「期間限定ドリンク」 食堂でのバイトを終えて、寮に帰る道の途中。夕日に照らされて長く伸びた影を踏みながら歩いていると、木の影からよく知った匂いが漂ってきて、ニキは声をかけた。
「マヨちゃん、何でそんなところに隠れてるんすか」
「ヒィッ!」
慌てて飛びすさる彼の手から、何かが落ちた。黒い手帳。スケジュール帳のようだ。
「落としたっすよ」
「あ、あああ、ありがとうございますぅ」
ささっと、ほぼ奪い取るような勢いでマヨイが手帳をニキの手から受け取る。その後も、マヨイはその場に立ち尽くしたまま帰ろうとしない。どうやらこの場所から動けない理由があるらしい。
「誰かと待ち合わせっすかね」
「誰か、というか、そのぉ……」
ちらちらと、マヨイはニキの方をうかがっている。ああ、とニキは頷いた。
「もしかして僕のこと待っててくれたんすかね」
「うぅ、そうですぅ。お仕事でお疲れでしょうに、こんな陰気くさい男の面見せられたって困りますよねぇ」
「いやいや! 嬉しいっすよ、疲れも吹き飛んじゃいそうっす!」
にこりと笑いかけると、マヨイは目をすがめて、困ったような顔をした。まぶしい、と小さく呟く声が聞こえる。笑顔に眩しいも暗いもないだろうに、とニキは考えたが、マヨイがこれ以上恐縮して縮こまってしまうと話を続けにくいので、言わないでおくことにした。
「僕のこと待っててくれたってことは、何か僕に用事っすよね。こんなところで立ち話もなんですし、歩きながら話しましょ。こっちの方向でいいっすか」
寮の方向を指させば、マヨイがこくこくと小さく頷く。小動物みたいだな、と微笑ましく思いながら歩き出せば、マヨイがとことこと半歩後ろをついてきた。
「……マヨちゃん?」
しばらく歩いても、マヨイはずっと、口をぱくぱくと開けたり閉じたりするばかりで、用件を切り出そうとしない。このままでは何も話さないまま寮についてしまうからと声をかけると、マヨイが意を決したように、うつむきがちだった顔をあげて立ち止まった。
「あ、あの!」
「何すか」
「メロンジュースが飲みたいです!」
「……そうっすね……?」
「……言う順番を間違えました。お待ちくださいねぇ、今お見せしますので」
きょとんとした表情のニキを見て、慌てた様子のマヨイはぱらぱらと手帳をめくる。ページの間に挟んでいた、几帳面に折りたたんだチラシのようなものを取り出して、ニキの方に差し出した。受け取って開いてみれば、近くのカフェの期間限定メニューの一覧が載っており、そこにメロンジュースも載っていた。
「このメロンジュースが飲みに行きたいってことっすか」
「そ、そうですぅ……前スイーツ会で、ここのメロンジュースが美味しいって聞きまして。メロンが好きなので、飲んでみたいなと思っているんです。再来週の末までのメニューなので予定が合えばになりますが、椎名さんが良ければご一緒出来ないかと思いまして」
「わ~、行きたいっす! ちょっと待って、僕も予定確認するっすね。え~と……来週の水曜ならお仕事なんにも入ってないっすよ。木曜は夜からの仕事があるんで、夕方くらいまでならいけるっす」
ニキも鞄から手帳を取り出して予定を確認する。マヨイの表情が、ぱっと明るくなった。
「木曜でしたら私も大丈夫そうですぅ。それでしたら、木曜に待ち合わせでよろしいですか?」
「もちろんっす! また連絡するんで、時間と待ち合わせ場所は後で決めましょ」
「……はい!」
話がまとまった途端、安堵したようにマヨイの表情が明るくなった。その後は他愛ない話をしながら歩いて、寮の入り口で別れた。
そういえば、マヨイの方から会う約束を取り付けてきたのは初めてかもしれない。
別れた後、ふとそんなことに思い至って、頬が自然とゆるんでくるのが分かる。足取りも軽く、ニキは自分の部屋へと向かった。
約束の当日。
二人で列に並んで、メロンジュースを買う。綺麗な淡い緑色をしたそのジュースは、まるでまるごとメロンを絞ったかのように芳醇な香りが口いっぱいに広がって、とても美味しかった。
「美味しいっすね!」
「ええ、美味しいですねぇ」
マヨイは少しずつ、ゆっくりと味わって飲んでいるようだ。いつだって、彼の食事はゆっくりとしていて、それでもその分きちんと味わってくれているようで、ニキは好ましく思っていた。
もう既に空になっている自分のグラスを邪魔にならない位置によけて、マヨイが少しずつジュースを口に含む様子を眺めていると、マヨイが視線に気付いて気まずそうな顔をした。
「あ、あの……あんまり見られていると、恥ずかしいです」
「なはは、ごめんっす。マヨちゃんが食べるの見てるの、好きなんすよ」
「す、好きとか、そう簡単に言うものではありませんよぉ」
真っ白な耳の端っこが、ほんのりと赤く染まる。そういうところが、可愛らしいと感じる瞬間が最近増えてきた。でもそういうことを言うと、マヨイは恐縮して、どんどん小さくなってしまうので、言わないことにしている。
「ね、マヨちゃんはメロンが好きなんすか?」
あえて話題を変えようとしてメロンの話題を振れば、マヨイは少し考えてからふるふると首を横に振った。
「メロンが特に好きという訳では……」
「あれっ、メロンが好きだから誘ってくれたんじゃないんすか」
「……あ」
マヨイが、しまった、という顔をしたがもう遅い。何か裏があるということに、マヨイの反応でニキは気が付いてしまった。
「何か僕に隠し事してないっすか」
「え、ええと……」
くるくると、ストローをマヨイが意味もなくかきまわしている。明らかに視線も泳いでいて、ますます怪しい。
「そうっすよね。マヨちゃんが好きなの、メロンじゃなくて葡萄ですもんね」
「あ、あうぅ……それは……」
あの、とか、その、とか、いくつか意味のない単語をもごもごと繰り返してから、マヨイは観念したように目を伏せた。
「すみません、いつも椎名さんが私に優しくしてくれるので、お返しをしたくて……。でも、何をすれば良いか分からなくて。一度しっかりお話してから、椎名さんが喜びそうなことを考える時間が欲しかったんです」
「それならそうと言ってくれれば、どこにでも顔出したっすよ」
「そ、そうですよね。気持ち悪いですよねぇ……。いつでもいいから誘おうと思うと、勇気が出なくて。どんどん先延ばしにして、最終的にうやむやにしてしまうのが怖くて、期間限定の食べ物を理由に使うことにしたんです。スイーツ会でおすすめされたというのも嘘です。近場で、もうすぐ終わりそうな期間限定のメニューを調べたら、偶然ここのメロンジュースが再来週で終わることが分かった。ここを選んだのは――メロンジュースを選んだのは、ただそれだけのことなんです」
緊張したような硬い声で、一気に最後まで言い終えると、マヨイが泣きそうな顔をしてうつむいてしまった。机に、硬く結ばれたマヨイの手が置かれているのが見える。
「……マヨちゃん」
「はい」
涙がたまったマヨイの目は、綺麗だった。一瞬その視線に目を奪われそうになりながら、ニキは出来るだけ優しく聞こえるように気を付けつつ言葉を続けた。
「僕ぁね、マヨちゃんが勇気を出して誘ってくれたってことが嬉しいんすよ。だから、気持ち悪がってるとか、メロンが好きだって嘘をついたことを責めてるって思わないでほしいっす」
いまだに硬く結ばれたマヨイの手を取ろうとして、少し迷ってから辞めた。行き場をなくした自分の手を、そっと引っ込める。
「マヨちゃんさえ良ければ、また誘ってほしいっす。それで、僕が好きなものとか、好きなこととか、知ってもらえたら嬉しいっす」
「椎名さん……」
マヨイが、控えめに笑った。
「はい。また、一緒に出かけましょうね」
その笑顔が、とても美しいものにニキには見えた。
その後、ニキもマヨイも上手く言葉が出なくて、会話はあまり弾まなかった。
「また今度。次は、明日のお泊まりレジャー隊の集まりでお会いしましょうね」
どこかぎこちない距離感のまま寮に着いて、それぞれの部屋に向かうために別れようかという時。手を小さく振りながら微笑むマヨイの表情は、今までで一番、嘘のない笑顔に見えた。
「うん、また明日ね」
それだけで、十分な収穫だとニキには思えたのだった。