マヨちゃんの三つ編みが切られた話 もしも彼が髪を切ることがあるとすれば、それは当然、彼自身の意思によるものだと思っていた。
「ただいま戻りましたぁ」
玄関の方からマヨイの声がする。時刻は夕方と呼べる頃だったが、空はほとんど夜の闇に沈んでおり、ほんのわずか、夕焼けの気配を残していた。
「おかえりマヨちゃ――その髪は……?」
いつも通り玄関まで出迎えに行くと、そこにいるのは帰って来たばかりのマヨイだった。間違いなくマヨイだったが、それはニキが想像していた姿とはすいぶんと違った様子のマヨイだった。
今まで無理やり帽子と、襟の高いコートで隠していたらしい葡萄色の髪の毛は、帽子とコートを脱ぐと、ばさりと肩あたりで広がった。左右の長さがバラバラで、お洒落を狙って意図的にやったアシンメトリーな髪型とは全く違う。不格好なザンバラ髪だった。
それはまるで、あの綺麗な三つ編みを、長さの調整など何も考えずに根元の方からばっさりと切り落としてしまったかのような髪型だった。まるでというよりも、本当に根元の方から三つ編みの部分だけを切ったのだろう。いつも三つ編みに編み込まず、ゆるりと流している左側の髪は、そのままの長さを保っていた。
「あ、あの……びっくりしちゃいましたよねぇ……?」
「え……マヨちゃん……それどうしたんすか……?」
「イメチェン、なんて言っても信じてくださらないですよねぇ」
「信じないっすよ。だってマヨちゃん、何だか泣きそうな顔してるんすもん」
泣きそう、と指摘された瞬間、それまで必死に今までため込んできた感情がせきをきってあふれ出してしまったようで、ぶわ、とマヨイの目に涙がたまった。
「椎名さん……」
マヨイは、靴を脱ぎ捨てて、揃えもせずにそのままニキの胸元に飛び込んできた。
「わ、私……私の三つ編み……切られちゃいましたぁ……」
そのままマヨイは、部屋が完全に暗くなるまで、ニキの腕の中でずっと泣いていた。どう慰めたものか分からず、ニキはマヨイの涙がかれて泣きやむまで、時折嗚咽して揺れる彼の背中をさすっていた。
すっかり冷めてしまった夕飯を温め直して、食卓に並べる。言葉少なに、いつもよりゆっくりと、かつ少しずつ咀嚼するマヨイの皿の上の料理はなかなか減りそうにない。彼がこんなことになっているとも知らず、良い肉を使ったミンチが安かったからと、上機嫌でいつもよりも大きなハンバーグを作ってしまったことを、ニキは後悔した。ニキのものよりも小さいサイズとはいえ、この量は、今のマヨイでは食べきれないだろう。
何より、大切な人が大変な目に遭っていたとも知らず、のんきにハンバーグのことを考えていた自分に腹が立つ。当然食材を買い求めていた頃のニキはマヨイに何があったかなんて知るよしもなかったのだが、それとこれとは別の問題だ。
「……何があったか、聞かないんですね」
半分くらい食べたあたりで、マヨイがぽつりと呟いた。
「マヨちゃんが話したいと思った時でいいっす。だって、僕に話そうと思ったら、また思い出さなきゃいけないじゃないっすか。もちろんマヨちゃんさえ良ければ警察には行った方がいいと思うんで、僕が聞かなくても、警察の人には事細かに聞かれるとは思うんすけど……」
「警察には……行くつもりないです」
マヨイの箸は完全に止まっている。最初はほのかに湯気をたてていたハンバーグは、もう冷め切っていて、ただの冷たい肉塊と化していた。
「あと少しだけ、状況を整理する時間をください。お風呂に入って温まったら、何があったかお話します。その……何があったのか、椎名さんには知っていただきたくて」
ごめんなさい、もうお腹いっぱいです、と小さく言って、マヨイは席を立った。風呂に入る準備を始めるマヨイの背中を、ニキは何も言えずに食卓から見ていた。
彼が風呂に入ったのを確認して、マヨイが残した皿に手を付ける。ニキの皿にあったものと全く同じ味がするはずのハンバーグは、どこか味が濁っているような気がした。
「マヨちゃん、とりあえずその髪、ある程度長さそろえるくらいはしておいた方がいいと思うんすけど……」
お風呂からあがってきたマヨイの髪は、左右の長さがちぐはぐで、不格好だった。マヨイもそれは気になっていたらしく、短くなってしまった髪の毛先を見ては、困ったように眉尻を下げている。
「そう……ですよねぇ。明日何とかしてきます」
「そうっすね、仕上げはちゃんとプロの手でやってもらった方がいいとは思うっす。でも今のそのままじゃ、いかにも誰かに無理やり切られちゃったって感じなんで、長さそろえるくらいなら、マヨちゃんさえ良ければ僕がやるっすよ」
「……いいんですか?」
「もちろん。中学生の頃は散髪に割いてるお金なんかなかったから、ある程度自分で切ってたんすよ? ハサミとか、必要なものは一式まだ取ってあったはずっす」
ごそごそと、ニキが戸棚や物置から散髪用のハサミや、ケープなどを取って来る。
「はいマヨちゃん、ここ座って」
どこからか持ってきた折り畳みの椅子を設置して、ニキが座るようにマヨイに促す。おずおずとマヨイがそこに座ると、散髪用のケープがかけられた。
ニキがハサミで髪を切る軽い音が響く。葡萄色をした髪の毛が、ぱらぱらと散っていくのがマヨイの視界に入った。
しばらく自分の髪の毛が切られるのを見ている内に、沈黙に耐えきれなくなって、マヨイの方から先に口を開いた。
「……椎名さん」
「なんすか」
「私、犯人のことを責める気には、どうしてもならないんです。きっと何か理由があって私の髪を切っていったんでしょうし……ほら、髪の毛って放っておけば伸びるじゃないですか。顔に傷をつけることに比べれば、本当に大したことないというか――」
「マヨちゃん」
マヨイが言い終わらない内に、ニキが話を遮った。
「それ本気で言ってるんすか」
「ええと……」
「大したことないなんて言わないでほしいっす。血が出るものだけが、怪我じゃないんすよ」
いつの間にか、ニキが髪の毛を切る手が止まっていることにマヨイが気が付いた。振り返ると、心配そうにこちらを見返す縹色の瞳と視線が合う。
「どうして犯人をかばうんすか?」
「それは……」
「知り合い?」
「いえ、直接の面識はありません。ありませんけれど……」
言いにくそうに、マヨイは何度か口を開いて、閉じてを繰り返し、それから絞り出すように言った。
「多分、ファンの方だと思うんです。鞄に、前のライブで販売した、私の――クローバーのストラップが付いているのが見えましたから」
「ファンならなおさら、許す必要はないんすよ。マヨちゃんの三つ編みが、どれほど大事に手入れされてきたものなのか知っているはずなのに、それでも切り取っていったってことっすから」
「……椎名さんには、何があったかお話するって言いましたもんね。すみません、お風呂の中でも考えがまとまらなくて」
「いいっすよ、別に今日である必要もないんですし」
ニキが再びハサミを動かし始める。マヨイは、しばらく言葉をまとめているようだった。
マヨイが話をしてくれたのは、結局髪の長さをそろえ終わって、ベッドに入ってからのことだった。
マヨイいわく、特に前触れなどは何もなかったという。
いつもの通り夕方、日が暮れたあたりの時間にユニット練習を終え、まだ寮暮らしをしている他の3人とは別の方向に歩き出した後のことだった。街灯の明かりがちょうど途切れる暗がりに、誰かがいることに気が付いた。
「礼瀬マヨイさんですよね」
「……そうですが……あなたは?」
声をかけてきたのは、女性だったという。暗くて顔はよく見えなかったが、その後は、あっと言う間もなかった。
急に抱きついてきて、女性に対する免疫のないマヨイがおろおろしている内に、三つ編みに手をかけられた。どこに忍ばせていたのか、いつの間にか手にしていた大きなハサミでざっくりと三つ編みを切って、彼女はそのまま逃げて行ったという。
「その時、彼女の鞄にクローバーのストラップがついていることに気が付いたんです」
マヨイは、今日は一人になりたくないと言ってニキのベッドにもぐりこんできた。いつもよりも美味しくなさそうな匂いがする彼が、ニキに抱きつくようにすがってくる。ニキの胸元に顔をうずめるような格好をしているので、マヨイの表情はニキからはよく見えない。それでも、彼が小さく震えているのは分かった。
「どうしましょう、椎名さん。私、今ファンに会うのが怖いんです。ファンを大切にしなきゃいけないのに、大切に出来る気がしなくて……どこかに、あの女性がまぎれているような気がして仕方ないんです」
「僕がマヨちゃんの立場でも、多分同じ気持ちになるっすよ」
「……いいえ、椎名さんは強い方ですから。髪の毛を切られたくらいで、こんなに落ち込んだりはしないでしょう」
「何度も言うけど、髪の毛を切られたのだって、大変なことっすよ。伸びればいいってもんじゃないっす」
最低限綺麗に見えるように切りそろえた髪は、帰宅した時よりもさらに短くなってしまった。まだ男性としては長い方とはいえ、ギリギリひとつにくくれるかくくれないかの長さになってしまって、それが何故か、とても痛々しいと思える。
「……元の長さに伸びるまで、どれくらいかかるんでしょう」
胸元で小さく嗚咽が聞こえた。
「それまでに、私はファンのことを、もう一度信じられるようになるでしょうか。今は……今は、疑心暗鬼になってしまって……明日が握手会や、ライブの日じゃなくて良かったです」
今は、上手く笑えないので。
マヨイはそう言って、また泣いた。