ロディが風邪をひくというのは、両親がおらず、ロディの収入でなんとか暮らしているソウル家では死活問題だった。
なにせ金がないので風邪をひいても病院にいけない。病院に行く金があったら弟と妹にまともなものを食べさせてやりたい。しかし風邪をそのままにしておくと弟と妹がひどく心配する。下手したら泣き喚く上に自分たちの食べ物をロディを元気付けようと寄越してこようとする。優しすぎるふたりは自慢の弟と妹だが、これは最悪の悪循環なのである。
そんなわけで、ロディは絶対に風邪をひくわけにはいかなかった。まだトレーラーハウスの暮らしに慣れていない幼い頃、何度かそれを経験したおかげで、とにかく風邪をはじめとする体調不良にだけはならないようにと心掛けてきた。
だから、ここ十数年程、本当に風邪など引かなかったのだ。そりゃ予想外の出来事で腹に風穴が空いて入院なんてことはあったが、それだって別に病気ではない。
だというのに。だというのにだ。
「はぁ……」
こっそりため息をつけば、そのままケホッと乾いた咳がでて舌打ちをしたくなった。その様子に気付いた出久が、ロディのずれていた掛布団をかけ直しながら苦々しい声を出す。
「ねえ、僕ほんと休むよ。一緒に病院いこ? パトロールのシフト変わってもらえると思うんだ」
「そんなことしたらデクのヒーローグッズコレクション変なところに隠してやるからな……」
「燃やすとか捨てるとか言わないのがロディの優しいとこだよね」
ぎっと睨みつけたロディに対し困ったように笑う出久は、昨晩フライト終わりに出久の家へ来るなり「なんか今日、東京やけに寒くねえか」と言い出したロディの額に手を当て、すぐにベッドへ押し込んだ。
そのまま手際よく体温計をロディの脇に挟み、ピピッと鳴った体温計を確かめてから、ちょっと出てくるからそのまま待っててね、とロディを置いて玄関を出て行った。呆気に取られながらピノと大人しく待っていたら、ガサガサとビニール袋の音を立てながら帰ってきた出久がベッド脇にやってきたのだ。
なんだか今夜のベッドはやけに沈みがいい。そんなことを感じていたロディは起き上がることができなかったので、ガサガサと音を立てる出久がいま何をしているか覗き込めない。その代わりと言ってはなんだが、袋の中を漁り始めた出久の手元をその肩に飛び乗ったピノが見つめている。
「寒いだけ?」
「そうだけど……」
「なんか気怠いとか関節痛いとか喉痛いとか鼻水出るとかはない?」
「別に……」
「いま食欲ある?」
「……ない? かも?」
「ん、じゃあロディこれ飲もうか」
袋から出久が飛び出したのはゼリー飲料だ。それを蓋を開けて渡されるたので、ロディは素直に受け取り口をつけた。やけに冷たく感じるのは、ゼリー飲料がキンキンに冷えていたのだろうか。
そんなことを思いながらちゅうちゅうとゼリー飲料を飲んでいる間に、出久に前髪をかき上げられぺたりと額に冷たいものを貼られる。
「なにこれ」
「熱を吸収してくれるシート。気持ちいいでしょ」
「うん……」
素直にそういえば出久は眉尻を下げ困ったように笑った。今気づいたが体は寒いのに顔や首はやけに暑い気がする。そのまま口の中になにかの錠剤を放り込まれた。じわじわと溶けていく錠剤は、水を飲まなくても大丈夫な薬だからと出久がいう。なんの話だ?
「ロディいつから寒いって感じてた?」
「日本着いて……空港でたくらいから……? いや、だから今晩東京寒いなって言ったじゃねえか」
ベッド脇にしゃがみこんだ出久がロディの頭をやさしく撫でてくる。いつもより出久の指先が冷たくて、それが気持ちよくて瞼が落ちそうになる。
「今日の東京はごく平均的な気温だし、なんならいつもより温かいよ。それでね、ロディ。君は風邪をひいてるし、寒気がするってことはこれからまだ熱が上がるはずだ」
「俺が風邪なんかひくわけないだろ」
「ひいてるよ」
「まさか。何年も引いてねえって」
「その何年かぶりの風邪をひいたんだと思うよ」
「ないって」
「なんでそんなに頑なに認めないの……ああ、そうか」
思いついたように、そして慈しむように、ロディの額に張り付く前髪を出久が指先で払う。
「そうやって誤魔化すしか、なかったんだね」
出久の厚い手のひらが、ロディの薄い頬を包んだ。湿り気を帯びているのがどちらかはわからないけれど、触れられたところがぴとりと吸い付きあっている気がする。じわじわと温もりが苦しさを覆っていく。段々重くなってきた瞼に、出久の声が降ってくる。
「もう誤魔化さなくていいよ。しんどかったらしんどいっていっていいんだ」
「……寒ィ」
「うん。毛布だそうか」
「喉がやけに乾く」
「枕元にペットボトルおいとくね」
「頭ぼーっとする」
「氷枕買ってきたから用意するよ」
次々とかけられる言葉。やっとの思いでそれに言葉をロディは返す。自慢の口八丁が機能していない。瞼は重くて、口は回らなくて。朦朧とし始める意識の中で、しかしはっきりとわかることがひとつだけあった。どこにいるかわからないピノのか細い鳴き声が聞こえた。
「せっかくデクといっしょにいれんのに、こんなん、やだ」
「……治ったらいっぱい話をしようね」
困ったように微笑んだ出久の顔と、愛しさがたっぷりこめられたその言葉だけはかろうじてききとれて。そのあとに続く、だから今日はおやすみ、という言葉を聞く前にロディは眠りに落ちた。
そうしてべたついた肌の感触に不快感で目が覚めたロディはそのときやっと自分が風邪でダウンしており、昨晩よりも熱は下がったが体の状態が悪くなっていることに気付いたのだった。寝る前の記憶はずいぶん曖昧だ。
時計を見れば夜明け前の時間帯だった。出久に促されるまましっかり寝てしまったらしい。
せっかくの限られた日本にいる時間だったのにと情けなく思っていると、けほけほと咳がではじめる。昨日は認められなかったけれど、たしかにこれは風邪だ。喉の奥も腫れている感覚がある。喋る気が起こらない。
そういえばこの部屋の家主はどこにいるのだろう。このロディが寝ているベッドは出久のものだ。普段ロディが泊まるときはリビングのソファベッドを借りるのだけれど、ロディにベッドを譲ってそっちに寝ているのだろうか、とロディが上体を起こしたベッドの下。床に転がる塊がもぞりも動いた。
「あ、ロディ起きた……?」
いつも以上に髪の毛をふわふわと踊らせた出久が目を擦りながら塊から出てくる。どうやら体調の優れないロディを気遣って、出久自身はすぐそばの床に寝袋で眠ってくれていたらしい。
「デク」
「うわ、声ひどいね」
のそりと起き上がった出久が、ロディを心配そうに見やる。そしてすっと伸びてきた手を甘んじてロディは受け入れる。首筋の熱を確かめるようにして触れてきたその手はロディの細い首を優しく包み、頸を指先で優しくくすぐった。
「ロディ覚えてる? 君、熱すごくてうなされてたよ」
「……嘘だよな?」
「僕、慌てすぎて救急車呼ぼうかと思っちゃった」
「おいおい、呼んでないよな」
「呼んでない呼んでない。汗すごかったから着替えさせたけど、またかいちゃってるね」
言われてみれば確かに、寝る前に着ていた服と違う気がした。上は普段出久の部屋に置いてある自身のパジャマ用のタンクトップではなく、出久のプリントTシャツになっていて、下は薄いスウェット生地のハーフパンツだったはずが、出久のスポーツ用のハーフパンツに変わっている。パッとみればシーツも変わっている気がした。サァ、と血の気が引く。本当にやらかしているらしい。
「……セップク」
「ふふ、どこで覚えたのそんな日本語。とにかく熱下がったみたいでよかった。本当にしんどそうだったから」
起こしていた上体を、腰を支えながら寝かされ、また布団をかけられる。そのまま出久は寝室から出て行った。そういえばピノは、と思えば戻ってきた出久の頭の上に当たり前の顔をしてのっている。なにしてんだ、と睨みつければふいっと顔を逸らされた。なんだなんだ、やんのか。
「これ着替え、僕のだけど使ってね。身体も拭いとこうか。まだシャワーは早いと思うし……朝ごはん食べれそうかな。とりあえず僕きょう仕事休むから一緒に病院に、」
手に持っていた着替えを枕元に置きながら出久が当たり前のように言い始めた言葉にロディは飛び起きた。眉間に皺を寄せ出久を睨みつけると、丸い目をさらに丸くし、驚きの表情でロディを見ている。
「は? んなことしなくていいって。仕事いけよ、ヒーロー」
「え、君こそなにいってるのロディ」
「俺オセオン帰るし」
「待って待って、急にどうしたの。明後日まで日本でしょ」
「とにかく行けって。休む必要ねえ。病院行った方がいいってんなら自分で行ける。ガキじゃあるまいし」
自分で思っているより棘のある声が出た。出久の瞳が僅かに揺れる。気まずくて目を逸らし、そのままロディはベッドにぼすんと沈んだ。出久に背を向けて。
そして冒頭に戻るわけだ。
なんだか険悪なムードになってしまったことに出久が動揺を見せているが、そこをフォローする余裕もロディにはなかった。
下がっているとはいえまだ熱はあるのだろうし、身体のあちこちに不調がでている。
「ロディ、こっち向いて欲しいな」
「……やだ」
「いやかあ……困ったなあ」
「困ってんじゃねえか。だから帰るって」
「ううん、そんな身体で?」
そっと布団越しに肩を撫でられる。その手つきがやさしくて、だからこそ情けなくて、悔しくて。目頭の奥がじわじわと痛みを覚えているのは熱のせいにしていいだろうか。
「これ以上迷惑かけたくねえんだよ……」
ぽつりと言った、あまりにもちっぽけな本音は出久の耳に届いてしまったらしい。もう半ばやけっぱちだった。
沈黙の落ちた寝室に、すう、と出久が小さく息を吸う音がする。
「ロディ、君は勘違いしてる」
静かに、でも丁寧に、出久が言葉を紡ぎ出す。ロディの肩に置いた手をゆるゆると撫でるように動かしながら。
「僕が困ったのは、君が顔を見せてくれないから。ねえ、見させてよ。ピノはここにいるけど、君の顔をみて、君が考えてることを考えたいよロディ」
ロディは唇を噛み締めた。喉が痛いのに、これ以上痛くさせてくれるなと思う。
「迷惑なんてひとつも思ってないよ。僕がしてるのは心配。心配くらい、そばにいるんだからかけさせてよ。正直少し嬉しいんだ、ロディの緊張の糸が切れたのが僕の前っていうのが」
ここまで言わせておいて、背中を向けていることこそ、ただのガキだ。ロディは迷子の子どものような顔をしながらくるりと体の向きを変える。ベッド脇にしゃがんでいた出久と目が合う。
「ね」
ふわりと綿菓子みたいなやわらかさで笑った出久に頭をくしゃりと撫でられた。噛み締めていた唇をほどき、蚊の鳴くような声でごめんと呟けば、さらに頭を撫でられる。もうどうなでもなれと、そのままにしておけば出久がとんでもないことを言い出した。
「昨日の夜はあんなに素直だったのになあ」
「は? なにいって……」
「やっぱり覚えてない? じゃあ僕の胸のなかにしまっとくね」
ふふ、と笑って「お粥作ってくるよ」と言い残し、出久は立ち上がった。相変わらずピノは出久から一瞬たりとも離れず、ぴたりと肌を寄せている。やはりそんなピノをロディは睨みつけ、ぱたりと締められた寝室の扉にため息を吐く。
「さっさと治してお礼しなきゃなんねえな」
なにがいいだろう。何をしたら出久が喜んでくれるだろう。そう考えているうちに、寝室の向こうから米の煮える甘い匂いがしてくる。そういえば、オカユってなんだろう。
***
「ピノ、僕すごく頑張ったと思うんだ」
「ピィ」
グツグツと沸騰した小鍋をゴムベラでかき混ぜながら出久はつぶやく。ロディがいるのというのにキッチンにひとりというのが、随分と寂しく思える。
「熱があってしんどい思いをしてるといえど、好きな人の着替えだよ……荷が重かった……しかも寝落ちる前、あんな可愛いこと言うし……」
「ピィ〜」
底から生米を剥がし終え、蓋を閉めてからコンロの火力を弱火に調整する。あとは三十分ほど火にかけたまま放置してしまえばお粥は完成する。ここまでやって、そういえばオセオンにはお粥文化はないかもしれないと思い当たる。まあ、ロディお米好きだし大丈夫か、なんて結論づけ、出久は冷蔵庫をぱかりとあけた。卵があるので卵粥ができそうだ。
「さっきだって、なに!? 僕に迷惑かけたくないって。抱きしめたくてしょうがなかったよ! でも体調悪い時にそれ引き合いにして口説くのはフェアじゃないよねって思って我慢した! 僕えらい!」
「ピピッ」
ロディが昨晩やってきてから一瞬たりとも出久の元から離れないピノが、出久は愛しくてたまらない。肩でぱたぱたと羽ばたいて、律儀に出久の独り言に付き合い相槌を返してくれるのだから尚更。
「はやく治って、いつもの調子に戻ってほしいな」
冷蔵庫をしめ、寝室の閉じられたドアを見つめる。ヒーローである出久をいつだって尊重してくれるロディにとって、ロディのために仕事を休ませるのがおそらくロディ自身許せなかったんだろう。愛しいなと思う。家族や同居人がいるヒーローはよくそうやってシフトを調整するのだから、別に出久がそれをやっても問題ないのだ。
でも、まあ。たしかに。同居もしていなければ恋人でもなんでもない今それをするのは、と少々後ろめたさも感じる。だからやっぱり、恋人になりたいなと思うのだけど、出久と一緒にいることを楽しみにしてくれている彼は、いつそれを許してくれるのだろう。
「そろそろ本音を話してくれるかなあ。ねえ、ピノ」
すとんと肩から力を抜き、そこに乗っているピノに苦笑混じりに尋ねれば、ピノがやれやれと言った具合に羽を持ち上げるものだから、出久は大きく口を開けて笑ってしまったのだった。