時刻は日付を越える頃。
しかし、この町はまだ眠っていない。吸血鬼も、ダンピールも、人間も。
日常としてこの時間に原稿に勤しんでいた神在月の、今夜のお供はドラドラチャンネルの配信だった。
原稿をしながらなので、画面は見れていない。今夜はクソゲーではない打ちまくれるタイプのTPSらしいが、合間に入るストーリー設定がやたら凝っていて、続きが気になる。 軽妙なトークに悲鳴と高笑いが加わるプレイ実況は、筆がよく乗った。戦闘中もコメントも拾っているのには、毎度舌を巻く。
敵に囲まれて手数勝負になってるようで、バリバリとした銃撃のSEにかぶせて、「ちょっ、あ、くそっ、うっとうしい、はぁ~~~?」と賑やかに声が続く。
それが不意に途切れたかと思うと
「——ちょっと失礼」
ゲーム音が止まった。
神在月は顔を上げてスマホを見た。
配信は、ゲームのポーズ画面を映している。どんなタイミングだったのか、この画面ではわからないが、実況の声からするとキリも何も関係なく、唐突の中断だった。
チャット欄を開いてみると、戸惑い、心配、不満、揶揄が入り交じっている。
一つのコメントが神在月の目に止まる。
『さっき、サイレンうるさかった』
ゲーム内の話ではない。流れを見ていると、シンヨコハマのリスナーのようだった。リアルについての報告だ。聞こえた、と数人が続く。
神在月は自分の記憶を思い返してみた。鳴っていたかもしれない。ただ珍しいことではないので、確信はなかった。別の日の記憶かもしれない。それほど日常、のはずだ。
『ひょっとして、ロナルドがヤバい?』
誰かの書き込みで場がざわついた。
眺めるチャット欄が興味と心配に偏っていく。そこへ―—
「諸君、」
声が戻った。
「すまないが、今夜はここまでだ。悪いね、じゃ、また」
声の調子は変わらず陽気だった。しかし挨拶と同時にエンディング画像に切り替わり、間を置かずに配信は終了となった。もうチャットも書き込めない。
神在月はアプリを閉じて、なんとなく耳を澄ませた。もちろん今は外から何も聞こえてこない。
シンヨコの吸血鬼出没情報ページを開いてみた。外出注意と退避エリア情報は出ていた。何か捕り物はあったようだ。ただ、既に退避指示は解除されている。
よくあること。この町の日常。そのはずだ。
胸のざわつきを認めながら、神在月はペンを手に取って原稿に向かった。
静かなのはどうも落ち着かない。
作業が進まなくなった。椅子から離れるのだけは、どうにか我慢する。神在月は、集中するためという言い訳をしながら、いくつもの動画をぼんやりウロウロとする。
手にしていたスマホにRINEの通知が入ってビクッとした。
『今からいってもいいか?』
三木からのメッセージだった。
お互い、夜にも活動が食い込む生活だ。この時間のやり取りはよくあるが、さすがに訪問とは珍しい。しかし断る理由もない。オッケースタンプを返して、告げられた時間が過ぎた頃、到着したと再びメッセージが入った。
それを既読にしながら、神在月は玄関を開ける。三木が神在月の表情を窺うように立っていた。
「悪い」
「いいよ、あがって」
三木の格好は、なにか妙だった。スウェットの上下だ。片手に紙袋を提げている。この町で服装がかわることなど珍しくもないが、気にかかった。
廊下を進みながら、三木が話しかけてくる。
「一仕事したんだけど、ちょっと休ませてもらいたくて」
ますますおかしい。
部屋に入って、神在月は三木に向き直った。三木はすまなそうに、ゆるく笑った。
数秒、その顔を見つめてから神在月は口を開く。
「ミッキー、服脱いで」
「…シンジくんのえっち」
三木の笑顔は消えなかったが、一瞬引き攣ったようだった。突然のセクハラのせいではない。
胸のざわつきが、神在月の目の前で形になっている。
「誤魔化せると思ってないよね。説明してよ」
三木の張りついたような笑顔は消えない。神在月は続けた。
「…さっきドラチャンの配信で、ロナルド先生がヤバそうな雰囲気あった」
三木の笑顔が消えて、眉間にしわが刻まれ口元が歪んだ。目が逸らされる。苦しそうな声が打ち明ける。
「下等吸血鬼。フォローしていたはずが、かばわれた。あっちの方が大変だと思う」
そこで、ため息、かと思ったが、大きめの呼吸が続く。ずっと平静を装っていただけのようだ。
「ミッ…」
思わず慌てた声が出た。三木は片手を上げて神在月を制止する。
「病院行って、治療は受けた。麻酔効いてるうちに休んでおきたくて、こっちの方が近いから」
三木はちらりと神在月を窺って、厳しい表情にすぐ目を逸らした。観念したようだが、まだ何かあるようだ。
「…ミッキー?」
「…まだ血の気配が強いから、今帰るとお隣さんにバレる…」
神在月は反射的に口を開きかけて、何も言わずにすぐ閉じた。
三木の住むマンションで、三木を含む並びの部屋三軒の住人たち。一人は吸血鬼だ。三木の仕事のシフトが合いさえすれば、ほぼ毎日のように夕食は一緒に食べると聞いている。それほど近い仲。三木の怪我に気付けば当然心配するだろう。
神在月の反応に三木は体を縮めたかと思うと、顔を歪めた。どれほどの怪我なのか、少しの動きでも痛むようだ。
「…わかった。少し寝ていきな」
神在月の了承に、三木は安堵したようだった。
「助かる」
顔を洗ってくる、と三木が廊下に出た間に、神在月はベッドを整えようとしたが、整えるほどのものはない。せめてものごまかしで、ぐしゃぐしゃのままの上掛けを畳み直し、枕を中心に消臭剤をふりまく。
すぐに戻ってきた三木は、その様子を見て「あ、悪い」と声をかけてきた。
「その…背中やられてて、胸の辺りもちょっとやられてるから、横になるより座ってた方が楽なんだ。床でいいから」
「…そうか。でも尻が疲れるから、ベッドで座りなよ。そうだ、これ」
枕を取って縦向きに渡す。
「壁に宛がうか、前に抱えとけば、傷にさわらずに体を預けられるかも」
「…ああ」
意外にも三木は大人しくベッドに乗った。隅に寄って、腕側で壁に体をもたせかけ、枕を立てて抱え込む。そこで軽く笑ったように見えた。
「…くさいのはごめん」
「いや、そういうんじゃなくて」
笑ったのは見間違いではなかった。三木は否定しながら一度顔を枕に埋めたので、嫌なわけではなさそうだ。
神在月は、置かれたままの紙袋に目をやった。
「この荷物って、服? 背中と胸ってことは、服はもうダメだった?」
「下は一応無事。汚れたから着替えてつっこんだ」
「浸け置きしておくよ。多少はマシだろ」
「…悪い」
小さい声で提案を受け入れたのは、疲労がピークに来ているからかもしれない。
紙袋から、ビニール袋に入った服を取り出すと、言ったとおりにズボンのようで、ごわついた感触だ。
それを手に洗濯機に向かおうとすると、三木が声をかけてきた。
「今夜は何もなく、シンジくんの原稿アシに入ってたってことにしていい?」
神在月は静かに振り向いた。
「それはだめ、ミッキーのお隣さんたちの信用なくしたら、何かの時に俺が困る」
声音は抑えて、しかしはっきりと言い切ると、三木は俯いてもぞついていた。それ以上はねだる気力はないようだった。
洗面台の前でビニール袋からズボンを取り出す。暗い色の生地に、黒ずんだ染みが、大きく、あちこちについていた。思わず顔を顰めてしまう。
これを神在月に明かして任せるとは、今までの三木からは考えられないことだ。
隣人たちに隠すために来たことは歓迎できないが、今夜のところはあの状態では追い返せない。ひとまず神在月の家に来てくれたことを良しとする。
ポケットを確認してから、栓をした洗面のシンクに入れて水を出す。染みから赤いものが溶け出した。鉄臭さが漂う。
素手で血に触るのはよくないんだっけと思い出したが、ゴム手袋なんてこの家にない。
溜まっていく水の中でズボンを押し込むと、水がうっすらとした赤に染まっていく。
ざぶざぶと押し込んでは、水を入れ替える。何度か繰り返しても落ちきったとは言えないが、神在月は傍らの洗濯機を開けた。
水びたしのズボンは一応絞ってみたものの、厚みのある生地は掴むこともままならなかった。ビタビタのまま洗濯機に移動させた。
水を溜めて洗剤と漂白剤を入れてから数回回し、電源を切る。シンクやこぼした分を掃除して手を洗うと疲れ切ってしまった。ズボン一着洗うのに重労働だ。
部屋に戻ると、ベッドの隅の三木は反応がなかった。
どうやら眠ったらしい。神在月は思いついて、水をくんでくるとベッドに寄せたテーブルの上に置いておく。それから、音を立てないように席に戻った
朧な記憶の中で聞いたきり、今夜はサイレンは鳴っていない。静かな夜だ。後ろに怪我人がいるとは、思えないほど。
神在月はペンを取った。
手洗いでくたびれた事など、忘れたように、黙々と原稿に向かった。
まとめておきたいところまでペンを入れ終わり、神在月は顔を上げて首を回した。伸びをすると肩が鳴った。傍らに置いてあったドリンクを飲む。いくぶん気分がすっきりしている。
自分は元々怒っていたのかもしれない、と気が付いた。外にまき散らしたくないそれを、うまく集中力に転換できたらしい。
ベッドを振り返ると、三木は前に見た位置から動かず、枕を抱えて俯いたままだった。
神在月は立ち上がって、もういちどのびをする。膝までパキパキいった。満足の息を一つ吐くと、クロッキー帳を取り出して、ベッドに乗り上げる。三木とは反対側の端に寄り、片脚を立てて座った。
鉛筆で、三木の寝姿を描き留めてゆく。
視線を三木とクロッキー帳の間で往復させていると、三木の目がうっすら開いていた。神在月が手を止めると、視線が上がって神在月を見た。ぼんやりとしている。
「ごめん。起こした」
声をかけると、三木は軽く顔を顰めた、
「いや、痛みが戻ってて…」
緩慢な動きでベッド脇に身を乗り出すと、神在月がすぐ脇に寄せておいたテーブルから紙袋を探って、薬を取り出した。
「水、ありがとな」
と、神在月が置いておいたグラスを手にし、痛み止めらしい薬を飲んだ。
気怠げにも見えるが、薬を飲むほどだ、痛みは強いのだろう。水を飲みほしてしまい、一息ついた三木は、神在月の様子に気付いたようだ。
「悪い、手を止めさせたな。……俺描いてた?」
「うん」
微笑んで頷けば、三木の口元に力が入った。これは照れなのかもしれない。すぐに表情は抜けて、三木の視線が斜め上を向く。ぽつりと声が出た。
「鉛筆の音か…。高校の夢、見てた。授業中に寝てそのまま休みに入ったら、お前はよくそうやって、俺のことを描いてた」
神在月は静かに頷く。
「ミッキー、うつ伏せてるからさ、いつも顔描かせてくれなくて」
「起きてる時もさんざん描いてただろ」
「うん、へへ、あの頃から、いつもありがとう」
そこで我に返ったように、三木は神在月を見る。
「お前、仕事は」
「区切りいいから休憩」
「…描く休憩に描くのかよ、漫画家ってやつは」
呆れたような苦笑が柔らかい。
その顔を描き留めたくて、神在月は再び鉛筆を走らせ始めた。視線はどことなく照れくさそうな顔とクロッキー帳を往復する。
「あの頃からずっと描いてて、もう見なくても俺のこと描けそうだよな」
「うん。描けるよ」
「…だったらそんなにちらちら見る必要ないだろ」
「あるよ。頭の中のじゃなくて、目の前のミッキーを描いてるから」
神在月も、高校の頃を思い出していた
欠席が続いた後の三木の首の包帯と、それ以降、居眠りで突っ伏した三木の首筋の大きな傷跡。退治人をしていると聞いたのは、その後だった。
あの頃から、今も変わらず傍にいる姿。
神在月は、絵の中の三木を指でなぞる。
「怪我したことは怒ってるよ」
三木の返事はない。
理不尽な怒りかもしれない。何に怒っているか、自分でもよくわからない。
三木に怪我を負わせた相手、危ない仕事を続けている三木、何も助けになれない自分
どれにも責任はないのだ。
ただ、三木が怪我したことが怖くて嫌だった。
「頼ってくれたのはうれしい」
世話焼きの友人は、誰彼構わず世話を焼くわけではない。自分が頼りなく素直に助けを乞うから応えてくれるのだと、神在月は思っている。それは随分と相性が良かったらしい。自覚的だから大丈夫と自分に言い訳するが、互いにはまりこんでいるのは事実だ。
たまに助ける矢印が逆になったところで、この関係はもう正されることはない。
ならば——
——たまにはこんな夜があってもいい
頼もしさの裏に危うさがある友人が、ようやく拗らせずに頼ってくれたことは嬉しい。
だが、そのためにこれだけの犠牲が必要ならば——
——こんな夜はなくていい
神在月は顔を上げて、三木を見た。鼻の奥がツンとする。口元が震える。
「ミッキーが無事でいてくれないと、俺、ダメだ」
しばらく沈黙が流れていた。
じっと見つめあう。やがて、三木が静かに答えた。
「お隣さんには話すし、治療も通うし、仕事も休む」
「…うん」
「お前の原稿がヤバかったら来る…さすがにしばらくはきついから、今週はがんばれ」
「…うん」
薄い胸の辺りがつまる。目頭が熱くなってきて、神在月は慌てて三木から目を逸らす
「えっと、今も、体つらいよね、あ、そうだ、怪我の時って熱上がるんだっけ? 冷蔵庫に氷のう入れっぱだから、使って」
「あ、ああ」
泣き顔を見られないように顔を背けて、バタバタとベッドを降りる。落ち着きなく部屋を出て、冷蔵庫を探って冷やしておくだけの氷のうを取る。鼻をすすって、目をぎゅっとして、表情に気合を入れてから部屋に戻った。
自分が寄せておいたテーブルが邪魔で、神在月はもう一度ベッドに乗って、氷のうを三木に差し出した。
三木は神在月の手ごと掴んで、氷のうを自分の顔に当てる。
「あー…気持ちいいかも…でも冷たくて目覚めそう」
冷えた心地にほっとしたような表情で、もしかしたら実際に熱が上がっているのかもしれなかった。少しぼんやりとした目つきで、神在月を見上げてくる。
「お前、いつ寝るの。俺、どくから」
「まだだけど、スペースあるんだし、そのままでいいよ。隣で寝させて」
「…そうか、サンキュ」
小さく呟くような礼の後、三木が自分で氷のうを掴んだので、名残惜しく神在月は手を離した。結露で濡れた手を、ついズボンで拭いてしまう。
三木はベッドに目を落としたままじっとしているので、神在月はそっとベッドを降りて机に向かった。
もう少し進めておく予定だ。だがなかなか原稿に戻れない。手だけ動かすふりでもしておかないと、三木が気にするだろう。
ふりのつもりで、ちまちまと手を動かしていたら、作業がのってきた。
紙に近づけた顔にインクの匂いが届く。カリカリとペンの音だけが流れる。
遠くでサイレンが鳴った。神在月は手を止めて顔を上げた。
背後は静かだ。そっと後ろを振り返ってみる。
三木は変わらずじっとしていた。薬が効いてきたようだ。さっきは目が覚めそうと言っていたが、器用に氷のうを頭に載せて目を閉じた三木は、呼吸が落ち着いていた。眠っているのかもしれない。
神在月は、しばらくその姿を見つめていた。それから、多少はそわそわする気持ちを抱えながら、再び机に向かうのだった。