【サンプル】title of prequel 1
T.P.A.特殊部隊の全員が招集されるミーティングの開始まであと八分。
「っ――!」
真白ノイは廊下を突き進み、仮想射撃場へと急いでいた。
十五分前にはミーティングルームに到着していたノイだが、見渡す限りノイのバディ――理人・ライゼの姿はなかった。五分待ったが理人が現れる気配はなく、ノイは仕方なく理人を迎えに行くことにした。
任務がなければ訓練に明け暮れる理人の居場所を考えることは容易だ。フィジカルトレーニングと射撃訓練を日替わりで行う理人は、今日は間違いなく射撃訓練に明け暮れているはず。
「理人さん!」
『BE QUIET』の貼り紙があるドアを開けるなりノイは叫ぶ。
職員のほとんどがミーティングルームに集まっている今、射撃シュミレータに向かう人影は一人だけ。シミュレーター用モデルガンは反動までリアルに再現しているはずだが、驚異的な身体能力を持つその男は高く結い上げた長髪の一本も揺らすことなく射撃を繰り返している。
彼が響かせる銃声は、装着したヘッドフォンの中でのみ高らかに音を上げていることだろう。
「理人さん⁉」
ツカツカと接近して背後からヘッドフォンを奪うと、持ち上げられた長髪が鼻先で揺れた。
「…………ノイ」
黄砂色の髪をなびかせて、理人はノイの名を呼んだ。
瞳は静けさをたたえてノイを見下ろしている。冷ややかにすら見える美貌を前にノイはごくわずかに息を詰まらせるが、見惚れている場合でないことは誰よりも分かっていた。
「全体ミーティング、あと五分なんですけど⁉」
「そうか、だから誰もいなかったのか」
モデルガンを置いて理人は出口へ向かう。
「あと五分で始まるんですから、急いでくださいって!」
「分かった」
端的な返答の直後、理人は地を蹴る。
黒い隊服に包まれた身体が伸びやかに廊下を疾駆する――通りすがりの清掃スタッフすら注意することを忘れて、駆け抜ける理人を眺めていた。
「ちょっと、待っ……!」
慌ててノイも後を追い、二人はミーティングルームへと転がり込む。
「っ……急に、走んないで……!」
「足が遅くなったんじゃないか。訓練はしているか?」
「してます!」
言い合いながら空席に腰を落とし、ノイは額に浮かんだ汗をぬぐう。
手元の端末には既に今日の資料が登録されていた。ダウンロードを待つ数秒の間に息を整えてからノイが溜息をつくと、早くも資料の確認を始めていた理人の視線が動いた。
「……自分の予定くらい、自分で管理してよ……」
ノイの呟きの直後に始まったミーティングは淡々と進む。
お決まりの訓示を早々に終えて、ミーティングでは来週に入る特殊任務に関する指示事項の伝達に入った。資料データがいつもより容量を食うのはこの任務のせいか、と思いながらノイは資料に目を落とす。
『客船プライドフルブルー号における要人警備』と冠された資料の内容を読み上げるばかりの説明だ。乗船予定の要人が三名おり、テロリズム等の犯行予告があったわけではないが万一に備えて警備に当たる――三交代制であることや一般客に紛れる班とT.P.A.隊員として警備に当たる班に分かれることも含めて、平常の警備任務と変わらないだろう。
二人一組で行動するバディは、よほどのことがない限りは行動を共にする。それは警備任務の時も変わりはなく、だからこそ一般客の扮装をするバディは親子や兄弟、恋人同士に見えやすい二人組が選ばれることが多い。
(ってことは、僕たちは今回も隊員側だね)
理人と並んでも親子や兄弟、まして恋人には見られにくいことは自覚していた。
せっかくの豪華客船なのに、と惜しむ気持ちは強い。有事に備えて気を抜けないとはいえ、一般客のふりをする班の配置であれば表面上は楽しむことができる。隊服を着ての警備は持ち場を離れるわけにもいかないから、楽しそうな演技をして通り過ぎる隊員をいじましく見つめるばかりなのだ。
もっとも、隊服を着ての任務も悪いことばかりではない。通り過ぎざまに民間人に頭を下げられるのは悪い気はしないし、目を輝かせた子どもに手を振られると背筋が伸びる。余裕がある時は手のひとつも振り返すこともあるが、そんなノイの隣で理人はいつも通り冷貌を保っていて、子どもたちはむしろそんな理人に釘付けになっているようだ。
理人ばかりが注目を浴びることに若干の妬ましさはあるものの、誇らしさの方が強い。最強の名をほしいままにする理人への羨望の念は絶えず、その理人が己をバディに選んだのだと思えば心は灼けるようだ。理人と揃いの隊服で、息を揃えて任務に当たるひとときはいつだってノイに無上の喜びを授ける。
「――――次に、配置は――」
(、ヤバ)
気付けばいくつかの話題は耳を素通りしてしまっていたらしい。ノイは慌てて意識を引き戻し、話に合わせて資料を繰る。
隊員の配置の項目を探し当てて目をやると、危機が迫るかどうかも不確定な要人警備の割には割かれる人員が多い。理人とノイの名前もそこにはあったが、一般客に紛れるのか隊員として配置になるのかの記載はなく、他の隊員たちの割り当ても空欄のままだった。
(……どういうこと?)
不自然な空欄は他にもある。警備の対象である要人も三名とだけ書かれ、顔写真はおろか名前も職業すらも明確にはされていない。異常に気付いているのはノイだけではないようで、会議室のそこかしこで不安げな囁きが漏れ聞こえた。
「静かに」
注意に声は静まるが、胸中にわだかまりは残ったままなのだろう。ミーティングが終わった直後に喧騒は膨らんで、隊員たちは互いのバディへ不安を打ち明けているようだった。
「理人さん、どう思います? こんなことあるんですか?」
それはノイも同じ。空欄が目立つ資料を手元に置いてノイが尋ねると、理人の静かな瞳は翳りを帯びた。
「自分も経験はない」
ひそめられた眉には不審の色が見て取れるが、同時に理人は気丈だった。
「だが、普段以上に気を抜かず任務に当たるまでだ。ノイ、自分の部屋に来てください。準備をしましょう」
「分かった」
即応するノイを連れて、理人はざわめきに満ちた会議室を抜け出した。
廊下を通り、理人はT.P.A.特殊部隊員の宿舎へ向かう。ドアに据えられたカードリーダーに割り当てられたカードをかざすと、小さな電子音が響いてドアが開く。ノイに入るよう促して、理人は自室へと踏み込んだ。
「入るよ」
理人の背後から声を掛けたノイは、理人の私室に入るなり床にあぐらをかいた。
ミーティングの後に二人で打ち合わせをすることはこれまでにも何度かあり、理人の部屋に招かれるのも初めてではない。いつ行っても無味乾燥とした理人の部屋にはクッションの一つもなく、整頓されすぎた私室にノイはそわそわと膝を揺らす。そんなノイに飲み物を出す配慮もなく、理人は「最大限の準備をするべきだ」と口を開いた。
「あらゆる戦闘行為に備える必要がある。潜入配置になる可能性も考えるべきだろう」
「じゃあ、潜入準備も必要?」
「そう考えておくべきだろう」
「了解」
返事と同時に資料を開き、ノイは客船内の間取りを確かめる。
潜入の可能性も加味するなら、荷物はT.P.A.隊員としての物と一般客としての物をそれぞれ用意する必要がある。一般客らしい荷物を作るには、一般客の目線で客船を見なくてはならなかった。
「カジノ、プール、シアタールーム、レストラン……げ、ドレスコードがある」
利用するレストランや時間帯によってドレスコードが設けられ、規定を守らなければ利用できない施設もあるらしい。
「めんどくさ……ていうか理人さん、フォーマルって持ってます?」
「――T.P.A.隊員の正装はこの隊服だ。礼服はこれ以外持っていない」
「私服は?」
「訓練着がある」
「……」
沈黙。
ノイがじっと見つめても理人の顔は涼やかなままだ。
数多の戦いをくぐり抜けてきたというのに顔に傷一つなく、長く伸ばした髪には手入れの気配すらないのに流麗だ。
「この見た目のくせに、なんでそんな……」
「ノイ?」
「……何でもない。何でもないです、ほんと」
溜息をついてからそれだけ言って、ノイはしばし目を閉じて思案に耽る。
客船に設けられたドレスコードは三つ。カジュアル、セミフォーマル、フォーマルのうち、フォーマルは間違いなく理人が持っていない服だと分かっていたが、この分ではセミフォーマルどころかカジュアルすら怪しいだろう。
訓練着と言えば格好はつくが、要は動きやすいタンクトップにハーフパンツのことだろう。客船で寛ぐにしてももう少しマシな格好が求められるはずだが、理人にはそんな考えもなさそうだ。
「理人さん、服準備しましょう」
「分かった」
唐突にも聞こえるノイの言葉に理人はうなずく。
「通販で何か用意しよう」
「はぁ? 理人さん自分の服のサイズ知らないでしょ」
「大きい物を買うと大体入るが……」
「ほら、知らないじゃん」
今度の溜息にはどこか満足げな空気が込められていた。
ノイが立ち上がって部屋をぐるりと見回しても、質素な部屋には服もほとんどないようだ。
これならきっと、買いすぎるくらいでも丁度良い。
「今日がオフで良かったですね。出掛けるんで、準備してください」
告げるノイの胸は、早くも弾んでいた。
2
歩き慣れたはずの市街地を進む理人の歩調はどこか慎重だった。
「隊服、目立つんでまずはカジュアル買って着替えちゃいましょう。理人さんに合う服なら――」
どの路地がどこに通じているか、狙撃に向いた窓がどこかは分かっても、ノイが言うところの「カジュアルファッションが売っている店」がどこなのかはさっぱり見当もつかない。ノイの言うままに後を追いながら、理人はノイの白い頭を見下ろした。
次の任務に向けて買い物に出ると決まって、ノイは着替えに一度自宅へ戻ってからもう一度理人の部屋を訪れた。自分も着替えるか、と理人は尋ねたが「どうせ隊服か訓練着でしょ」と言ってノイは否定した。ノイが着ている黄色い私服――カナリアイエローのスウェットパーカーだとノイは主張していたが、理人にはそれが何を示しているのかはよく分からない――はノイによく似合っており、今にも羽ばたきそうに軽やかなノイの足取りを追いかけ進む気分は悪くない。
「ここ、入りましょう」
不意にノイが足を止め、理人は踏み出しかけた一歩を抑える。意気揚々とドアを開けるノイの背後に続いて理人は店に入り、何をするべきかも分からず店内を見回した。
「……服が多いな」
「服屋なんで」
ぞんざいな返事をするノイの関心は理人ではなく並べられた衣服に向けられていた。これは違う、これはアリ、などと呟きながら衣服を選別するノイの瞳は、逃げる敵を長距離狙撃する時と同じくらい真剣だった。
「……」
「――――」
話しかけるタイミングを見計らっている店員の気配すらも忘れるほどの集中力でもって、ノイは目の前の服を想像上の理人に着せ続ける。
恵まれたプロポーションを持つ理人には大抵の服は似合うだろう。潜入配置を命じられた時のためと思えば目立ちにくい服の方が良いかもしれないが、それはそれとして理人の容姿の端麗さが発揮される服装も捨てがたい。
「うん、これも……」
独りごちるノイの手には開襟シャツ。大胆な胸元の開きは派手すぎるか、しかしクルージングを楽しむのんきな観光客に扮するにはこの程度でも良いのか――考えながらノイは、頭の中で理人にこのシャツを着せようと試みる。
薄手のシャツは理人のボディラインを見事なまでに浮き上がらせることだろう。銃撃戦から肉弾戦までこなすしなやかな肉体美の何もかも。しなやかな腕、広い肩、そして逞しい胸板がシャツの襟から覗いて――。
「……!」
空想のカメラから慌てて目を背ける。
「ノイ?」
服を前に動かなくなったかと思ったら大きく首を振り出したノイの元に理人の怪訝そうな声が降ってきた。
「っ何でもない!」
言いながら開襟シャツを戻すノイだが、戻した直後に理人がそのシャツを手に取った。
「この服が気に入ったのか」
「べ、別に? 理人さんには似合うだろうけど、……潜入の時は目立ちすぎるだろうし!」
「そうか」
相槌を打つ理人はその服を手にしたまま、棚に戻そうとはしなかった。
「今日はオフで、任務ではない。今日はこれに着替えるから、ノイはこれに合う服も選んでください」
「……!」
見開いた瞳の赤が、輝きを増す。
「――ちゃんと選びたいから、ちょっと試着室に行ってくれません?」
ノイに言われるままに試着室へ向かった理人がカーテンを閉めた直後、ずっと二人の様子を伺い続けていた店員がそっとノイに近づく。
「お客さま――――」
言いかけたところで、店員はぎょっとして思わず後ずさる。
そのくらい、ノイの顔はにやけて仕方なかった。
試着室のカーテンの向こうから聞こえる衣擦れの音はすぐに止んで、理人は一息にカーテンを開けた。その頃にはノイの表情は作り上げた澄まし顔になっていて、イメージ以上に開いた胸元を見ても「まあまあなんじゃない?」と平静を装った声を出すことに成功していた。
「小物とかも見たいし、他にも一セットくらいは買っておかないとね」
定期的に理人を試着室に送り込みながらノイは店内をくまなく見て回るノイは、理人のコーディネートを決める間にも自分用の服を一揃い買い込んだ。店に備えられた<ruby>紙袋<rt>ショッパー</rt></ruby>の中でも特別大きいものに服を満載に詰めて、ノイは次に行く店を指し示す。
「セミフォーマルとフォーマルは気合入れますよ」
言葉通り、次に行ったブティックでのノイの服選びには気魄すら感じられる。シャツの光沢が、ボタンの大きさが、などと細かなところにまで目を配るノイは三店を周り、結局最初に行った店に戻って理人と自身のセットアップを仕立て上げることに決めた。
セットアップの支度に待たされる間もノイは落ち着かずに店内をうろつき続ける。
何度も試着をし、充分に検討を重ねた買い物ではあってもノイの胸には迷いがある。理人の持つ品格に真にふさわしい衣装を選べたのかは考えるほど悩ましく、店内を歩き回るノイの視界の端で何かが煌めいた。
「あ、タイピン」
ノイの真横、ガラスケースの中には白銀と黄金の輝きが満ちている。等間隔に並べられたネクタイピンの秘めやかな光輝が理人の胸元で瞬けば、それはどれほど美しいだろうか。
「これも買うのか」
「そうですね」
トータルコーディネートは決まっていたから迷う余地はなかった。一応は理人にも伝えておこうとノイはネクタイピンのうち特に強い光を帯びて見える一本を指して「これにしましょう」と言うと、理人は静かにうなずいた。
「これは、ノイにも似合いそうだ」
「買うのは理人さんの分ですよ」
「だが、ノイにも似合う」
繰り返す理人の視線はノイの目より上、先端だけを黒く彩るノイの髪に向けられている。
「ノイの髪のようだ」
ガラスケースに鍵はかかっていなかった。ケースを開けた理人はネクタイピンを二本取り、一本はノイに渡してもう一本は自分の手に収める。
「ノイが買った物は自分が着ける。自分が買った物は、ノイが着けてください」
「……!」
赤くなる耳も緩む頬も、今度は隠せなかった。
店を出る頃には周囲は黄昏に染まっていた。理人とノイ、二人の両手には紙袋が握られて両腕はずしりと重いがノイは文句を言わなかった。
黒を基調とした隊服を脱ぎ、ノイが選んだ服に着替えた理人の横顔に夕陽が差して眩しい。バディとして長く任務を共にしてきたから、意識せずとも歩調は合う。
T.P.A.本部へ向かう道には街路樹がある。街の景色を眺め、夕暮れの気配を全身に浴びながら何をするでもなく歩く時間は心地よく、ノイは用事もないのに「理人さん」と呼びかけた。
「どうした?」
理人の声も、どこか柔らかく聞こえる。
「また今度、こうやって――」
任務ではなく。
一緒に。
伝えようとした唇に声が乗る寸前に、
爆風に横っ面を殴られた。
「ッノイ!」
膨らむ風の中、理人はノイの首根っこを掴んで地面に引き倒す。
「、っが……⁉」
目の粗いアスファルトに激突したあごが摩り下ろされるようだ。ノイの背中に覆いかぶさる理人が全身を強張らせた直後、二人の上を暴風が通り抜けていく。
理人に抑え込まれながらも、ノイは瞳だけで風のある方を見る。
「……――!」
整然としていた街並みの一部は破壊されていた。建物があったらしい場所には瓦礫が重なり、粉々になったショーケースのガラスが街路を照らしている。既に閉店時間を迎えていた店舗のようで人の被害はないようだが、もしも店内に人がいたなら確実に命はなかっただろう。
「急げ、ノイ」
「はい」
先ほどまでの緩んでいた気持ちが消え去る――買い物の紙袋を両手に握りしめたまま、理人とノイは走り出した。
爆発は一度のみだが、外壁が削れるような不快な音はいまだに続いている。建物と建物の間、ネコくらいしか通れないような細い路地は両側面の壁である家々の外壁を破壊することで拡張されていたから、理人とノイが並んで走っても余裕がある。バウンドする紙袋が立てるどこか間抜けな音を気にも留めず、理人とノイは破壊の痕跡を精査する。
「獣か?」
「人ではないですね」
弾痕はなく、手――または前足でえぐり取ったような痕ばかりが目に着く。ヒトの身では有り得ない膂力を持つ生体兵器か何かによる攻撃だと想像しながらも、不審な点はまだある。
「声、します?」
「しないな」
生物が発するような咆哮は、どこからも聞こえてこない。
痕跡を残すことそのものは気にしていないのか、外壁には手形がくっきりと描かれている場所もある。ヒト同様に指は五本、足を動かしながらノイは自分の手を見下ろしてから手形を見返すが、手形の大きさはノイとほとんど同じに見える。
(てことは、体長も同じくらい?)
考えるが、ノイにはどうもしっくりこない。
ヒトと似た手の形と体長を持つ生物に、これほどまでの破壊が出来るとは思えなかった。
「ノイ、見付けた」
潜めた声と共に理人が足を止める。道は曲がり角に差し掛かっており、揃って角から顔を出すと、曲がり道の先には何者かの姿があった。
暗がりの中で浮かぶソレのシルエットはどう見てもヒトそのもの。手を伸ばしたソレが外壁を軽く撫でると、それだけで壁面は脆く崩れ去る。
正体は分からず、おまけに理人もノイも銃すら持っていない。
だとしても、敵を前にやるべきことは一つだけだ。
「――今だ!」
叫びと共に飛び出した理人とノイは、手の中の紙袋を全力で投げつける。
見事な弧を描く紙袋から、買ったばかりのシャツが飛び出る――重みを失った紙袋がへろへろと軌道を変えた。ソレが紙袋を見上げる間に二人は疾駆し、何者かに肉薄する。
建物の外壁が崩されたことで、夕陽を遮るものはなくなっていた。
赤々とした光に照らし出されたソレが、理人とノイを視認する。
「ッ――――⁉」
取り押さえようと伸ばしたノイの手が瞬時に引っ込んだ。
「、⁉」
理人は地面を蹴ってソレから距離を置く。表情は戸惑いの色が強く、尋ねる声は理人にしては珍しく不安げだった。
「ノイ……?」
問いかけながらも、違うことは分かっていた。
ノイは、理人のバディは隣にいる。理人をミーティングに連れ出し、買い物の間中くるくると表情を変え続けるノイを理人が見間違えるわけはない。
なのに。
どうして、こんなにも顔が同じなのか。
「違う」
その者の告げる声もノイとよく似ていても、ノイの声に灯る温度は感じられない。
「ノクスはノイではない」
その者――ノクスと名乗った無機質な存在の赤い瞳は、静まったまま動かない。
「ノクスは最強の騎士」
一歩踏み出したノクスの顔に、再び影が差す。
「ここ、光があって、痛い。……でも、ノクスは負けない」
武装はなく、白と黒、そして金属で構成された服装は機能的ではない。
しかし、纏う異様な空気にノイの心臓は引きつりそうだ。
「趣味悪、こんなの――」
内心の畏れを押し殺し、ノイは一歩進み出る。
距離を詰めてもノクスの気配は伝わらず、透明でむき出しの殺意が怪我をした顔面に痛い。
もう一歩進んだ瞬間、ノクスの背後から発射された弾丸がノイの足元に撃ち込まれた。
「!」
棒立ちのノクスが放ったものではない。身構える理人がノクスの背後へ意識を向けると、そこには人影があった。
「増援か」
呟く理人の足元にも着弾。爪先すれすれの銃弾は牽制のためと見えるから、戦力のメインはこのノクスを名乗る者なのだろう。
「ノイ、ノクスを頼みます。私は向こうの狙撃手を」
「――すぐ戻ってきてよ」
うなずく理人が、走り出す。
ノクスが壁を破壊したお陰で、ノクスの腕のリーチを避けながら駆け抜けることは可能。それでもノクスが理人に攻撃の矛先を向ける可能性はあったが、ノクスは理人には興味を向けなかった。
「あいつは、後で殺せばいい」
「――、は」
漏れたのは失笑だった。
「『最強』の理人さんが、負けるわけないじゃん」
「――」
透徹な瞳に、明確な害意が宿る。
互いの腕が届く距離、ノイとノクスは同時に互いの胸ぐらを掴む。
引き寄せて頭突きを食らわせようとするノイに対して、ノクスはノイを持ち上げる。腕力の差は明らかで、ノイは軽々と持ち上げられたかと思うと瓦礫の山へと叩きつけられた。
「ぃ、…………ッ!」
「最強の騎士は、ノクスだ」
派手に上がる土煙を背中に感じながら、理人は険しい視線で目の前の男に目を向ける。
男は宗教家の着る服によく似た装束に身を包んでいたが、描かれる文様はこの世界に存在するどの宗教のものとも異なっている。
「良いのかァ?」
ひきつったような笑い顔だ、と理人は感じた。
「……あなたも、暁さんではない」
「あァ。俺はただ、神様のために生きるだけさ」
「…………」
ノクスとノイの力量差は分かっている。一刻も早くこの男を無力化し、ノイの助力に向かわなければ命すら危うい。
それでも、暁ナハトと同じ容姿のこの男を攻撃することへの逡巡が、理人の胸を焦がしていた。
「妖精には及ばないにしても、悪くなさそうな魂だなァ」
男の笑顔に本能が警告を告げる。
銃口が理人の頭に向けられる。
会話は、既に必要ではなかった。
「っ――」
手刀が男の手首を叩けば、銃はあっけなく地面に落ちる。男は懐を探って予備の銃を出そうとしたが理人は胸元を蹴り上げて動きを封じ、背後を取って男の腕を締め上げ、銃を後頭部へ向ける。
元より戦いには向いていない男なのか、男はそれ以上の抵抗は見せなかった。
ノイの悲鳴が遠くで聞こえた。ケリをつけなければいけないと己に言い聞かせて、理人は銃を持つ自身の手を見やる。
――この手に、ノイが手を重ねてくれた時を思って。
「言い残すことはないか」
「神様が復活すれば、俺もその時に救われるさ」
声は否定か、それとも拒絶か。
最期の言葉を聞き届けて、理人は引鉄を引いた。
3
ノクスに叩きつけられて、ノイの身体は半ば瓦礫に埋もれていた。
埃っぽい空気にむせながらノイは周囲を探り、手頃な瓦礫を掴んで投げつけた。空中で瓦礫を捕まえたノクスが投げ返すとノイの肩に激突し、骨の軋みに呻きが漏れる。
「、痛い」
呟いたのはノクスだ。
夕陽の輝きはノクスを蝕んでいるのか、ノクスの動作は緩慢だ。それでも桁違いな膂力に違いはなく、この状況から逆転するための方策がノイには見つからない。
靴が地面を叩く音がする。ノクスの立てた音ではない、と気付いてノイが視線を動かすと、そこには砂のような色の長髪を編んだ男の姿があった。
(理人さん、……じゃない、誰…………?)
ノクスがノイとそっくりな姿を持つように、その男は理人によく似た顔をしている。
「大丈夫。完成されたホムンクルスになれば、弱点すら克服できる」
「ノクス、最強の騎士になるか?」
「勿論」
理人が浮かべるわけもない邪悪な笑みを浮かべた男がうなずいて、緩慢にノイを見やる。
「この魂を与えてみるのも良いかもしれない。――ノクス?」
「うん」
こくりとうなずいて、ノクスはノイの首に手をかけた。
「ノクスは、最強の騎士だから、できる」
うわ言のように言うノクスの腕は、ノイの首を掴んだまま高く掲げられる。
「っ……!」
持ち上げられて喉が締まる。ノイの身体が日除けになっているせいか、首を締める力は徐々に強められている。このままでは、酸素を絶たれた脳が死ぬより早く頚椎が折れるだろう。
どう死ぬかは分からない。
しかし、死ぬことそのものは覆せない。
(……理人、さん……)
かすむ視界は理人を求めていた。遠くで銃火が爆ぜたが、決した勝敗の行方はここからは見えない。
(理人さんが、勝ったなら、いいんだけど――――)
首の骨が音を立てた。
差し迫った命の終わりにノイが目を閉じた瞬間、ノイの身体はノクスから開放された。
「っげぇ……ッ!」
突然取り戻された呼吸機能にえづきながら再び瓦礫に落下するノイ。
「なに……⁉」
身体にうまく力は入らないが、それでも動かなければいけない。瓦礫を踏みしめたノイが立ち上がりノクスを見やると、
「あ…………ッ、ぅう……!」
「ノクス、ああ、私の研究の成果が……!」
ノクスと男の身体は、崩壊を始めていた。
黒く滲んだかと思えば欠落する肉体。伴う痛みはどれほどのものか、感情が希薄だったノクスのおもては苦痛に歪み、そうするうちにも頬に描かれた紋様ごと顔面の肉が剥がれ落ちる。見ればノイを絞め殺そうとしていた両腕は衣服ごと消え失せ、既に二の腕半ばまでが欠損していた。
「あ、…………! あるじ……!」
「なぜ、こんなことに……! アルフレッドは何をしている……⁉」
ノクスの声も聞かずに男は髪を振り乱す。そうする間にも、二人の肉体は失われていく。
「ノクスは……最強、なのに――あるじ…………‼」
「私の、錬金術――は――――‼」
叫びを残して、ノクスと男の姿は完全に消滅した。
「今の、何……?」
死んだのだ、と直感で理解できる。
嘘のように静まり返った周囲は、さも始めから誰もいなかったかのよう。とはいえ破壊された周囲の光景は変わらず、ノクスに痛めつけられてあちこちが痛んだ。
「――――ノイ」
「理人さん!」
瓦礫の中に身を埋めたままのノイの顔を理人が覗き込む。屈んだ拍子に首筋を滑り落ちるロングヘアには汚れがつき、服もところどころが破れていたが、目に見える怪我はないようだ。
「立てるか」
尋ねながら理人が手を差し出す。
手を伸ばしかけてから、ノイは自身の手のひらが薄汚れていることに気付く。何度もノクスの攻撃を受け、地面に転がったせいで土埃まみれの手で理人の手を掴むことはためらわれたが、理人がノイの手を掴んで引っ張り上げた。
「怪我をしているな」
「あいつ、強すぎです。なんでか急に消えた……死んだみたいですけど、そっちはどうでしたか?」
ノイの問いかけに理人は目を伏せる。逡巡を滲ませた理人だが、言葉少なにハンドガンを持った宗教家のような男がいたことを語り始めた。
「――暁さんのような顔をしていたが、彼は一体何者だったんだ?」
「知りませんけど、こっちも僕と理人さんみたいな顔の人がいたんで、何か繋がりがあったんでしょうね」
他人の空似で片付けるには似すぎていた。理人、ノイ、そして暁ナハトに似た顔の面々だったことにも何かの作為が感じられるが、考える手がかりは少なすぎる。
「……この件も含め、本部に報告するべきだ」
「ですね。――また犯罪者扱いで追われなきゃ良いですけど」
軽口を叩けるくらいには体力が戻ってきていた。締め上げられた首を中心にあちこちが痛み、服もボロボロになっている。それは理人も同じで、買ったばかりの服なのに既にすっかり汚れてしまっている。
「紙袋は?」
ノクスを認めた瞬間に投げつけたのは覚えているが、その後は紙袋の行方を気にしている余裕はなかった。
見回していると、路地の片隅に薄汚れた紙袋が見付かった。買ったセットアップは紙袋の中でも更にビニール袋に包まれていたはずなのに、ビニール袋は破れた上に土埃に混ざった小石が入り込んで繊細な生地の表面には傷が付いている。強く踏みつけられたのか布に皺も寄っていて、裾の端にはほつれも見えた。
「壊れてしまったな」
理人の手の中には二人のネクタイピンがある。どちらも折れ曲がっていて使い物にはなりそうにもない。ショーケースの中では感じられた煌めきも、陽が落ちた今ではくすんで見える。
「……。…………捨てて帰りましょう」
汚れて皺だらけの服をわざと乱暴に掴んで、何でもないことのようにノイは言う。行きますよ、と一方的な声を投げかけて歩き出そうとしたノイの背後で、ガラスが割れる小さな音が響いた。
「――!」
足音を連想して、身構えながら振り向くノイ。
「――」
勢い良く振り向いたノイに、二人の背後に立っていた小さな影は首を傾けた。静かな立ち姿は三人分。彼らの顔を見ようとノイは視線を下げて、
「――――――――」
今度こそ絶句した。
「まさか、なぜ――」
理人もその者の姿に言葉を喪う。
三人とも、背丈は小さいから理人とノイが見下ろす格好だ。三人のうち二人は身長が同じくらいに見えるが、年齢は離れているように感じられる。あどけなさの残る丸い瞳で無垢に見上げる一人と、幼いながらに不安を滲ませる一人。
その二人から一歩引いた位置で、比較的背の高い少年は理人とノイを見つめている。
涼しげな切れ長の瞳。
神秘を宿す、薄い色の髪。
若い、あるいは幼いその姿は知らないはずなのに、理人もノイも、忘れられない一人の男を思い出していた。
「――暁さん――?」
絞り出した理人の呼びかけに、少年は応じなかった。
「違うでしょ、これ……」
否定を口にするノイの声も震えている。
ノクスは――先ほどまで戦っていた彼らは、明らかに異質な空気を持っていた。同一とも感じられるほどに容姿が同じことも彼らの不気味さを際立たせていたから、戦うことにさほどの抵抗もなかった。
でも、彼らは、違う。
立ち尽くしたまま不思議そうにこちらを見上げる彼らは、無垢そのものだ。
見た目通りに、子どものような顔をしている。
「僕……じゃないし、理人さんじゃないし、……暁ナハトでもない……」
急速に現実感が奪われていく。目の前にいるのが何なのか少しも理解できずにいるノイの隣で、理人は少年へと尋ねる。
「名前は」
「……葛之葉雨彦」
「……暁さんではないのか……?」
「あかつきさん?」
理人の言葉を復唱したのは、小さい二人の中でも特に幼い方だった。明るい色の髪は理人の長髪と色合いが微かに異なるが、成長の過程で自身の髪の色が少しずつ変わっていったことは理人自身が知っている。
「何でもない。……君は」
「ころん、クリスです!」
「そっちの君は」
「北村想楽ですー」
もう一人の小柄な少年は、ノイと同じ白髪に黒が交ざる髪型をしているからとみにノイと似て見える。だからこそノイは苛立ちを覚えて、「何⁉」と声を張り上げる。
「何なの⁉ 親はどこ行ったの、何してんの⁉」
「はぐれました!」
「……別の場所にいます」
「…………」
健やかな返答をする古論クリス、呟くように答えた葛之葉雨彦、薄い警戒を滲ませて沈黙を保つ北村想楽。
「…………」
深い深い溜息をついて、ノイはガクリと肩を落とす。
「…………どうします、これ」
「子どもを放ってはおけない。保護者の問題もあるが、まずはT.P.A.で保護をする」
「ですよね、了解」
子どもたちの容姿の異常にうろたえていても、理人の判断は正しかった。行くよ、と声をかけると子どもたちは素直に理人とノイの後ろをついて歩き出す。彼ら自身も特別親しいわけではないようで、T.P.A.本部に着くまで誰も口を開かなかった。
T.P.A.本部に三人を引き渡し、報告書の作成は理人が担った。理人が作る報告書の確認はノイも求められるからうかつに動き回るわけにもいかないものの、やるべきことは見当たらないからノイは本部をうろつくことにした。
フォーマルな衣装をはじめとした嗜好品などは別として、下着類や筆記用具などの生活必需品はT.P.A.本部内の購買でも調達はできる。購買へ足を向けるノイの脳裏には、買ったばかりの衣服が打ち捨てられた景色ばかりがあった。
理人に合う服を選んで買い込んだ時間の楽しさを覚えているから、ノクスをはじめとした謎の存在によって急転した今日一日に納得がいかない。服もネクタイピンの一本すらも壊されて、理人との思い出を残す物は何一つとしてノイの手元には残っていなかった。
今日の営業を終えようとしている購買で売れ残りのスナック菓子を手に取って、気が収まらずに棚を眺める。平凡な品々の中にひとつだけ奇妙な紙片を見付けて、ノイはそれを手に取った。
「これ、何?」
購買職員に尋ねるが、分からない、とだけ言うと職員は肩をすくめる。
四角形の紙は一枚だけで、メモやノートの類よりはステッカーに近いようだ。何か規則性のありそうな模様が描かれてはいるがノイにはそれの意味するところはまったく分からない。薄い紙なのか手に取ると柔らかく曲がるが、僅かに手に引っかかるところのある紙質は妙に心地よかった。
「……」
インテリアとしても使いみちはない、と思ってから、何も残らなかった今日を象徴するようだと感じた。
「これ、買います」
精算を終えてノイは理人の様子を見に行くことに決めた。
本部の奥にある執務室を覗き込むと、デスクに腰掛けた理人はじっと考え込んだまま動きを止めている。目の前のモニターには文字列が連なっているから、報告書はあらかた完成はしているようだ。
「理人さん?」
モニターから目を離そうとしない理人の視線を遮るようにスナック菓子の袋を置く。
「……ノイ」
一拍遅れて理人が顔を上げた。理人の顔に滲む困惑を打ち破るようにスナック菓子の袋を破ってノイは菓子をつまみ、食べて、と言うように顎で袋を示した。
「報告書、終わりました?」
「終わったが――困ったことになっている」
「ん?」
ばりばりと音を立てながら菓子を噛んで首を傾げる。何が、と訊こうとした時、ノイはモニターに映し出されたものが書きかけの報告書ではなく今日のミーティングで渡された資料であることに気付いた。
「上からの連絡事項があり、資料が更新された」
「あー、要人警備の」
今日の異常事態を経て、もはや要人警備の仕事に向けた緊張感は抜けている。
更新されたと言われてモニターを覗き込む。要人警備の任務であると書かれた概要の下、ミーティングの際は空欄だった要人三名の名前が書き込まれていた。
【要人名簿】
・葛之葉雨彦
・古論クリス
・北村想楽
「これ――」
見開いた赤眸に映る文字が信じがたく、ノイの唇がわななく。
「ああ」
理人も同じ気持ちなのか、眉間には深い皺が刻まれていた。
「自分達が保護したあの子どもたちが、守るべき要人だ」