■ 卯月朔日年度末から年度始め、となればやる事も多い。
朝も早くから研究室に籠って早乙女博士からも引き受けた書類を片付け、一息ついて時計を見上げれば昼も過ぎていた。そういえば食事を取り忘れていたと思い出した隼人は、郵便物を所内の係に預けがてら食堂を覗いてみようと腰を上げた。
別棟に向かうため出た渡り廊下から見える空は晴れて、屋内に慣れていた目が一瞬の痛みを覚える。身にまとわりつく密室の滞留する空気を吹き流していくような風が涼しい。浅間山を目前に望む早乙女研究所周辺は桜が咲くにはまだ遠いが、すっかり春の気配であった。
と、珍しい光景が隼人の目を引いた。怒ってむくれているらしい女の子と居心地悪そうな男の子と、その子に目を合わせて話しているらしい竜馬とそれを見ている子供たち。そういえば春休みに入り、度々早乙女家には元気の友達が集まっていた。なにがあったのかと少し近寄って様子を見れば、竜馬の声が耳に届いた。相変わらず静かに話していてもあいつの声はよく通ると隼人は思った。
「あのな、嘘をついて良い日だからって、相手が嫌になる事を言っていいってもんじゃねえんだぜ。わかったらちゃんと謝れ」
男がそんな真似で女泣かせるもんじゃねえやと、穏やかながら真面目に話している竜馬はおそらく父親からそう教わったのだろうと隼人は様子を眺めた。
……嘘をついていい日。そういえば今日はエイプリルフールだったか。良きも悪きも諸々の本当の事を嘘では無い程度に体良く見せるのにも頭を使っていた最近ではとてもそんな事を考える気分でも無かったが。むしろ四月一日である事から目を逸らしたい。
そんな事を思い返しているうちに、無事に丸く収まったらしい。きちんと謝った少年の肩を叩いてにっかりと笑った竜馬が隼人に気付いて歩み寄ってくる。それに軽く手を上げて隼人は竜馬を迎えた。
「お疲れさん」
「そっちもだろ。あ、飯食ったか隼人?」
「いや、今から行こうかと思ってな。あっちはいいのかい?」
「大丈夫だろ。向こうでミチルさんが覗いてて来るみたいだったし、任せるぜ」
確かに子供たちの向こうにはミチルの姿が見えていた。仲良くしろよと、口に出さないまでも子供たちに手を振って歩き出す竜馬に続き、隼人もミチルや子供たちに軽く笑みを向ける。竜馬に並びながら隼人は口を開いた。
「エイプリルフールねえ」
「まあ、ありがちっちゃありがちなやつよ。四月馬鹿だから嘘ついていいってんで、気になってる子にちょっかい出して嫌われるやつ」
「ああ、好いてるから『嫌い』とか。言う奴は言うな」
まあ、無事に仲直りできて学べたなら良かったんじゃないか。いい歳してもわからねえ奴は多いし。
そう言ってから自分もまた素直にはなりきれない質だったと隼人は自嘲した。その様子に片眉を上げた竜馬が考えるように腕組みする。
「しかし嘘ねえ。つくなら楽しい嘘にしてえもんだけど、さっぱり思い付かねえや」
「お前は嘘なんざ苦手にも程があるだろうしなぁ」
「うーん……実は俺は女なんだ! とか」
「言葉使い変える小細工くらいできないもんかね、お前さんはよ」
「えっ……やっぱやめだ。気持ちわりぃや」
聞く分には良いんだけどよ、なんで自分で使うとなると女言葉って尻がむず痒くなるっつうか歯が浮くってえか、なんか嫌な感じすんだろうな。
女言葉を使う自分を想像したのか竜馬が眉をひそめて嫌そうな顔をしながらそう言うのを小さく笑いながら隼人は聞いていた。一番有り得なさそうな事を言うとは嘘をつくにしても相手を驚かそうとか騙そうという気が最初から無さすぎる。日々自分がしているような事は竜馬には向いていないのだろうと改めて隼人は思った。
「お前はなんか無いのかよ」
「ん? そうだな……」
隣を歩く竜馬から促されて隼人は軽く首を傾げ、宙を見ながら考えた。
「実は俺は宇宙人の末裔でな」
「はあ?」
「俺の家の神という苗字はかつて宇宙の彼方から思いもよらぬ技術を携えて地球にやってきた祖先が祀られる存在だった事を示していて」
「いやいやねえだろ」
「そのうちに愛するものを得て子を成したのだが、異質なものは疎まれるのが世の常なもんで、身を隠して生きるようになってな。明治以降に平民も苗字を名乗れるようになってからすっかり薄れた祖先の血をそんな苗字に残そうと」
「お前よくそんなサラサラ出てくるな」
「ただ、稀に先祖返りして異様に身体能力や知能が高い人間が産まれてくるらしく」
「えっ」
「ここ数年UFOの目撃情報が多いだろう。あれは実は俺を探し――」
「行かせねえからな」
笑い混じりに聞いていた竜馬が途端ピタリと足を止め、そう言い切る。まっすぐ見上げて来た力強い瞳に隼人は瞬きした。ふ、とわずか苦い笑みを口に乗せて呟く。
「……全部嘘だよ」
「行かせねえ」
「どこにも行かねえよ」
これは嘘じゃねえよ。
妙に真剣な顔をする竜馬の肩を軽く叩いて言ってやれば、まだ納得がいかないような顔で竜馬が前を向いた。
「それに、どうせ宇宙に行くならお前と弁慶とでゲッターに乗りゃ良いだろ」
「……それもそうか」
そんな隼人の言葉を聞いて、ようやくにっと竜馬が笑う。幾分安堵したような気持ちで隼人も笑みを返した。
「どうもお前に嘘をつくのは苦手だな」
「変に凝らなきゃ良いだろ」
「わかりやすすぎても面白くねえかなってよ」
「そういうもんかねぇ」
「お前にそんな顔させる気はなかったんだ。謝るよ」
「いや、俺もよくわかんねえけど、咄嗟に口から出てたし」
なんでだろうな、と竜馬が腕を組み首を傾げる。思う事はありつつ、隼人は口を噤んだ。武蔵の命日も、近かった。あの日の事を互いに忘れられるはずはなく、意識せずともふとした瞬間にそれを気付かされる。
「『かぐや姫気取りかよ、気に入らねえ奴に意地悪なとこはお前似てるけどよ』って笑ってやるつもりだったんだけどな」
「俺がお姫様とか笑っちまうよ」
「お前は行きたくないって言うなら自分で弓矢持ち出しそうだぜ」
「そりゃあなあ」
楽しげに他愛の無い会話を続ける二人の姿はやがて建物の奥へと消えた。
四月一日。新しい区切りの始まり。まだ同じように季節は巡るのだと思っていた頃。
そんな会話もあった、と彼らが思い出すのはまだ遠く先の話。