神の亡骸 友人が突然変なことを言い出した。
──神様がいる。
呆然とした顔でそう言った友人に、まず頭の心配をしたおれは悪くないはずだ。
やつの言う『神様』は、語学の講義でよく顔を合わせる女子学生だった。大学入学で浮かれたついでにうっかり一目惚れでもしたのかと思いきや、そういうわけでもなさそうだ。なら女神だと拝みたくなるほどの絶世の美女かといえば、そうでもない。可愛い子だとは思うが、いわゆるミスキャンパスに選ばれたりだとか、そうでなくても学内で噂になるほどとか、そういうのじゃない。周囲を見回せばそれなりにいる『可愛い』だ。首を捻るおれに、そいつは顔を青くして首を横に振った。
「そういうのじゃない! めったなこと言うな、馬鹿!」
本気でバチがあたるぞ! そう言うやつの表情は鬼気迫るもので、軽口を許さない勢いだった。それでも納得できずに口を尖らせれば、さらにおっかない目でこちらを睨むから、それ以上は肩をすくめるにとどめた。
友人はいわゆる霊感が強いタイプらしい。らしい、というのは、おれはそういうものがさっぱりで、やつのいう幽霊だとか妖怪だとか、そういうものを一切合切見たことがないからだ。でも、付き合いの長い友人が、至極真面目な様子で顔を青くしたり赤くしたり、時には白くしたりしながら四苦八苦している姿を長年見ていれば、頭ごなしに否定する気にはならない。冗談が下手くそなあいつが言うのだから、多分おれの見えないものというのは存在するのだろう。見たことがないから断言はできないけれど。
そんなふわふわしたおれのスタンスを友人は怒る様子もなければ歓迎する様子もない。だがその割に、他のやつがいない時は、時折、そういう不思議なものへの愚痴をこぼした。今回もそのひとつだと思ったのだが、思ったより深刻だったらしい。
今回に限っては、友人の言うことがいつにも増して理解できない。よりにもよって神様ときた。おばけだとでも言われた方がまだ理解もしやすい。何故って、やつの言う『神様』は、おれからしてみれば、どこからどう見たって普通の女の子だった。
「なあ、神様ってなんだよ」
せめて説明をくれと口を尖らせて催促するも、友人はしばし黙った後、唸るように言った。
「……神様は神様だよ」
うまい言葉が見つからないとはいえ、自ら言い出したことへのそれを放棄するのはいかがなものか。あんまりな返答に半眼になるおれに、友人は乱暴に頭を掻いてため息を吐く。
「本当になんて言うべきかわかんないんだよ。おれにはあのひとの顔もよく見えない」
いわく、胸元のあたりから光が溢れていて、姿を捉えることも難しいのだという。
「そんなことあるのか?」
「あるみたいだな」
いつになく投げやりな友人に、安易に突っ込んでいいものではないらしいことはわかった。
友人の様子から、おれはむやみに『神様』に絡むことはしなかった。彼女を見るたびに隣で緊張に体を強ばらせるやつを見ていれば、さすがにちょっかいを出す気にもならない。
だから、それは誓ってわざとじゃなかった。
***
それは、おれたちが『神様』を一方的に認識してから早数ヶ月、あといくらかすれば夏休みという時期のことだ。その日の語学の講義で、友人とおれは、うっかり『神様』の後ろの席に座ることになった。いつもは『神様』が教室に来る時間を見計らってなるべく離れた席に座っていたが、電車の遅延だとかで彼女がいつもより遅れてきた結果、まさかのおれたちの目の前に座ったというわけだ。
これまでも近くに座ることはないわけじゃなかったが、こんなに近いのは初めてだ。おれにとってはどうということもないことだが、友人にとっては一大事だった。ちらと隣を横目で見れば、わかりやすく顔を強張らせている。これでは今日の講義の内容は頭に入ってこないだろう。『神様』と同じ教室にいるだけで冷や汗を流していた当初と比べれば、これでもいくらかましになった方ではあるが。
そんなおれにとってはいつもどおりの、友人にとっては多分とてつもなく長かった講義を乗り切って、教授が席を立つと同時に、友人は忙しなく席を立った。おれも手早く荷物をまとめて、友人の後に続く。
足早に教室から離れようとする背中を駆け足で追って、その肩を叩く。
「落ち着け落ち着け」
「落ち着けるか!」
そう吠える友人は、だが先ほどよりは大分表情がましになっている。
「いやいや、だって『神様』が追ってくるわけでもないし、そんな逃げなくても」
「あの!」
言いかけた言葉を遮られて、足を緩める。振り返ろうとしたところで、友人の盛大に引きつった表情に声の主を察してしまった。別に振りじゃなかったんだけどな。
そのままゆっくりと視線を声がした方へ向ければ、そこには思ったとおりのひとがいた。『神様』だ。
そのひとは真っ直ぐにこちらを見ていた。おれに用があるのは明らかだ。彼女を認識すると同時にわかりやすく体を硬直させた友人を視界の端で見ながら、首を捻る。『神様』に声をかけられる心当たりはない。
「えっと、おれ?」
へらりと笑みを作って問いかければ、彼女はほっとしたように顔を綻ばせた。あ、笑うと可愛い。
「そう、これ、忘れてたから」
きみのだよね? そう言って彼女が差し出したスマートフォンに、慌ててポケットを探る。空っぽだ。教室を出る時に慌てて荷物をまとめたから、そのまま忘れてきたらしい。途端に隣の友人からきつい視線が飛んできて、内心で肩をすくめる。もともとはお前がさっさとひとりで出ていくからだろうが。そう反論したくなるが、今は目の前の彼女からの親切を受け取るべきだ。
「全然気づかなかった、ありがとう」
そう言ってスマフォを受け取ると、彼女はにっこりと微笑んだ。見れば見るほど、普通の女の子だ。にこやかに笑う姿は愛嬌があって可愛らしいが、いわゆる神々しさというやつは感じない。やつのいう『神様』らしさというものが、おれにはさっぱりわからなかった。近寄りがたいわけでもないというか、むしろ話しやすい雰囲気のある女の子だったから、つい、口が滑ったのだ。
「神様、って、なんか心あたり、ある?」
ぽろっと、転がり落ちた言葉に、我に返ったのは彼女のぽかんとした表情を見てからだった。
「えっ」
戸惑ったような声に、やってしまったと気づく。後ろに視線を向けなくとも、友人がとんでもない表情をしているだろうことがわかる。迂闊だ、抜けている、と友人には事あるごとに言われているが、まさか自分でも、よりにもよって本人の前で口が滑るとは思わなかった。
「ええと、あの、ちがうんだ。君のこと、なんていうか、神様? みたいだって、友達が。いや、学科も違うやつで、君をたまたま見かけたみたいで。ほら、あの、サークルが同じやつなんだけど」
なんとか誤魔化そうと、あたふたと適当なことを言い募る。おれでも後ろにいる友人が言っているのでもありませんよ、とさえ伝えられればいいのだが、我ながら嘘も言い訳も下手くそすぎる。こんな言い様じゃあ、架空の友達含め、おれもそろって変なやつだ。まだ半年以上も同じ講義を受けるのだ。変なやつだと思われるのは嫌だし、友人の話をそのまま告げるのはもっとまずい。半ばパニックに陥りながらも更に言葉を重ねようとしたところで、目の前の彼女が眉を下げた。ほら、困ってるじゃないか!
焦るおれをよそに、眉を下げたまま笑った彼女の表情は、思いのほか穏やかだった。
「神様は私じゃないよ」
ざわついた廊下で、彼女の声は不思議なほど真っ直ぐに耳に届いた。それを聞いてほっとする。ほら、やっぱり神様なんかじゃない。そう友人を振り返って言ってやりたくなる。だが、彼女の言葉選びに違和感を覚えて、踏みとどまった。
その言葉を反芻して、首を捻る。なんだかその言い方は、彼女は友人のいう『神様』に心当たりがあるみたいだ。
なんともすっきりしない感覚に、改めて彼女を観察すると、その右手が不自然に胸元を握っていることに気づく。そこに何かあるのだろうか。だが、目を凝らして何かが見えるわけもない。諦めて適当に話を濁そうと思った時だ。ずっと黙ったまま俺の後ろで微動だにしなかった友人が身じろいだ。痺れを切らしてこの場を離れようとしたのだろうか。そう予想している間に友人が一歩踏み出す。おれの予想とは真逆の方向、彼女の方へ。
あんなに避けていたのにどういう風の吹き回しだろうかと、その表情を伺って、息を呑む。友人の顔がひどく青白かった。これ以上ないくらい目を大きく見開いて、やつの言う『神様』を凝視している。
尋常じゃない様子にかける言葉を見つけられずにいれば、友人は呆然とした様子で口を開いた。
「したい……?」
自問するような囁きを、辛うじて耳が拾う。
「かみ、さまの」
掠れた声が続ける言葉を聞いても、何を言っているのかさっぱり理解できない。
彼女もさぞ戸惑っているだろうと、そちらへ視線を向けて息を呑む。先程まで穏やかな笑みを浮かべていたその顔から、一切の表情が抜け落ちていた。
それを見た途端、友人は顔色を変えた。見たこともないような険しい表情で彼女を睨みつけたかと思えば、無言のまま踵を返す。
「あっ、おい!」
そのまま足早に立ち去ろうとする背中に声を上げるが、振り返りもしない。なんだっていうんだ。
子どもじゃないのだから放っておくこともできたが、今までにない様子なのが気になった。しかも女の子に対してあんな態度を取るのなんて、初めて見た。
その当の失礼な対応をされた相手に視線を向ければ、彼女はまだ友人の方を見ていた。怒っている様子はないが、その表情からは心情を推し量ることはできない。
「あー、変なこと言ってごめん。これ、ありがとう」
上手いフォローが思い浮かばず、せめてと謝罪とお礼を告げれば、彼女は何事もなかったように笑ってくれた。そのことにほっとして、それじゃあ、と頭を下げて踵を返す。
もうかなり先を行く友人を追って、小走りに駆けながら、どうにも彼女が気にかかってもう一度だけ振り返った。そうして視界に収めた彼女は、もうこちらを見ていなかった。
***
その後、友人を追って駆け出したはいいが、休み時間の人ごみにその姿を見失い、構内を駆け回ることになった。メッセージアプリで文句を送っても、こちらからの通話の発信もことごとく無視され、結局やつと合流できたのはあれから二時間も経ってからだった。午後一の講義は取っていないとはいえ、昼食もとらずに、だ。
ようやく友人と連絡が取れ、やつがいるという食堂に顔を出せば、その机にはすでに空になった食器が置いてある。あまりの理不尽さにぶすくれながら正面の席に座れば、やつはさすがにばつの悪そうな顔をした。罪悪感を覚える程度に頭が冷えて何よりだ。適当に頼んだ定食を頬張りながら、目を泳がせる友人を半眼で睨む。
「で、なにあれ」
「……なにってなんだよ」
「なにってあの態度だよ! 初めてしゃべる子に対して、あれはひどすぎるだろ。『神様』なんじゃなかったのか?」
居心地悪そうにしていた友人は、『神様』という言葉を聞いた途端、顔色を変えた。ざっと、音が聞こえてきそうなほど血の気を失った顔に息を飲む。
「あれは神様なんかじゃない」
押し出された言葉は、地べたを這いずるような低い声なのに、いやに鋭い響きを持っていた。声を荒げないのが不自然なほどに。
「でも、ずっと『神様』だって言ってただろ」
「見間違えた」
気後れしながらも問いかければ、友人は迷いなく答える。
「神様はあれじゃない。あれが持ってるものが神様だ」
吐き捨てるような言葉をうまく咀嚼できずに眉を寄せる。何を言ってるんだ。
「あれがずっと握ってたものが神様だ」
ずっと胸元に隠していたから、判別がつかなかった。友人はまるで悔いるように告げる。
「あのこが何を持ってたっていうんだ」
「だから、神様だよ」
どこか投げやりな答えに首を捻る。
「神様っていうのは、そんなに小さいもんなのか?」
日本には八百万の神がいるというし、そういうものなのだろうか。
「そんなわけないだろ。あれはしたいだ」
「したい?」
おうむ返しに問うおれに、やつは苛立たしげにまくし立てた。
「死体だよ。遺体、亡骸、死んだ後の肉体。あの女、死体の一部を肌身離さず持ってるんだ」
したい。死体。そこまで聞いて、おれはようやくその単語を脳内に浮かべることができた。
聞いていて気分の良いものではない単語を繰り返され、ぞわりと肌が粟立つ。
「なんで、」
「おれが知るもんか。でも、どんな理由があるか知らないけど、神様の死体を持ってるなんて、ろくなやつじゃないし、正気じゃない」
嫌悪感さえ滲ませて、友人は語る。確かにそうだ。死体、なんて言葉を聞くだけでもおっかない。おれは死体なんてものを今までの人生で見たことがないし、これからもなるべく見ずに生きていきたい。それも神様の、だなんて。霊感も何もさっぱりなおれにだって、罰当たりなことはわかる。わかるけれど。
「でも、」
ふと、最後に振り返った時に見た、彼女の姿が脳裏に浮かんだ。
「でも、あのこ、泣きそうだった」
そうだ、泣きそうだった。あの時、彼女は顔をうつむかせていた。長い髪でその表情はよく見えなかったけれど、胸元を握った手も、スカートを握ったもう一方の手もぎゅう、と強く握りしめていて、丸まった背中もあいまって、まるで途方に暮れた小さな子どもみたいに見えた。
ぽつりと、思わずそう零せば、友人は言葉に詰まる。目を逸らして髪をかき乱す様に、気まずく感じているのだとわかる。本来なら、誰かを傷つけて平気でいられるやつじゃないのだ。だがそれでも、やつなりに譲れないところがあるらしい。
「それでも、だよ」
「でもさ、」
「でもも何もない。よしんばあの子が普通の子で、まともで、正気なんだとしたら、おれはそっちの方がこわい」
言い募るおれに、友人は首を横に振る。
「あんなとんでもないものを持ってて、正気を失わないなんて、そっちの方がよっぽどばけものじみてるよ」
だから、お前ももう関わらない方がいい。先程の荒々しさとは打って変わって、疲れたようにそう言った友人に、おれはそれ以上言い返すことはできなかった。
おれは『そういうもの』に疎いし、よくわからない。だから『そういうもの』に聡い友人の言うことは、きっと正しい。だからきっと、おれはもうあの子に関わらない。あの子だって、多分もうおれたちに声を掛けることはないだろう。
そう思いながら、それでも、最後に見たあの子の姿は、しばらく忘れられそうになかった。