それはこの世にたったひとりだけ成田狂児は、昔からよく他人に「お前は何を考えているかわからない」と言われる。
表情が読めない。笑っていても目が笑っていない。顔が整い過ぎて何を考えているかわからない。顔が強すぎて感情がわからない。等々。ひどい言われようだが本人は否定も肯定もしなかった。どうでもいいし、面倒だったから。
だが、狂児の思考は至って単純だ。好きか嫌いか。おもろいかおもろくないか。面倒かそうでないか。他人に向ける感情も同様だった。特に、面倒かそうでないかは比重を占めていた。聡実と出会うまでは。
聡実のことを考えている時、狂児の中で色々な感情がごった返す。大渋滞だ。会って、目の前で話して見つめている時には、さらに渋滞が激しくなる。
可愛い。愛おしい。抱きたい。抱きたい。一緒にいたい。結婚したい。抱きたいに二票入ったが、聡実と会っている時の成田狂児は人並みに、いや、人並み以上に感情も情緒も豊かになる。
昔の自分ならつまらん、面倒、と思っていたであろう感情も、聡実が相手なら面白くて可愛くて愛おしくなる。例えば、些細なことで聡実が拗ねたり、怒ってもちっとも面倒とは思わない。ただただ可愛いと思う。これは、聡実だけにしか感じない。
もうひとつ。成田狂児には昔から「寂しい」という感情がいまいちよくわからなかった。寂しさに強い、というよりも寂しさを受け入れるのが得意だったのかもしれない。付き合った彼女と別れる時も、こんなものか、という諦念に近い感情だった。そもそも、自分から望んで付き合うという事自体ほとんどなかったため、未練も何もなかったというのが正しいかもしれない。そんな狂児を見て、若いのに悟っていると言う人間もいた。
また「本当は寂しがり屋だから女が途切れないのだろう」と言われたこともあるが、それは違う。どちらかというと、寂しさに耐えられない女達が狂児を選んだ、というのが正解かもしれない。なぜか、成田狂児は孤独な人間を引き寄せるのだ。
だが、聡実と出会ってからの狂児は寂しさ、というのが本当の意味でわかった気がする。久しぶりに会って、食事をして、くだらない話をして、肌を重ねて、その翌日に別れる時。耐え難い寂しさに襲われる。また来月、都合をつければ来週にでもまたすぐに会える、ラインで動画付きで通話や文字でのやり取りだって出来ると分かっていても、寂しさで胸の奥がぎゅうっと締め付けられる。とにかく会いたい。そんな感情は聡実が初めてだ。
四十をとうに過ぎ、そろそろ五十の峠が見え始めたヤクザの男が、ひどくセンチメンタルな気分になってしまう。年をとると涙もろくなると言うが、それも相まっているのかもしれない。よくある別れのラブソングが今この歳になってようやく共感できるようになった。聡実のおかげだ。
それにしてもこれはいけない。他にも色々な、大まかにいうと常に聡実と一緒にいたいという理由が一番だが、四十超えのおっさんの、どうしようもないセンチメンタルを解消するには、やはり一刻も早く聡実と籍をいれるべきなのではないだろうか。そう、狂児が考えはじめたのは十月の、そろそろ風が冷たくなろうという秋の日だった。
その日も聡実の家で食事を一緒に作り、食べ、狭い風呂に二人でぎゅうぎゅうになりながら入り、それからぺたんこの布団で仲睦まじくした翌日の、別れ時だった。
正直、狂児は帰りたくなかった。だが聡実も夕方からはバイトが入っていたし、自分も大阪へ戻らなけれないけない。辛い。寂しい。狂児の胸にぽっかり、底なしの穴が空いた気分だった。
「聡実くんまた来月来るな」「うん。じゃあまた」と、聡実は返し、バイト先へ向かうその後ろ姿を蒲田の駅前で見送りながら、クリスマスには聡実くんに告ろう。絶対に。狂児はそう、心に決めていた。
聡実は来年の春にはめでたく二十になる。もうそろそろええんちゃうかな、とも狂児は勝手に考えていた。自分の二十の頃なんて、不特定多数の女達の元へ、あっちへふらふら、こっちへふらふらと漂う様に生きていた。自分の明日もよくわからないのに、身を固めるなんて、到底考えたこともなかった。
本当は、聡実の誕生日に言うつもりだった。だが、心身の寒さが、どうにも狂児をせっかちにさせた。待ちきれん。クリスマスだってイブがあるならプロポーズやって前祝いしてもええやろ。期間三ヶ月位離れとるけど。誕生日にもう一度プロポーズしたっていい。むしろ積極的にするべきではないだろうか。減るもんでもないし。狂児は独自理論を展開していた。
それよりも、問題は聡実の返事だ。万が一にも、ないとは思うが、本当に万に一でも断られたらどないしよ。流石に泣いてしまうかもしれない。もしそんなことになったら最近は立場上、行っていないカチコミに行かせてくれと組長に頼みこんでしまうかもしれない。めちゃくちゃに活躍できる自信がある。
いや、聡実に限ってそんなことは。でも恋愛と結婚は別とか、Zなんちゃらとか言われてる年の子がそうだったら。Zでもなんでもなかった自分ですらそうだったのだから、人のことはとやかく言えない。こればっかりは考えても仕方がない。今は聡実がOKをだしてくれる前提で話を進めよう。それには、どういうタイミングでプロポーズするかも問題だ。
イブには、人がいないからどうしてもと請われ、バイトを入れるらしい。それならと翌日にふたりでささやかなパーティをすることにした。
場所はまだ決めていなかったが、個室の店で、それともホテルでも予約しようか。大学は冬休みだから、泊まりだっていいはずだ。狂児は品川駅から乗り込んだ新幹線のグリーン座席に身を沈めながら、しばらくスマートフォンで店やホテルを検索していたが、すぐにその画面を閉じた。いや、ちゃうな。聡実はそこまで仰々しいものを好まない。
なにより、聡実の家で着倒してゆるっとしたスエットに着替えてのんびり過ごすのが至福の時なのだ。ラインの画面を開き、タンタン、とメッセージを送る。
「クリスマスは聡実くん家でパーティしよ」
ぽこん、と返信が届く。
「気早くないですか?まだ10月」
「あとさっき別れたばっかなのに」
「べつにいいですけど」
目の前で会話しているように、聡実から返信がくると、思わず横浜で下車してもう一度東京にとんぼ返りしたくなる。そんな気持ちをぐっとこらえ、プレゼントも買っておかねば、と考える。聡実には毎年毎年コートや上着をプレゼントしていた。
「僕ひとりしかおらんのにこんなに衣装いらんねん」と言われるが、線の細い聡実を見ていると、どうか暖かめたいと思ってしまう。保護欲か親心どちらだろうか。あとネットで見かけた、ふわふわの、フードにうさぎの耳がついたパジャマをあげよう。あれなら暖かいし、なによりそれを着た聡実が見たい。絶対可愛い。間違いない。そんな聡実を抱きしめながら寝るのだ。最高じゎないか。
新大阪につくまでの間、狂児は聡実へのプレゼントを考えていた。
クリスマスの当日。買い揃えた聡実へのプレゼントを携え、狂児はライン画面を開く。
「聡実くん肉とケーキ買うてくわ。他食べたいのある?」
飛行機のマークを押すと、既読がすぐについた。
「十分です」
「今うどんが食べたいんでうどん作ってもいいですか」
なんでクリスマスにうどん?などというのは無粋なことだ。聡実が食べたいというのならクリスマスにはうどんだ。決まっている。大海老天ぷらもつけよう。かきあげも買おうか。
「ほな海老天買うてくわ」と送ると「ありがとうございます」とすぐに帰ってきた。
そっけない礼だが、聡実が喜んでいるのが文面から伝わる。聡実くん、昔から海老好きやからな〜。なんだかおかんみたいになってしまったが、愛する人の好物も嫌いなものも把握しておくのは当然のことだろう。
予定通りチキンもケーキも購入した。余ったら聡実の明日からの食糧にしてくれればいい。
プレゼントと共に「狂児はなんでもかんでも過剰やねん」と言われるのは目に見えるが、聡実のすかすかの冷蔵庫や衣装ケースを見ると、つい隙間を埋めたくなってしまうのだ。
品川駅から蒲田、それから聡実のアパートまで、目を瞑っていても辿り着ける。というのは言い過ぎかもしれないが、狂児にとってはそれくらい、すっかり馴染んだ行程だった。
イルミネーションの飾り付けの施された駅前を通り、足取りも軽く、狂児は両手に紙袋や買い物袋を下げ、聡実の家へ向かった。
上着のポケットには指輪の入った小箱もある。狂児は今日何度目かのコートの上からポケットの膨らみを確認した。音符マークのついたチャイムを押すと、奥から廊下を歩く足音が聞こえる。いつも、この聡実の足音を聞くだけで気分が高揚する。すぐに厚めのカーディガンを羽織った聡実が顔を覗かせた。去年自分があげた物だ。可愛い。抱きしめたい衝動に駆られるが、狂児の両手の荷物がそれをさせない。
「聡実くんこんばんは〜」
「いらっしゃい」
狂児は靴を脱ぎながら、右手に下げていた買い物袋を聡実に手渡した
「聡実くんこれ海老天。と肉と惣菜も買ってきた」
「ありがとうございます。ケンタや」
誰でも一度は見たことのある、白髪の紳士がにっこりと笑みをたたえた箱を見ながら、聡実が呟いた。
「ようこんな食べきれんけど」
「余ったら冷凍しといて聡実くん好きな時に食ったらええやん」
「ほな狂児さんお正月うち来た時食べてくださいね」
「えっ」
「僕今年はバイト入れたからこっちおるし。正月もうちくるんやろ?来いひんの?」
「来る来る。来ます。絶対来るから」
「なんで敬語」
「あとこっちケーキな」
「ありがとうございます。ホールやん。でか」
「聡実くんイブにバイト大変やったやろ。酔っ払いとかに絡まれんかったか?」
「明け方に酔っ払いきたけど、注文したきりずっと机に突っ伏して寝てたし、そんな被害はあれへんかった。あといつもくる漫画家の人がまた来てはった。漫画家ってクリスマスも関係あれへんねん大変やな」
聡実は話しながら、買い物袋から惣菜のパックを取り出し「海老もでか」と呟いた。その間に狂児は四畳半の居間で勝手知ったるといった風に自分のスエットに着替えた。聡実は台所から居間を覗き込む。
「狂児さんお風呂沸かしてるけど」
「え〜?あとで聡実くんと一緒に入る〜」
「かわいないねん」
コンロの上では鍋にうどんのスープがぐつぐつと音を立てて煮立っていた。
「あと麺いれるだけ」
そう言って聡実は、冷凍庫から冷凍うどんを二玉取り出し、鍋に入れた。
「これ安くておいしいねん」
聡実が箸でうどんをほぐすのを隣で見ながら、狂児は、指輪を渡すのはどのタイミングがいいだろうか。やはりケーキを食べているときだろうか。それとも風呂からあがってから。すけべなことしたあとでもいいかもしれない。夢が膨らむ。などと考えていた。
「狂児さん、これ出来たん持ってって」
「はぁい」
出来たうどんやチキン、それからサラダなど。聡実の勉強用の小さな机はすぐにいっぱいになった。
聡実は「ほんまにパーティや」と呟いた。
テレビでは、バラエティ番組が流れている。聡実がチキンにかぶりつきながら、画面を見て呟いた。
「なんか、もうあんまりクリスマス感ないですね」
「まあ昨日がピークやからな」
「なんでイブのが盛り上がるんやろ。今日のが誕生日の本番やのに」
「なんでも直前のが盛り上がるんちゃう?」
狂児は続けて「恋人も、」と言いかけてやめた。既婚者の組員たちが、事あるごとに、昔はよかった、結婚は墓場などとぼやいているのを思い出したのだ。マンネリというやつだろうか。だが、そんな偏見を若い聡実に植え付けてはいけない。聡実とはいつまでだって盛り上がっていたいし、そうするつもりだ。毎日、朝起きたら聡実がいて、夜寝る時も聡実がいる。考えるだけで夢のようだ。チキンをたいらげ、今度はうどんにのせた海老天をほおばっている聡実を見ながら、狂児はそう心に誓っていた。
聡実は、ずず、とうどんを啜ってから鼻をこすった。
「あったかいうどん食べると鼻出る」
「ほんまやな」
聡実が鼻をすすると、つられたように狂児も鼻をすすった。聡実は引き抜いたティッシュを、小さなこどもにするように狂児の鼻に押し当てた。
「狂児さんティッシュ、はい」
狂児は、思わずティッシュ越しに触るその聡実の手を掴んだ。聡実は怪訝な顔をして、狂児を見返した。
「聡実くん、結婚しよ」
「は?」
「結婚しよ」
「二回言うやん」
「なんべんでも言うよ!大事なことやねんから。結婚しよ!!」
「声でか。近所迷惑や」
思わず握った手に力が入る。それに比例して聡実の眉間にシワがよる。
「え、本気なん」
「本気に決まってるやん」
「やって、狂児いつも結婚しよ結婚しよ言うてくるし」
「俺そんなに言うてた?」
「言うてた。やから本気度がわからんねん。自覚ないんか」
聡実はあきれた、という表情をした。あかんこれはマイナスポイントやった。
「狂児、語尾に結婚しよか可愛いがついてくんねん。言いすぎて言葉が軽いねん」
あかん、疑われている。過去の自分あかんやん。やけど言いたくなる気持ちはわかるから過去の自分を攻められない。狂児は箸を置き、聡実の手を一旦離すと、壁にかけてあった上着のポケットから箱を取り出す。
「ほんまやて!ホラ!指輪!」
「えっ」
聡実は差し出された指輪と狂児の顔を何度か交互に見てから、さらに怪訝そうな顔を狂児に向けた。
「うわ……本気やん……」
「そら俺本気よ!」
「本気なら、なんでうどん食べてる時なん……?」
それはそう。だけどそれを言い出したらなんでクリスマスにうどんとか、色々あるだろう。言いっこなしだ。それに今、まあいつも思ってはいるのだか、とびきり、ものすごく聡実のことが愛おしい、と思ったから。
「今めっちゃ聡実くんのこと好き〜!!思うてん」
「狂児のツボがようわからん」
聡実はそう言いながら、丼の底に沈んでいたうどんを引っ張り上げて、口に入れた。
「やけど、狂児いつも唐突やしな。前に僕が髪切ったあと言うてきたし。こないだなんかトイレから出てきたらいきなり言うてきたやん。あれなに?」
「どっちもすっきりした顔の聡実くんがかわいかってん」
「うるさいわ」
「聡実くんとりあえず嵌めよ!な!」
「返事待たんやんこの人。こんなのとりあえずで嵌めるもんちゃうやろ」
聡実はうどんのつゆを飲み、「ごちそうさまでした」と手を合わせてから立ち上がった。
「あとでな。食器洗わなあかんし。いきなり失くしたらあかんやろ」
「聡実くん嵌めてくれるん?」
「嵌めんと狂児泣きわめくやろ」
四十を超えたヤクザの男を赤子扱いするなんてさすが聡実くんだ。でも間違っていない。
断られたら本気で泣いてしまう。クリスマス自体に思い入れはないが、クリスマスが来るたびに聡実に断られたことを毎年思い出す、そんな思い出だけは絶対に避けたい。狂児もうどんを平らげてしまうと、聡実の隣で一緒に皿を洗った。
買ってきたケーキを並べながら、狂児は今度は聡実の隣に座った。
「聡実くん指輪嵌めさせて」
「ん」
聡実の左手を大事そうに握り、薬指に銀色のリングを通した。
「ぴったりやん」
それはそうだ。聡実の指をしつこいくらいいつも触り、撫でていたから。聡実の足のサイズも身長も体重も把握している。なんなら視力だって知っている。
聡実は狂児の胸に寄りかかり、蛍光灯に左手を広げて掲げた。その横顔が美しくて見惚れてしまう。
「皆既月食みたいやな。綺麗」
「聡実くんのが綺麗やわ」
「そういうのが軽いねんてほんま」
狂児を見上げて、またあきれたような顔をした。
「ほんまの事やもんしゃあないわ。聡実くん、ところでお返事は」
「指輪嵌めさせてんのに返事とかもういらんやろ」
「念の為聞いときたいわ」
「ごめんなさい。この指輪は売ります」
「うそーん!え、指輪が気に入らんかったん?そしたらまた別の指輪買うてくるな」
「しつこ。あとメンタルつよ」
「聡実くんがええよって言うてくれるまであげ続けるわ」
「貴金属業界に貢献しまくりやな。ほな、さっきもし失くしてたら」
「かまへんわ。また買うてくる」
「そんなん言うて、これ、高いやろ。いくらしたん?」
狂児が口の端をあげ、黙って笑うのをみて、聡実はスマートフォンでブランドのサイトをいくつか開いて見た。画面をスクロールしていくと「ひっ」と小さく悲鳴をあげた。
「こんなん指に嵌めてんの怖いわ。僕失くしてまいそう。普段しまっとこ。狂児さんと会う時だけ嵌めるようにするから」
「えっ、なにそれめっちゃ嬉しい」
「嬉しいんや」
「他にも聡実くんにクリスマスプレゼントあんねん」
聡実は部屋の隅に置かれた紙袋の束を見た。
「また、買い過ぎや。狂児ほんま母さんみたいやねんな。僕も、狂児にプレゼントある」
「えっ」
「そんなええやつやないけど」
「どないしよ。俺泣きそう」
「まだ渡してへんし、泣くようなもんちゃう。いらんかったら捨ててください」
「聡実くんからもろたもんそんなんする訳ないやん!毎日抱いて寝るわ」
「そんな抱いて寝るようなもんやないし。その前にケーキ食べよ。切ります」
「待って、聡実くん」
狂児は包丁のえを持つ聡実の手を握った。
「なに?狂児切るん?」
「せっかくやしケーキ入刀しよ」
聡実は狂児の顔をしげしげと見つめた。
「狂児って、結構ロマンチストやねんな」
そんなことを思う相手は、この世に聡実唯一ひとりだけだと、どうやって説明したらわかってもらえるだろうか。狂児が口を開きかけ、聡実の手を握る。
「まあ、そういうとこ嫌いやないですけど」
聡実の手が動いて、重ねた狂児の手がそれにつられるように、柔らかいケーキに入刀すると、綺麗に並んだ、いちごの赤い断面が顔を覗かせた。