■ ふたつ、ひとつ ふと気付いた時、自分は何処ともわからぬ場所にいた。建物の中、しんと静まり返った空気の何処からか低く機械音の響く工場のような雰囲気の廊下。随分と広い建物である様子にも関わらず人の気配は無い。
肌が粟立つほどの恐れに近い何かと、胸が軋むほどの懐かしさ。ここは何処だ、と妙にざわめく重い頭を押さえ、流れるようにそもそも何ひとつとして思い出せない事に気付く。自分の名前さえも。それに思い当たり、ふらついた身体を壁に手をついて支える。
記憶喪失。
そんな単語はわかり、この分ならば知識は残したままエピソード記憶だけごっそりと抜け落ちてしまったのかなどと頭の片隅で冷静に考える自分がいる。
何も思い出せないと言うのに目眩がしそうなほどの速さで思考は巡る。なにか、なにか忘れてはいけないものがあったはずだ。やるべき事があったはずだ。身の内をごっそりと失った空虚感にそんな焦りはあるにも関わらず、まるで雲を掴むように判然としない。
……とにかく、こんな場所で立ち尽くしていても仕方がないだろう。僅かな時間の動揺で息まで上がりそうになっていた事を自覚し、鼓動を落ち着かせ、改めて周囲を見渡す。深く吸った空気は、やはりひどく懐かしく感じた。
どうもここはなにがしかの大型メカニックと絡んだ研究施設であるらしい。ゲッター線、という表記を幾つか見た。物々しい扉の側には除染などの言葉もある警告や注意文が並ぶ。
ゲッター線。それに関する知識もすっぽりと、不自然なほど綺麗に抜け落ちている。
知りたい。と、思った。その感覚に既視感を覚えて視界がぶれるような感覚に頭を押さえる。思い出せない。けれど多分これは前から自分の中にあるものなのだろう。
重く分厚い扉を開けて進めば違う区画のようだった。何かに招かれるように、よく見知った場所のように足は動いた。灰色の通路に自分の足音だけが響く。やはりここには誰もいないのかと思った頃、通路の先、開けた場所に誰かいることに気付いた。
赤い何かを見上げている男の横顔を見た途端、足が止まった。喉につかえたものが何かわからない。癖のある茶色の髪、意思が強そうな太い眉、活発そうなぱちりと開いた大きい目。知っている。知らないはずが無いとさえ思う。なのに記憶には無い。何かを詰め込んだように胸が重い。
床に張り付いてしまったように動けない自分に気付いて男が顔を向けた。なにか思い詰めたように険しかった顔が驚くように眉をはね上げた後、その眉根をよせ、訝しげな表情に変わる。
「どうしてこんなとこ来ちまったんだ、お前?」
しっかりとよく通る声だった。なにもわからないまま、しかし耳に慣れた声だと感じ、何故か安堵する自分がいた。何を言えばいいかわからず、口を開きかけては閉じる。ようやく動きを思いだした足をぎこちなく進め、男が見上げていたのは巨大な人型のロボットだと通路の先に出て理解した。あれも、知っている。気を抜けばふらついてしまいそうな感覚をまとめあげて男へ歩み寄る。
「……俺を知っているのか」
……お前は、誰だ。ここは何処だ。
把握できない感情で重い胸から言葉を選んで話しかければ、男が驚いて目を見張り、一瞬ひどく深く傷ついたような、迷子の子供のような顔をした。
そうしてしばらく考える素振りの後に何か勝手に納得したようだった。
「起きたらお互い覚えちゃいないだろうが、今度はお前の番なんだろうな」
お前も俺の時にはこんな気持ちだったのかね? まあ、あん時ゃ俺が思い出すより他無かったけどよ。
乱暴に頭をかきながらそう話す男の言葉は意味はわかるが理解ができない。説明をして欲しい、と言おうとして見据えてくる瞳に口を閉じた。
「……あのな、多分お前、今なら『降りれる』ぞ」
男の目は真剣だった。意味はわからないながら、大事な事を聞かれているとは理解する。
「どういう事だ」
「うーん、上手く言えねえんだけど」
そう言って、男が困ったように作業着の腕を組み首を傾げる。随分と表情豊かな男だと黙って見ていれば問い掛けられた。
「思い出したいか? お前の事、ここの事」
間髪入れずに深く頷いた。思い出さなければ、という焦りはまだ胸の内にあった。自分の返答に男は呆れたように深くため息つき、諭すように話し出した。
「そんな思い出してぇか。ろくな事無いぜ、多分。
きっとお前はこの先も沢山抱え込んで、死ぬまでひとり戦場から離れられないし、なんなら死んでも戦い続ける事になるかもしれねえ」
このまま、忘れたまま、戻っても構わないんだぜ。
そうしたらきっとお前は俺が引っ張りこんだ運命なんか一緒に歩かなくて済む。結婚して、子供作って、親父になって爺さんになって、ささやかな幸せとかいうやつも手にできるかもしれねえぜ? 戻れなくて死んだって、思い出してあんな運命背負うよりマシかもしれねえ。
……寂しいだろ、だって。そんなん。
背中のフェンスに寄りかかりこちらを見つめて訥々と語りかけてくる男の声はいっそ優しかった。無理に思い出さなくてもいいと、その方がいっそ自分には幸せかもしれないと、こちらを思って言っているのもわかった。
わかりながら、首を振った。
「思い出せないが……俺は一度はお前と同じ運命とやらを選んだんだろ」
なら、思い出したい。自分の事を。お前の事を。
たとえお前が言うようにささやかな幸せとは程遠く、つらい運命でも、俺が選んだのはそれなんだ。
男を見返してそう答えながら、不思議と確信があった。本当にそうだったとして、俺はきっととっくの昔に腹は括っているのだ。だから思い出さない道は無い。それに。
「……それに、きっと寂しいのは、お互い様だろ」
揶揄う様な笑みでそう言ってやれば、参ったなと男は困ったように苦笑してまた頭をかいた。
「忘れてても、変わんねえんだもんな、お前」
小さくそう呟き、そして手を伸ばせば触れる距離まで近付いてきた。男の顔をよく見ようとすればわずかばかり目線が下で自分の方が背が高い。うっすらと顎や鼻の上に古い傷があるようだ。
「まったく、嫌んなっちまうよな。何処までも同じでちぐはぐで、鏡合わせかってんだよ、なぁ?
……お前の顔にまで傷付けて揃いにするこたねえじゃねえか、折角モテそうな優男だったのによ」
そう言いながら男の手が自分の顎や鼻の上を優しく、そっと撫でていった。そうか、自分の顔にはお前と同じような傷があるのか。触れられる感触もその事実も嫌ではなかった。ふと、瞼が重くなり目を閉じる。
「改めて考えたらいっそ気味悪ぃよな。スピリチュアルがどうとかそうじゃなきゃホラーかなんかみてえでよ」
温かく少し荒れた肌の感触が離れていくのを追い掛けるように瞼を開けば、苦しそうな嬉しそうな寂しそうな様々な感情を綯い交ぜにして笑うような顔が自分を見つめていた。
「……それでも、お前がまだそこを選ぶなら、俺にはお前しかいないんだ。離れてたって」
隼人。
……りょう。
ガクンと、落ちるような衝撃。闇に閉ざされた視界。呼びたかった名前は音にすらならなかった。震えるように唇が動いただけで。
鈍い意識と指一本動かすのもままならない鉛のように重い身体。張り付いた瞼を引き剥がすように持ち上げる。
「意識が戻りました」「信じられない」周囲から聞こえる慌ただしい声。規則正しい心電図の音。機械を取り付けられた自分の呼吸音。
何故あいつの名を口にしようとしたのか、今となってはわからなかった。
まだ、同じ道の上にいる。きっと。離れていても。
漠然とした思いは、寂寥感と共にまた胸にあった。