んで森に踏み込み――そして今、道に迷ってしまったのです。
「誰かいないか!」
子供がこんな森で一人迷子になっていたら、きっと怖がっているに違いない――理解は思います。きっとそれは、理解自身が不安だったからでしょう。
辺りを見回し――糸杉の幹の上に竜の爪痕を見つけて背筋を凍らせたそのとき、理解は突然自分の体がぐらりと揺れるのを感じました。
理解は足元をよく見ていなかったのです。地面が傾いていたことに気づかず、理解は足を取られてしまいました。そして何が何だかわからないまま、糸杉の葉だらけの斜面を転がり落ちてゆきます。
やっと止まった――そう思いながら、理解はおそるおそる目を開きました。
目の前には、青空が広がっていました。
久しぶりに強い光を浴びて理解は思わず目を覆います。そしてすぐ、森にいたはずなのに、どうして――と思いながら、うつ伏せだった体を起こしました。理解が転がり落ちてきた斜面を見上げると、理解がいる場所の少し上でモミの木は尽きていて、灰色の地面が覗いていました。まるで、糸杉の木々が、その窪みから逃れようとしているように理解にはみえました。
糸杉の森が持ち上がったのか、理解の落ちたこの場所が沈んだのかはわかりません。不思議な地形です。深いお皿の中に落ちたら、こんなふうに見えるかもしれません。
そして、森の中に、こんな穴が空いていたなんて――そう思いながら振り返り、理解は思わず息を呑みました。
そこには、青い湖がありました。
深いお皿のような窪みの真ん中に、真っ青な湖があるのです。底が透けそうなほど澄んでいて、きっと触ったらとても冷たいのだろうと思わせます。
陽はさんさんと差し込んでいるのに、そこは森の中よりもいっそう寒く、今は秋のはじめですが雪が降り出してもおかしくないと思えるほどでした。
水面の近くに立ち込める薄い霧が弱い風に吹かれて流れてゆきます。
そしてその、ゆらめく霧の向こうに。
「城――?」
理解は思わず呟きます。
湖の対岸に、立派な建物が見えたのです。双子のような、二本の鋭い塔が、周りの杉の木より一層黒く、天を刺しています。
こんな森の奥深くに、人が住んでいるのでしょうか――理解はその館へさらに目を凝らします。すると、塔と塔の間にある渡り廊下の、その上に。
――何だ?
眼鏡はさっき滑り落ちたときに欠けてしまいました。ひび割れに邪魔されながら目の焦点を合わせます。そして――理解は一目散に駆け出しました。
近くで見れば、そこは高貴な人のお屋敷のようにも見えました。
建物の周りにはぐるりと高く、鉄の囲いが巡らされていました。
その先は鋭く黒々と尖っていて、まるで理解を拒んでいるようです。
理解は肩で息をしながら、槍のような先端の、更に上を――高い塔と塔を繋ぐ渡り廊下を見上げています。
その、アーチ上の屋根の上に――少年が立っていたのです。
俯いて、足元のさらに下、遥か遠くの地面を見つめているようです。恐ろしくはないのでしょうか。淡い青色の前髪に隠れているので、瞳から気持ちを読み取ることはできません。
その子の向こうには空が見えます。少年と同じ色です。
「おい――君!危ないだろう!」
我に返り、理解は柵の間から目一杯叫びました。
彼は誰なのか、なぜあそこに立っているのか、そんなことは気になりません。あんな危ない場所に人が立ってはいけない、早く助けなければ、理解はただそれだけの気持ちでいっぱいでした。
少年はようやく理解に気づき、ふっと理解の方に顔を向けました。
背景の空と彼の髪は同じ色でした。晴れ渡った空に比べてその少年はあまりに儚くて、理解には、その子が今にも空へ溶けていきそうに思えました。
ただ、理解に気づくとすぐ、長めの髪の隙間から覗く月色の瞳は、驚きに見開かれたようでした。
「早く、そこから降りなさい――」
囲いのどこかに入り口がないか、理解は探そうとしました。でも一歩踏み出した瞬間左の足首に鋭い痛みが走り、理解はその場にうずくまります。
もしかしらここに滑り落ちてきたとき、軽くひねっていたのかもしれません。慌てて走ったせいで、もっと悪くなってしまったのでしょう。
理解が再び見上げれば、少年はさっきよりうろたえていて、渡り廊下の上で、どう降りたら良いものかと、おろおろと数歩踏み出します。
「慌てないで、気をつけて!」
理解は叫びます。するとまた足首がズキンと痛みました。
ーー
広々とした部屋の真ん中に、縦に長いテーブルが置かれています。
どうやらこのお城に住む人たちが食事をする部屋のようです。でもテーブルの周りに椅子は一脚しかありませんでした。
その一脚もいまは窓辺に置かれ、理解はそこに座らされています。
「あの――」
冷たすぎませんか、と呼びかける声に、理解は足許に顔を向けます。
そこにいたのは先ほどの少年です。
彼が、理解の赤く腫れた足首に水で冷やしたタオルを当ててくれているのです。もう片方の手はそっとかかとを支えてくれています。
「大丈夫、です――いきなり押しかけて、手当までしてもらって、ごめんなさい」
理解が言うと、
「こんな奴に手当されて、ご不快ですよね――ごめんなさい」と、少年は俯きました。
彼の名前は大瀬というそうです。
肩を貸してここまで連れてきてくれたとき、そう教えてくれました。
ひざまずいている大瀬の空色の髪は、近くで見ると、毛先が淡い紫だということがわかります。理解が今までに見たことのない色合いです。
「少し楽になりました、ありがとう」
道に迷い、怪我までしていた理解は、お城の中に招き入れてもらえてホッとしていました。でも、理解の「ありがとう」の言葉に、いっそう深く俯いてしまった、自分のことが嫌いで無口な大瀬とどう接したらいいか分からず、理解は困ってしまいました。
日が差し込んできて、窓辺は暖かです。
外から見ればいかめしく見えたお城でしたが、この部屋は、壁にずっと並んだ大きな窓から光がさんさんと差し込み、とても明るいので理解は意外に思いました。窓の外を見ていると、
「あ、あの――」
という大瀬の小さな声が聞こえました。
「なんだい?」
「なぜ、あなたは――理解さんは、こんな場所にいらしたのですか?」
おそるおそるというように大瀬は尋ねてから、自分なんかにお話したくないですよね、ごめんなさい――と大瀬は一人で慌てています。
「村の子供がこの森に迷い込んでね。探しに来たんです」
えっ――と大瀬は驚いて顔を上げました。理解はそれに少し面食らってしまいました。
「誰か、他の人のため、だったんですか?こんな、暗い森に一人で――」
「ええ、それが私の仕事ですから」
理解にとっては当然のことでした。でも大瀬は、月色の瞳をまん丸にして
「すごい」
と呟きました。その顔はなんだか子供のようです。
理解にとってはやっぱり当たり前のことだったけれど――そんなふうに言ってもらえれば、悪い気はしません。
「大瀬君、私からも聞きたいことがあるんだが――」
「なんでしょうか」
「ここはどなたのお家なのかな。しっかりと挨拶もせずに入り込んでしまったし、お詫びをしないとと思うんだ」
理解は辺りを見回しますが、二人以外誰もいません。
理解がこの館に入ったときも、玄関ホールはしんしんと冷えていて、中からはなんの音もしませんでした。自分たちの足音がやけに大きく響いていたのを理解は覚えています。外出しているだけかもしれない、とも思いますが――この館の人たちが食事をするはずのこの部屋も、少し埃っぽくて、そもそも椅子が一脚しかないのだって、おかしなことだと理解は思いました。
他に人がいるようには思えません。
「挨拶をしなきゃならない人は、いません」
大瀬は言います。
「なら、君一人でここに?本当に――」
「ここには」
一瞬、大瀬はためらい、そして、
「ここには――竜が住んでいます」
そう言いました。
少しの間、何の音も聞こえませんでした。
理解が何も言えなかったからです。大瀬は俯いています。
村の人々が恐れ噂する、竜の住処はここだったのです。理解はすぐには信じられません。けれど、大瀬は嘘をついているようにも見えません。竜は――と、大瀬は何か言おうとしているけれど、もごもごと話すので聞き取れませんでした。
竜――と理解はやっと呟き、そしてその言葉の意味をようやく掴みました。
「りゅ、竜?!あの人食いの――そんな、すぐに逃げよう――」
「待って、大丈夫――大丈夫です!竜は、夜にならないと目覚めないから。今は眠っています」
立ち上がりかけた理解を大瀬が慌ててなだめました。理解は仕方なく座ります。
大瀬は温くなってきたタオルを、手桶の水にさらします。
「それでも、早く帰ったほうがいいです」
再び足首に当てられたタオルはひんやりとしていました。
「あのさ、大瀬君」
「なんですか?」
「君は、どうしてここに?」
それは、と言ったきり大瀬は口ごもってしまいました。確かに、少し踏み込んだ質問だったかもしれません。でも「あっ」と、理解は何か気がついたように声を上げます。
「――もしかして君は、十年前の、西の村の」
十年前、西の村が竜に滅ぼされたとき――男の子が一人さらわれた、という噂が近隣の村に広がったのです。
「西の村」言ったその瞬間、大瀬が息を呑んだのがわかりました。伏せられた目が一杯に見開かれています。かかとに添えられた大瀬の手は凍りつき、痛みに耐えるようにを強張っていました。
「「すまない!辛いことを苦しいことを思い出させてしまって――いいんだ、言わなくても」
理解は大瀬の肩をそっと撫でました。
でもそれなら、竜が眠っている昼間のうちに逃げられないのでしょうか。理解は思います
でも、今度は聞くことはできませんでした。
今、大瀬を捕えているのは、竜そのものであり、恐ろしい思い出でもあるのかもしれません。だったら、 その場で動けなくなってしまうのも当然だと思えました。
この少年の不幸を思うと、理解の心は痛みます。なにかしてあげたいと思ったけれど、いいことは何も思いつきません。
「大瀬君、ありがとう。だいぶ楽になったよ」
理解がそう言うと、大瀬はほんの少しだけ笑いました。
――
西の空が燃えるように赤くなっています。
理解は、お城を囲む鉄柵の外にいました。
大瀬は「ここで少し待っていてほしい」と言って、どこかへ行ってしまったのです。
理解は早く帰らなければなりません。夜には恐ろしい竜が目覚めるのです。竜に怯えながらあの暗い森を行かなければならないと思うと、理解はぞっとしました。
でも、大瀬に手当てをしてもらったことで支えがなくても立てるまでにはなりましたが、森の中を長く歩けるまでにはなっていないのです。そもそも理解には帰り道がわかりません。
よく見れば夕焼けを追いかけるように、空には濃紺の幕がかかろうとしています。理解はじりじりとした思いでそれを見つめています。
大瀬は、力になれるかもしれない、とも言っていました。今のところ、理解の希望はそれだけです。
目の前には霧のかかった湖が見えます。
不思議な地形だ、と理解は改めて思います。この場所が窪んでいるから、外から見てもお城の存在が分からなかったのでしょう。
さっきは気づかなかったけれど、よく見れば斜面に沿って、上に登れる道が作られています。馬車くらいなら通れそうに見えます。
理解は、振り向いてお城を見上げました。
最初に見たときと変わらず、大きなお城です。
合わせ鏡のような二本の塔が、薄闇をまといつつある空に真っ直ぐに伸びていました。
竜は西の塔で暮らしている、と大瀬は言っていました。
大瀬が理解を招き入れてくれたのは東の塔です。竜と、人と、住まう塔はどうして同じ大きさなのだろうと理解は不思議に思いました。
そのとき、
「お待たせして、ごめんなさい」
と大瀬の声が聞こえ、理解は振り返りました。そして
「大瀬君、それは――」
と驚きの声を上げました。
大瀬は、一頭の馬を引いていました。
雪のように真っ白な体です。その背に載っている鞍はところどころ縫った跡があります。
「こいつは、森に捨てられていたんです。病気だったけど、多分、今はもう治っています」
大瀬は手綱を理解に差し出しました。
「馬の脚はよく道を覚えてるって、本で読んだことがあるし、こいつも、人がいる場所へ出る道を知ってるかもしれないと思って。どうか、乗って帰ってください」
手綱を受け取ろうとして、でも理解は手を止めました。
その馬を近くで見れば。老いていることが分かるけれど、その白い毛並みは夕陽を浴びて健康そうに輝いています。大切に世話をされてきた馬だと一目でわかりました。
「待ってくれ、でも――」
「自分は馬には乗れませんし、乗っていくところもありません――返しに来てくださらなくても、大丈夫ですから」
「――え?」
大きなお城でたった一人、恐ろしい竜に囚われて生きてきた大瀬にとって、この馬は大切な友達だったんじゃないか――と、理解は思いを巡らせたのです。
大瀬が「あの人をよろしくね」と言って、空いた方の手でそっと、馬の鼻筋を撫でました。大瀬が優しい瞳で馬を見つめます。馬も大瀬を見返しました。彼らにとって、これは永遠の別れなのです。
「――どうして」
理解は思わず言いました。
「え?」
「初めて会った私に、どうしてそこまでしてくれるんだ」
「えっ、だって――」
大瀬は、俯きながら少し考え、やがて、
「ここにはよく、病気の馬が捨てられています」
そう言いました。
「息があったのは、こいつが初めてでした――ここは、そういう森です」
そこで大瀬は、ふっと理解を見ました。
「そんな場所に、理解さんは一人で来たんです。それも、誰かほかの人のために。そんなこと、普通できますか」
本当にすごいと思ったんです――大瀬はしみじみと言いました。
「きっと理解さんがいなくなったら、村の人が困ると思ったから――それが理由です」
理解が村にやってきて、ひとつ季節が変わろうとしています。
理解は理解なりに、正しいと思うことに、村のためになると思うことに、日々全力で取り組んできました。でも、村の人たちにはなかなかわかってもらえていないことにも、理解は本当は気がついていました。
あなたがいないと困る――それは、理解がずっと言ってほしかった言葉なのかもしれません。
それを言ってくれたのは、今日初めて出会った大瀬だったのです。
大瀬が無言で差し出した手綱を、今度こそ理解は受け取りました。
自分には、村で果たすべき役割がある。理解は思い出したのです。
理解が背に乗っても、馬は暴れることもなくその重さを受け入れてくれました。理解が馬の首に触れてみます。柔らかな毛並みの下に、ほんのりと温かさを感じました。
あの、と大瀬が呼びかけます。
「こいつは、もうおじいちゃんで――きっと長くないと思うんです。だから、どうか良い場所で眠らせてあげてください」
大瀬が頭を下げます。
「わかった」と理解が言うと、大瀬は、出会ってから一番うれしそうな顔でお礼を言いました。
「でも、馬の脚は道を覚えるというなら」
理解は言います。
「もう一度、ここに来ることもできるだろう」
「――え?」
「来てもいいかな」
「どうして――」
どうしてでしょうか。
暗い森で迷っているとき、理解は、一刻も早くこんな森からは出たいと思っていたはずだったのに――やっぱり、大瀬からもらった言葉がとても嬉しかったからかもしれません。
そして、そんな大瀬が喜ぶことを何かしたかったからかもしれません。
でもそんなことを言うのは少し恥ずかしくて、ただ、
「また近いうちに」
そう言って微笑みました。
大瀬は震えるように目を見開き、
「――はい」
とだけ、噛みしめるように言いました。
少し進みだしたところで、理解はふと「おとぎ話では、確か――」と理解は振り返ります。
「暗い森の奥でたどりついたお城には、恐ろしい野獣がいると言われているよね。でも本当は」
こんな――と言って理解が目をやると、大瀬は不思議そうにこちらを見上げていました。
私は一体、何を言おうとしたのだろう――理解はハッとして、言葉は掴み損ねた風船のようにどこかへ行ってしまいました。
「なんのお話ですか?」
大瀬は小首をかしげて尋ねます。
「このお話、知らないのかい?」
「あ、ごめんなさい――」
大瀬は俯いてしまいました。
大瀬は、幼いころに攫われここへ連れてこられたのです。知らないお話がたくさんあっても当然です。
「その本も持ってこよう――じゃあ、また」
そう言って、理解は馬を走らせました。
ーー
夕焼けを夜が覆い尽くす直前。理解は森の出口を見つけました。
理解がほっと胸を撫で下ろしていると、森の出口にランタンを持った誰かが立っているのに気が付きます。大人一人と子供何人かのようです。彼らも理解に気づきました。
「君たち、どうしてここに」
「お前が後先考えずに森に入ってくからだろうが!」
理解にそう怒鳴ったのは、村の不良の慧です。慧という名前だけど、皆には猿と呼ばれています。
「それは、警吏としての仕事で――あ!猿、大変なんだ。いなくなった子供がいて――」
ですが理解は、慧の陰に隠れている子供を見て、
「君は――」
と言いました。理解が森の中で探していた子だったのです。
無事でよかった――そう理解が言いかけましたが、慧はその子供を引きずり出し、
「言うことがあるだろ!」
と怒鳴ります。するとその子供と、他の子供たち――森に子供が迷い込んだ、と理解のもとに駆け込んできた子供たちです――は、おずおずと、
「う、嘘ついて、ごめんなさい――」
と、頭を下げました。
「え――?」
「こいつら、お前がビビって森に入れないの見て面白がるつもりだったんだよ――っておめーら、もっとちゃんと謝れ!」
慧が子供たちの頭にげんこつを食らわせます。もう叩かないでよ慧兄ちゃん、本当に行くと思ってなかったんだよ、と子供たちは口々に泣き言を言っています。
「お前もお前だ理解!」
そう言って慧はキッと理解をにらみます。
「おめーもガキどもの言うこと何でも信じるんじゃねえよ!」
「な、なんだと、私は」
「なんも考えねえで突っ込んでいくんじゃねえよ!まずはもっと村の中よく探せよ!あとは――誰かに相談するとか、もっとあっただろ」
言葉が出てこなくて、理解は黙りこくります。騙されていたことは、やはりこたえました。慧の言うことも、最後のほうはちゃんと聞けていませんでした。慧の言葉は、なかなか人に伝わりにくいのです。
お前ら行くぞ、と慧は子供たちの背中を軽く叩き帰ろうとしました。でもふと振り返り、
「理解、その馬どうした」
と聞きました。
「ああ、これは――捨てられていたんだ、森の中に」
嘘はついていないと理解は心の中で言いますが、果たしてそうでしょうか。
ふうん、と慧は興味なさげに声を漏らします。
「お前も早く帰れ。竜が来るぞ」
そう言って、慧は再び歩き始めました。
歩いて行く慧と子供たちの背中を、理解は見つめていました。
自分は一人なのだと、理解は思いました。風が冷たくて、体が冷えていることに気づきました。
でも、ふと、
――きっと理解さんがいなくなったら、村の人が困ると思ったから。
宝物を入れた小箱を開くように大瀬の言葉を思いだせば、理解の心は、ぽっと小さな灯が点いたように温かくなりました。
その言葉通りの人でありたい――理解は強く願いました。
馬の首をそっと撫で、
「早く帰ろう」
と言うと、馬は素直に歩き出しました。