向こう岸の庭「聡実くんお待たせ〜。あ、また来とったんか」
明かりのまだついていないざくろの看板の前。狂児が細く急な階段を降りると、階下で待っていた聡実の足元には一匹の猫がいた。猫は聡実に体を撫でられながら、陶器の皿に入った水を音を立てて舐めている。聡実は猫の体に触れたまま、狂児を見上げた。
「ごはんと水、狂児さんがあげてるんですか?」
「時々な」
狂児は「よっこいしょ」と言いながら聡実の隣に同じ様にしゃがみこんだ。猫は革靴に擦り寄ると、狂児の差し出した手に顔を近づけた。
「狂児さんに懐いてるな」
「んー?そうか?」
狂児は指先でちょいちょいと猫の喉を弄ると、猫は体を地面にごろんと横たえ腹を見せた。
「狂児さん猫慣れてますね。もしかして飼ってたことあるん?」
「俺やないけどな。昔ヤクザなりたてん時」
狂児の返事に、聡実の眉間に皺が寄る。狂児は聡実の表情を見て笑った。
「あ。聡実くんちゃうで。女やないからな」
「違うん」
「昔親父の家でな飼っててん」
春になったばかりの日だった。自分が持っているものは唯一若さだけで、金もなく、流されるがまま足を突っ込んだ世界のこともなにも知らなかった頃。住み込みしていた親父の家の、綺麗に刈られた庭に咲く紅梅の匂いが部屋まで漂ってくる様な、そんな日。
「麗子ちゃん、ここおったん」
陽の当たる縁側で、真っ黒な体を気持ちよさそうに伸ばしているのを見つけたマサノリが声をかけた。小さな生き物の毛並みが光を浴びて艶艶と輝いている。
「麗子ちゃんはええ場所知っとるな」
マサノリは言いながら、板張りに腰を下ろし猫を膝に載せた。狂児もその隣に座る。マサノリはしばらく膝上の黒い毛並みを撫でながら、唐突に「俺、家出るわ」と言った。それは昨日食べた晩飯を報告する様な、何気ない口調だった。
「家出てどうするん」
「東京行って漫画家なる」
「親父には?」
「あいつに言う訳ないやろ。殺されるわ」
マサノリは苦々しそうに顔を歪め、狂児の方を見た。
「狂児も止めるん?」
「いや、」
梅の木にとまった鳥達がピイピイと鳴いている。狂児はすう、と花の匂いを吸い込んだ。春やな、と思う。ぽかぽかとして脳みそがとろけそうな陽気の中、未来の話をしている。狂児にとって、それはなんだかとても眩しいものだった。
「マサノリは偉いな」
「なんで?」
「自分がなりたいもんちゃんとわかっとるから」
「普通やん?」
「普通なんかな」
マサノリの膝の上で猫がくあ、と小さくあくびをした。
「狂児はヤクザなりたかったんちゃうん」
「ようわからん。親父に拾われただけやし」
「麗子ちゃんと同じやな」
名前を呼ぶと、にゃあと鳴いた。小さな白い牙と赤い口がよく見える。マサノリは猫の頭を丸く撫でた。
「親父、物好きやから気に入るとなんでも拾うてきてうちで面倒みんねん」
マサノリが猫の首元をくすぐると、ゴロゴロと喉を鳴らした。
「まあ。ヤクザなりたい言うてなる奴の方が珍しいからな。狂児なりたいもんあれへんの。野球選手とか」
「なりたいもん……」
狂児はマサノリの言葉を反芻する。目の前の青い空を見上げた。
「俺、なりたいもんとか将来の夢とか目標とか、そういうの昔からなんもないねん。ずっとふわふわ流されて生きとるから。やからマサノリは偉いな思うわ」
マサノリは黙ったまま、狂児の横顔をしばらく見てから、また猫の喉元をさすった。
「流されるんもある意味才能や思うけど」
「え?」
「泳ぎが下手な奴は沈んでまうやん。やけど流れに身任せてぷかぷかしてたらうまいことどっかええ感じのところに流れ着くんちゃう。知らんけど」
マサノリは口の端をあげた。
「狂児、泳ぎ下手くそそうやもんな」
「まあ、上手くはないな」
「ははは。ほんまに上手くないんや」
そのマサノリの笑った顔が、親父にそっくりやなと思う。
「俺は親父の流れ乗るのん癪やから絶対乗っかったらへんけどな。組継ぐとか俺の性合わへんねん」
猫は撫でられるのに飽きたのか、マサノリの手の中からするりと抜け出すと、体をぶるぶると振ってから廊下の奥へと歩いていった。その後ろ姿を見送りながらマサノリは続けた。
「親父、自分が気に入ったもんしか身の回りに置かへんねん。あれでこだわり強いねんで」
そう言ってから、マサノリはもう一度狂児を見て笑った。
「狂児も、毛並みようなってきたやん」
次の日の明け方、狂児はマサノリを駅まで送った。改札で「じゃ。行くわ」と言った姿はちょっとそこのコンビニまで行ってくる、くらいの気軽さだった。
親父はいなくなった息子のことを「あいつ、誰に似よったんかなぁ」と呟いた。組長にそっくりですけど。という言葉を狂児は言わずにおいた。それからしばらくしてマサノリの描いた漫画が雑誌に掲載されたこと、単行本が出るたびに親父は何冊も購入したり、連載がはじまったその雑誌を定期購読しているのも知っている。
その間、自分はあれからずっと、どんぶらこどんぶらこ。ぷかぷかぷかぷか。浮かんだり沈みかけたり、水を飲んだり、流されたり、時々泳いでみたり。随分遠いところまで流され続けてきたけれど。ようやく流れついたのは、眼鏡をかけた歌の上手な少年。それは自分にとって、遠い旅の果て、やっとたどり着いた灯台のようなものだった。
「うまいこと流れ着いたな」
「?なんの話?」
「いーや。聡実くん飯行こか」
狂児が立ち上がると、聡実も同じ様に立ち上がった。猫は体を起こすと、毛づくろいをしてから、細い路地へと歩いていった。
「組長さんとこいたん、狂児さん何歳くらいん時ですか?」
「えー?二十歳すぎくらいよ。若い時は金もあれへんし、見習いみたいな感じでな親父んとこに住み込みしとってん」
「ふうん」
「うん?」
狂児は、少し考える様な返事をした聡実の横顔を見た。
「狂児さんにも若い頃あったんやなって思って」
「そらあるよぉ。俺一応赤ん坊時代も小学生時代もちゃんとあるで?」
「狂児さんはずっと今の狂児さんのままって感じやから。なんやへんなの」
「聡実くん、それ自分家のじいちゃんとかに思うやつやん?生まれた時からずっとじいちゃんてやつやろ」
「やって、そういう感じするし。空港で会った時もあんま変わってへんかったから」
「聡実くんはお兄ちゃんなっとったもんな〜。びっくりしたわ。玉手箱開けたか思うたわ」
「それ年取りすぎやん」
呆れたように言う聡実の横顔は、まだ子どもの面影を残してはいるが、大人の色も帯びている。これからもっとその色は濃くなるだろう。狂児は目を細めた。
「狂児さんの昔の写真見たいな」
「ええよ。今度見せたげるわ」
「狂児さん、今とあんま変わってなさそうやな」
狂児を見上げる聡実の、色の淡い目を見る。体は成長して変わっても、ずっと昔から変わらない目。
「聡実くん」
「なに?」
「聡実くん泳ぎ得意そうやな」
「なに?急に。普通やけど」
「そら心強いわ。俺泳ぐん苦手やねん」
「ほんまに何の話?」
ぷかぷかぷかぷか。どんぶらこどんぶらこ。時々浮かんだり沈みかけたり、泳いだり。
これから君と二人で辿り着く岸は、一体どんな場所だろう。