漫画竜馬隼人のその後石川作品世界というのは、どうも
・世界にある全生命とは肉(身体、物理要素)と魂(精神面、理性)を構成要素とする
・物理要素は全てひとつのエネルギーからできている。ここには生命以外のあらゆるものも含まれる
・生命が死ぬと物理部分はこの大元のエネルギーに戻る
・魂は一度集積所みたいな場所(地獄含む)を通って輪廻する
という感じが基本らしく、どれも大体これで説明が可能である。
ゲッターロボサーガだとこの物理担当エネルギーがゲッター線みたいな感じで、大枠部分で思考(目的)を持ってしまったが理性(魂)は持たなかったのがさあ大変なんだろうが置いといて。
(これ肉体が本能担当で魂が理性担当って考えたら、ゲッター線は魂が欠けてる肉体だけの存在に近く本能の塊になるみたいなので説明できんでないとも思う)
「輪廻する魂」はどうなったかの明示はどこにもされない。
しかし魂自体に個性が存在し、何度輪廻してもその魂を持つ人物であれば似通った核を持つと仮定すると、元よりなんらかの作品の再構成を重ね続け、同じ核を持つ人物も生まれ続けた石川作品全体に渡って輪廻を繰り返していると言えないだろうかっていうのが私の持論。
これらから、號の後、隼人は生を全うして竜馬と再会し、魂は二人揃って輪廻しました。としている。
この辺は「永遠の命に価値はあるのか」みたいな部分も関係してて、どうも石川作品は「生には限りがあり、その存在はその時限りであるがために尊重しなければならない」とか「死なない存在は生きることを知らず、他の生命を軽視する」みたいなとこがあるので、何度も別人として生まれ変わる方がそれっぽいかなと。
あと輪廻に際して、大元エネルギーは時空間とかまで通用してるので、順番に時間経過辿る訳でもないとしてる。
考察部分に戻ると、
彼らの魂はざっくり三つくらいに分かれた。
①.75年時点で「記憶喪失時の竜馬」と「校舎で死の洗礼を受ける前の隼人」が分化して慎一とマリアになった
男女ペアの話は基本的にこの二人の系譜が多い。禍と楓とかはここ。
その後の女性2血筋は男性と対等な存在となる場合が多く、このためだろう「死の洗礼を受けた後」=死ぬ覚悟までして男性と対等に前線に出れるような人物となり、「バトルホーク」の次女時点で翔のような人物像となっている。
②.現代適応した竜馬の血筋は髪の毛が短くなり、邪鬼王の瞬などから最終的に號くんになった
短くなったのは何故かと言えば、恐らくは表面モチーフのひとり、漫画版本郷猛からではないかと思われる。
こっちはSFや現代劇に多く、瞬くんや號くんになった頃には明確に「90年代の若者」として確立している。
③.では竜馬の髪型とか元の性格に近いのはどこへ行ったかといえば時代物が中心になった
山風作品の十兵衛にわかりやすいが。
この辺は竜馬が元より九州男児薩摩隼人とか侍とか武士みたいな面を所持していたことと、「あらゆる支配を否定して個人の自由を尊重する」という意味ではとてもアナキストだった(過激派とかテロリストとかいうのは戦前のイメージ引きずりらしい)のが理由じゃないかなぁと思う。
現代社会で生きるには窮屈過ぎたが、無法働きたい訳じゃないので、伸び伸びやるには時代物の方が向いてたみたいな。
④.というのを前提にした竜馬と隼人の直接の再構成
実はめちゃ少ない。
今んとこ90冊読んで
五右衛門と半蔵が魔獣戦線からの流れも取り込んでの二人の魂の生まれ変わりにおそらくは一番近い。
次いで爆末伝の平九郎と新八郎。
こっちの二人は感情と合理の担当をひっくり返した人物達だが、根っこにある核の部分が同じ。
どういう分岐であるにしろ、どうも1血筋は2血筋を広義の意味で愛して、決定づけられた死の運命から回避させようとする傾向がある。
* 2血筋はそもそも根となる隼人が
・漫画版不動明
・漫画版本郷猛
・コンドルのジョー
といった人物達の要素を持っているのだが、この主要で下地となった人物達は元作品において少なくとも一度は死んでいる。
=生まれる前から死亡フラグが乱立していた。
他にも細々したところでライダーマンとかも疑わしいんだけど、とにかく関係ありそうなキャラの死亡率が変に高い。
これの為だろう、「運命のままであれば死亡が確定している」特徴も恐らく持っていた。
この運命に介入して相方に乱立した死亡フラグまとめてバキ折れる唯一存在が1血筋で、隼人やその後継の2血筋が死亡回避する場合には1血筋の介入が存在し、介入が間に合わないとかそばにいなかった場合に置いて2血筋は死ぬ事が多い。
なお、この「運命」を2血筋は理解してるのかというと、理解した上で受け入れていて最初から死ぬつもりだったとか自分の死を予見してたとかそんなんばっかりである。東映や漫画の隼人は最初から自分の命勘定に入れてないし、マリアは自らの死を予見し、お品は結果死ぬ事を理解して十兵衛の手を取り許した。
死の恐怖を理性で御して、何ものへも臆すことなく立ち向かう高潔な魂、勇気の持ち主でもあるというか。この辺は「沖田総司」読むとわかりやすい。
そんな構図が石川作品全体に渡ってうっすら見えるため、1血筋、特にその元祖となる竜馬は相方の死亡フラグまとめて5本くらいへし折ってるとか人類最強通り越してなんならエンペラーとかよりある意味強いんでは?疑いが割とある。どうも石川作品世界は最終的にものを言うのは理性、意志の力でありそうだし。
(この辺は物理エネルギーだけの戦いでは単にエネルギー総量=極論宇宙の大きさのみに勝敗結果が依存するため、それを引っくり返すには精神、感情、理性という魂の介在が必要となるみたいな理屈)
2血筋が「世界滅亡スイッチ」というのも、この苛烈でつよつよが過ぎる1血筋の愛するものであり、2血筋が死ぬ事で1血筋が爆発して、相方奪った神存在ぶち転がすために手段を選ばなくなるとか結果として理性を失うとかして世界が滅ぶ、という可能性もそこそこ存在する。1血筋は元を辿れば飛鳥了=サタンでもあるし。
竜馬は紛うことなき人類ながら、如何せん核が飛鳥了という神の一族直系に当たり、内在ポテンシャルが尋常ではないらしく、その血筋も神や悪魔と紙一重存在になりがちでもある。
話は戻って。
1と2の間にあるような人物もいる。
2血筋の存在が薄めなのはどうも双方併せ持っていた疑惑がある。
柳生十兵衛死すなんかで2血筋の影が薄いのは、多分「ある意味での同一人物」である現在と過去の十兵衛で1と2を併せ持っていたからじゃないかと。
石川先生はカラーに置いてもかなり意図的な彩色をしてるっぽく、大体三原色を誰にどう割り当ててるかと123血筋のものは一致する。
「魂と肉の間に存在するものが人格である」といった感じでそれぞれ完全に別人ではある(そのためスターシステムに典型的だがキャラクターを役者として舞台に配置するに近いのだろう永井先生と異なり、同一人物が並行世界を跨いで登場しない。その世界にその魂と肉体が揃っているから存在するみたいな)のだが、どうにも「友を愛する」のは1血筋の魂に刻まれた核のようなものであって、なにがどうなろうとこれが無いことがまず無い。
とにかく絶対諦めない。いっそしつこい。
何回世界が変わり別人となろうが、正統派2血筋を見つけたら最後、死亡フラグをバキ折って生かさなきゃ気がすまないのかもしれない。愛が重いというかごんぶとというかなんというか。
逆にお顔同じで中身反対になると偽物と野生の勘で感じて敵愾心でも持つのか、憎悪対象になりがち。2血筋からの認識は割とドライなのがまたアレだが。
総じてそもそもどうしていつも1血筋が主人公って、「愛するもののために戦うから」という、至極単純ながらいかにも主人公たる特徴があるからで、2血筋主人公は「愛される」方向性になるんだけど(アーモンサーガのアーモンはこっち)こっちの筋の話はあんま好みじゃないとか描きづらかったんだろうなみたいなものも感じる。