僕の隣の好きなひと「あ、聡実くん見てー。オリオン座見える」
「狂児さん、星座知ってはるんですね」
「さすがに俺でもそれ位は知ってるよぉ。小学校の頃に習うてん。あれだけわかるわ」
「僕も、他の星はようわかりません」
三月の夜。動物の爪のような細い月が出ている東京の空。
春先の、少し冷えた空気が頬を撫でた。空より地面の方が明るいな、聡実はそう思いながら狂児と暗い夜空を見上げた。真っ黒な画用紙に針の先であけた様な、か細い光がぽつぽつと見える。
何で僕、東京で狂児と星座の話なんしてるんやろ。全然現実感ないな。
聡実はそう思いながら、隣を歩く背の高い男の横顔をちらりと盗み見た。
急に現れて急に消えて、そして、また急に現れた。一体なんやねん。聡実ははあ、と息をつく。
「もう……飛行機の座席も隣やし。なんなん」
「あれびっくりしたなあ!あんな偶然あるんやな~」
「ほんっまこのやくざ……」
狂児がわざとらしく声をあげるのを聡実は睨みつけた。しかし狂児は気にした風もなく笑いかける。
「聡実くんお家どこー?遅なってもうたし近くまで送るわ」
「やくざに家は教えられません」
「ははは、懐かし。聡実くん大人になっても教えてくれへんの」
聡実が狂児を見ると、狂児は「ん?」と首を傾げた。
「大人やろ?聡実くん来月お誕生日やし」
「僕の誕生日、覚えてはったんですか」
「そら覚えてるやろ」
当たり前みたいに言う狂児の目の前に、聡実は手のひらを出した。
「いや、ちょっと待って。……僕、狂児さんに誕生日教えた覚えないんやけど」
「えーせやったっけ?お、聡実くんええ手相してるやん。将来安泰やな」
「ごまかすな。ほんとやくざこわ……」
「聡実くんもう十八か。大きなったなあ」
「親戚のおじさんみたいやん」
「聡実くんが甥っ子やったら俺お年玉毎年奮発してまうやろな」
「狂児さんの奮発ほんまにすごそうやからいらんわ」
「聡実くん誕生日なに欲しい?」
「なんかくれるんですか」
「入学祝いも兼ねてな。やくざからは物貰えへんとか言わんでな」
「考えときます」
「で、聡実くんお家どこ~?」
「この人ほんまについてくる気やん」
聡実がげんなりとした視線を狂児にやった。
「そういや俺もこっちに家借りててん」
「え、そうなんですか?」
「うん。店あるし、あっち戻るん面倒な時にすぐ帰って寝れるんええな思うて」
飛行機の中で狂児の東京行きの理由を聞いた時、蒲田に店を出したという。「なんで蒲田」と、言うと狂児は「賃料安くてちょうどいい物件があったから」とこともなげに答えた。
ほんまにそれだけですか、絶対うせやろ。僕も蒲田住むこと、知ってそうしたんやろ。聡実は思ったが、それ以上考えるのをやめた。
「聡実くん二十んなったら酒飲みおいで。俺は飲まれへんけど付き合うわ」
狂児はそう言って笑った。少なくとも、それまではずっと蒲田の店を続ける気でいるんだろう。
「そう言う狂児さんは家どこらへんなんですか?」
「俺ん家は~、蒲田○丁目の○番地……」
狂児がすらすらと住所を答えるそばから、聡実の眉間に皺が寄っていく。
「……は?」
「うん?どないした?」
「……なんで僕と同じ住所なんですか」
「え~!聡実くんと同じアパートなん?すごい偶然やなあ!」
「絶対嘘や……」
聡実は眉間にシワをよせたまま、続けた。
「一応聞きますけど、狂児さん何号室ですか」
「二〇三号室」
聡実の眉間の皺が一層深くなった。狂児は自分の眉間をトンと叩いて「聡実くんここ、マリアナ海峡みたいなっとるで」といった。
「やから、なんで僕の隣の部屋なん」
「聡実くんお隣さんなん!嬉しいわあ」
「ほんっまにこのやくざ……」
「やったら一緒に帰ろ~!」
「一緒に、て。え、ちょ、」
狂児は聡実の右手を握ると、勢いよく前後に振った。
「東京暮らしで聡実くんがお隣さんなら心強いわ」
「なにそれ」
「ほら、知らん土地でひとりやと心細いやろ?それに俺ら関西からでたことないし」
「やくざでも心細いとかあるんですか」
「俺繊細なやくざねやんか」
「知らんわ」
話している間にアパートの前につくと、狂児は鉄の階段を、ためらいなく音を立てながら二階へ登っていった。聡実はの方は、戸惑いながら一緒に階段を登っていく。
そして聡実の部屋の隣のドアの前に立つと「ほなな聡実くん。今日疲れたやろ。また明日な」そう言って隣の部屋の鍵穴に鍵を差し込んだ。がちゃりと扉が開く。そして狂児は部屋に入る前、聡実へひらひらと手を振った。
「聡実くんおやすみー」
ばたん、と狂児の部屋の扉が閉まるのを、聡実は固まったまま見つめていた。
「……ほんまに?」
階段を上がって、玄関の前まで来て。そこまでは冗談かと思っていたのに。いや、まだわからない。これは手の込んだ冗談かもしれない。だって成田狂児だし。三年前にされたこと、まだ覚えてるからな。あんなん一生覚えてるし、一生言ってやる。聡実はやっと自分の部屋の鍵を開けると、室内に入った。
まだ何も入っていない畳の上にそのままごろんと横になる。そして、部屋の白っぽい壁を見た。向こうに狂児がいる。
急に消えて、急に現れて、そしたら腕に僕の名前彫ってるし。ほんで近所に店出す言うし。その上、隣の部屋に越してくるし。ほんま、訳わからん。本当になんなん?夢でも見てるんちゃうんかな。うん、多分あれや、僕をからかってただけや。なんか知り合いの家とかそんなんでそこに一瞬いるだけとか、そんなんちゃうん。きっと。知らんけど。東京の彼女とか、そんなんちゃうん。むかつく。寝よ寝よ。明日は届いた荷物全部片付けてわないと。聡実は起き上がり、寝る支度をして、布団に入る。それでも、しばらく寝付けなかった。
街灯の明かりが窓に映る。時折、通りを走る車のライトが聡実の足や畳の上に明りを落とした。照らされる自分の足元を見ながらカーテン、買ってこなあかんな。忘れてた。そう思いながら、聡実はいつの間にか眠りについた。
ゴンゴン、とノックの鈍い音が玄関先から響いて聞こえる。
続けて「聡実くーん、おはよ~」と狂児の声がした。窓からは眩しい光が差し込んできて、目を瞑っていても眩しい。耳も目もやかましいな、そう思いながら聡実は目を開けた。
「……夢ちゃうやん」
聡実は体を起こし、枕元の眼鏡をかけると玄関に向かい、鍵を開けた。
玄関の前に立つ狂児の表情は逆光で見えない。が、聡実にはなんとなくわかる気がした。
「……借金取りか思った」
「聡実くん借金なんしとんの?アカンよぉ!あれか、奨学金か?いくら?おじさんが立て替えたろか?」
「してません。例えです。ヤクザに立て替えてもらう方が怖いわ」
「聡実くんに利子なんようつけへんて。むしろあげてもええわ。そしたら聡実くんの足長おじさんになれるなぁ」
「あしながおじさんてもう正体バレバレやん。なんです?朝から」
「寝癖」
狂児は手を伸ばし、聡実の後頭部のはねた髪の毛を指先で弄びながら、にっと笑った。
「朝やからよ。いうてもう昼近いけど。聡実くん飯まだやろ。蕎麦食べよ!」
「なんで蕎麦?」
「なんやこっちの方引越しそばとかいうのあるらしいやん?折角やしそれやってみよ思って。さとみくん蕎麦好き?もしかしてアレルギーある?」
「蕎麦好きですけど」
「ほな食べよ。着替えたら家おいで。茹がいとくから」
狂児はそう言うと「またあとでな~」と手をひらひらと振り、部屋へ戻っていった。聡実がその後ろ姿を見ていると、狂児は部屋に入る前にもう一度手を振った。
「やくざが蕎麦茹がくて、」
昨日からほんまどんな冗談やねん。でも、狂児の部屋がどんなのかは気になる。ていうか狂児も同じ四畳半で暮らしてるとか、やっぱり信じられへん。
畳の上に置いてあったスマートフォンを見るともう十一時近かった。眠れなくてこんな時間になってしまった。たぶん狂児が起こしにこなかったらもっと寝てたかもしれない。
聡実は部屋に戻ると、顔を洗い、歯を磨いた。それから服を着替えてスニーカーをつっかけた。
狂児の部屋のチャイムを押すと、ピンポン、と呑気な音がしてから、すぐにシャツの袖をまくった狂児が顔をだした。
「いらっしゃい」
「お邪魔します」
「はいどーぞ」
聡実は玄関で靴を脱ぎながら呟いた。
「……ほんまに住んでる」
「え?そらそうやろ」
聡実の部屋と同じ畳敷きの四畳半。玄関からつながる細い廊下の右手にこじんまりとした台所と、左にはトイレと浴室がある。狂児の部屋には物はほとんど置かれていなかった。ビジネスホテルに置いてあるような小さな冷蔵庫。それに電子レンジ。それから聡実の部屋にあるのと同じような折りたたみの机がひとつ部屋の真ん中に置いてある。
「狂児さん荷物これからですか」
「いや。これで全部」
「なんもあれへん」
「まあ仮住まいみたいなもんやからな。こんくらいで十分よ。洗濯もコインランドリー行くし」
「ふうん」
「あれよ、ミニマリストいうやつ。オシャレやろ」
「うるさいわ」
部屋の隅には布団がきちんと畳まれている。
「狂児さんも布団なんですね」
「ベッド入れたら部屋狭なりそうやったからな。聡実くんも?」
「僕実家が布団やったんで」
「そうなん」
銀色の雪平鍋からは湯気が上り、蕎麦の茹る匂いがした。鍋の湯をこぼしながら、麺を水道水で洗い流した。狂児はシンクの上に置いてあった平皿を並べるとそこにそばを持った。
「聡実くんこれ先にそっち持ってって~」
縁の周りに何匹も茶色い犬のイラストがついた平皿にこんもりと蕎麦が盛られたのがふたつ。聡実はそれを受け取ると、机に並べた。汁椀二つと箸を二膳持った狂児が腰を下ろした。
「はい聡実くんお箸」
「ありがとうございます」
聡実は箸を受け取りながら、狂児が向かいに座るのを見て、聡実は呟いた。
「……食器、ちゃんとふたつある。お箸も」
「聡実くんとご飯食べよ思って、さっきそこらへんの店で買うてきた」
そう狂児が答えると、聡実がちら、と視線をよこした。狂児は首を傾げる。
「え?なに?聡実くんもっとかわええ皿のが良かった?猫が踊り狂っとる絵のやつと迷ったんやけど」
「……彼女のかと思った」
聡実がそう呟くと、狂児は一瞬ぽかんとしたあと「ふは!」と噴き出した。
「んな訳ないやん!それは聡実くん用よ」
「笑いなや。んな訳ないて、」
何言うてんねん。おるんやろ、助手席に乗せてた女の人達沢山。昔話してたやん。
聡実はなんだか急に腹がたって狂児を睨むと、視線がぶつかる。不思議そうな顔をした狂児はチューブのわさびをを皿のふちに出しながら続けた。
「おじさんいま女なんおらへんし」
「うせやん」
「ほんまよ。三年前からもう遊んでへんよぉ」
三年前。なんでそこから、と思いながら聡実は俯く。膝の上で握っている手のひらがあつくなった。聡実の俯いた視界に、緑色をしたわさびのチューブが入る。
「聡実くんわさびいるー?」
「辛いんでいいです」
「そう?じゃ食べよ」
ずずっと啜る音がして、聡実がそっと顔をあげ、狂児を見るとにっと笑った。
「俺今フリーなんで。聡実くんよろぴくネ」
「うっさい」
聡実も蕎麦をずずっと啜る。勢いよく吸ったせいか、つゆが器官に入り、聡実はけほけほとむせた。
「聡実くん大丈夫か?お茶飲み」
狂児は畳の上に置いてあったペットボトルのお茶を湯呑みにつぎ、聡実に差し出した。
「ありがと、ございます」
はあ、と息をついてから、聡実は湯呑みを見つめた。
「おんなじ柄や」
「それも聡実くん用やから。うち来た時はそれ使ってな」
ほんまに、なんなん。わけわからん。