吸血鬼として再会してから、クラージィとノースディンの仲は、少しずつ深まっていった。
愛情と信頼で繋がっている。少なくとも今のクラージィはそのつもりでいる。
その抱えた感情は、主にノースディンからの行為をクラージィが受け入れる形で現れる段階に入っている。ノースディンの家で、慣らすようにベッドに座る。次第に体に触れられるようになり、服がはだけるようになり、それが脱がされるに至って、クラージィはノースディンに求めた。
「お前も脱いでほしい」
ノースディンは即答しなかった、
脱げない理由があるのかと、不用意な発言を悔いたのだが、間を置いてから出てきた返事は、「わかった」とあっさりしたものだった。
クラージィが自分の残った袖を抜く間に、ノースディンの前開きのシャツが開く。さっさと脱ぎ終わって現れた、初めて見るノースディンの体。クラージィの目は釘付けになった。正確にはその左胸に。
筋肉でほどよく張ったなめらかな胸に、黒ずんだ痣がある。大きさは五センチくらいか。中央に行くほど暗い。ただ、中心の一センチほどは、色を失い灰色がかっている。
——まさか
はっとしてノースディンの顔を見ると、クラージィの反応に、淡く苦笑している。そのままクラージィが固まっていると、手が伸びてきて頬を撫でられた。
「そんな顔するな」
関係ないとは言わない。つまりそうなのだ。
これはクラージィのつけた傷だ。
悪魔祓いの黒杭の傷だ。
「お前が刺したのではないだろう。忘れたのか」
クラージィは覚えている。か弱き子を助けるために、己の命を差し出そうとする吸血鬼の姿を。
再び、痣を見た。ゆっくりと、胸に触れてみた。吸い付くような肌の中で、忌まわしさを表すような色の部分だけは、少しかさついて中央は固い。
頭の中が痣と同じ色で塗りつぶされそうな感覚に襲われる。目を離せないまま、呼吸がおかしくなりそうだった。
固まってしまった手を、ノースディンに捕まれ引きはがされる。
「いずれ見せることにはなるのはわかっていたが…まったく」
こっちを見ろと言われて、のろのろと目を合わせる。
「いいか、これは、治せる傷だ」
クラージィはノースディンを見たまま瞬きをした。
「お前のように食が偏ると大変だが、この程度は血を飲めば治る。浴びても治る」
それは、一般的な話としては理解できる。血を飲まないクラージィはともかく、吸血鬼なら、たいていのことは血液を摂取することで治るのだ。
しかし、今までにノースディンはさんざん血を飲み、きっと浴びてもいるはず。そして、痣は今まだここにある。
クラージィは重い声で訊ねた。
「それでも治らないのだろう…?」
血の摂取をもってしても残っている。それほどの傷なのだと思った。だがあっさりとはねのけるようにノースディンが応える。
「治してないだけだ」
「?」
「…変身の応用というか、ここだけこの姿をキープするようにしているんだ。全身を変身をした場合も、戻るときに再現している。つまり傷そのものは治っているも同然だ」
言われた内容をもじゃもじゃ頭の中で繰り返す。混乱は解けなかった。
「なぜ…」
「お前という男が来たことを、残しておくために」
混乱のクラージィの脳裏に、初めて出会った日の記憶が再び展開する。
彼らは祓うべき対象だと思っていた。そして彼らを祓う存在として、彼の大事な幼子と出会った。
彼は、立派な保護者だった。
悪魔祓いに隙を作ってしまったことを、自分の命をもって補おうとした。
「戒め、なのか」
恐ろしい喪失を招きかけた、それを忘れないための、しるし。
彼らの存在を消しかけた過去を思い出して、クラージィは項垂れてつぶやいた。
しばらく無言が続いたが、握られたままの手がさらにぎゅっと握られる。項垂れた頭上で、ノースディンが何か迷うようにあちこちに向いているのを感じ、クラージィは顔をあげた。躊躇うように、言葉が落とされる。
「……それは最初の言い訳だ」
「言い訳?」
「一族の大事な存在を危機にさらした、その反省の証とした……という口実だ」
クラージィにはまだわからない。戸惑った瞳を見据えたノースディンは、もう迷いでふらつくことはなかった。
「あの夜、お前を喪ったと思って、その後この痣を見て、なぜこれを残したか自覚した。そしたら、もう消せなくなった」
握られた手を痣に押し付けられて、びくっとした。
直に触れる強張った感触が、クラージィの心も同じように強張らせる。
「人知れずお前を弔って、誰にもお前のことを打ち明けなかった。自分の失敗が呪わしかった。お前を喪ったことは忘れられるはずもないが、逃げたい時はしばしばあった」
ノースディンが項垂れる。顔が近づく。
「だが…お前と出会えたことは、私の大事な思い出だ」
「ノースディン…」
クラージィが眠りについている間も、ノースディンはクラージィを忘れることなく過ごしていた。すぐ目に付くところに痕を残し、この後もいつまで続くかわからない時間を、つらい記憶と共に生きていくつもりだったのだ。
手のひらに感じる傷の古さ。それはそのままノースディンが苦しんだ年月の長さだ。
「わ、私が、」
杭を突き刺したからと言いかけて迷った。ノースディンに傷を残したのはクラージィの杭だが、ノースディンは、クラージィと出会ったことを大事にしてくれている。そして、クラージィが悪魔祓いでなければなかった出会いだ。
「私が、ずっと、眠ってしまったから、」
クラージィがすぐに目覚めることができなかったから、長い間ノースディンを苦しめてしまった。今はこうして再会できていても、過ごした苦しみが消えることはないに違いない。
「いや、あの夜の私が力不足で、」
互いに自分の責として言い合い、顔をあげて目が合った。
クラージィは自分がどんな表情をしていたのかわからない。よみがえってから感情が動きやすくなり、顔にも出やすくなった自覚はある。
ノースディンは一旦言葉を切ってから、唐突に告げた。
「治す」
手を放し、ベッドからおり、ドアに向かう
「すぐだから、待ってろ」
それだけ言い残して、あっという間に寝室を出ていった。階段を下りる足音は聞こえなかった。飛び降りたのかもしれない。
いきなり放置されて、クラージィは戸惑った。上は裸だ。着直した方がいいのだろうか。待ってろとはこのままでということだろうか。すぐとはどれくらいなのか。
結局迷って着直さずにもじもじしていると、ノースディンが戻った。
バスローブ姿だ。髪が濡れている。勢いよくベッドに乗り上げると、バスローブの胸元を開いた。
痣がない。
「え…」
クラージィは思わず手を伸ばして触れた。ぺたり。しめった肌はなめらかで、どこにも痕跡がない。
「言っただろう、治るって。もう会えないと思ったから残していたんだ。こうして会えてあんな顔されるなら残しておく理由はない」
早口で説明する宥めるような表情を見上げ、クラージィは口を開く。
「…それでもお前が苦しんだ時間が無くなるわけではない。これからも、…っ?」
頭を掴まれ、子どものように髪をぐしゃぐしゃされる。
「過去の時間は変えようもない。いいんだ。それにこれからは」
しっかりと両手で頭を抱え直された。覗き込むように、正面から視線が深く突き刺さる。
「いいか、ずっとあった痣が消えたんだ。ずっと見ていた、自分の一部だ。正直、喪失感はある。だがお前がいるから大丈夫なんだ」
クラージィは目を見開いた。ついさっきまでクラージィを落ち着かせようとしていた気配はどこにもなく、まるで怒っているかのようにも見える。
「また眠ったとしてもかまわない。今度は置いていくことはない。ただ、ずっと生きていてくれ。これをなくした上でお前を喪ったら、私はもたない」
必死で、脅すようなことまで言ってくる。
「…ずっとか」
クラージィはポツリと答えた。それを叶えることができる、永遠に近い時間を目の前の男に与えられた。
「…私を迎えてくれてありがとう」
ノースディンの牙により、こうして互いに知り合える時間を持てた。慈しむこともできる。
感謝を述べると、かかえられた頭を引き寄せられた。口付けの予感に目を閉じる。
触れる気配の直前で止まった
「…マウスウォッシュは使ったが、さっき血を飲んだばかりで…」
クラージィは目を開ける。すぐ目の前にしょげたような顔がある。クラージィは血液を口にしない。
ふんとその場の空気を嗅いでみた。いつもより濃いかもしれない、使ったばかりのマウスウォッシュと石鹸の匂い。クラージィのためのもの。
クラージィから口付けてみると、驚いた気配が伝わった。ノースディンの唇が開くまで、数回ついばんでから離れる。
「だいじょうぶだ」
微笑んでみせると、ノースディンの表情が和らいだ。クラージィも相手の頭を抱えて、互いに近づき唇を重ねる。
そのまま傷のない胸を合わせ、息が弾むまで長い口付けを交わした。