朝の檻 目蓋の向こうに白い光をうっすらと感じる。
窓から差し込む陽光の眩しさでアイヴスは朝が来たことを知った。
通常なら朝日を浴びてのうのうとベッドに横たわってなどいない。軍人崩れながら規律に基づいた生活が根付いた身は本来ならもう起きて活動を始めている。そうしていないのは、今が通常ではないからだ。
只今、上層部からの命により潜伏任務中なのである。
とある人物の監視と調査。最終的には接触も試みなければならない。余計な警戒をされないように特殊な事情も雰囲気も一切剥ぎ取って無害な一般人へと転じてみせる。
そして無害な一般人というものは明星が煌めき地平線が白銀に輝くような時刻を起床時間にしたりしない。
(いつもよりゆっくり眠れるのが、こういう任務の良いところだな)
早起きに馴染んだ体は目覚ましのアラームがなくても意識を僅かに浮上させる。けれども寝る努力さえすればまた夢の世界へ還ることもできた。アイヴスは枕に頭を沈めて深く息を吐き、微睡みにうつらうつらと全身を委ねる。
次の瞬間、すぐ傍でシーツが波打つ気配がした。
反射的に息を半瞬詰める。だが、すぐに規則正しい息遣いに戻した。物音の正体に心当たりがあったからである。
借りている仮住まいの部屋にはアイヴスの他に一人しかいない。今回の仕事でパートナーに選ばれたマヒアだ。
その同居人が何故、寝起きの時間にアイヴスの傍らにいるのか。
最初に言っておくが、そこに怪しい意味合いなどなく弁明するほど深い関係性もない。至極明快な話、マヒアが発注したベッドが到着するまでの間アイヴスの寝具を共有しているというだけのことである。
眠る場所がない、と途方に暮れていたマヒアにそう進言したのはアイヴスの方からだった。男同士の雑魚寝が日常茶飯事な環境にいたせいもあり横にマヒアが寝るぐらいどうということはない。
勿論、無理に誘うつもりはなかった。マヒアが野郎と一緒に枕を並べるのは嫌だと断れば日替わりでベッドとソファを交代に使えばいいとも考えていた。
ところがマヒアはアイヴスの提案をあっさりと承諾したのである。ソファで寝るよりは手狭でもベッドで寝た方がいいと踏んだのだろう。
こうして大の男二人が同じベッドで眠る図が完成した。
初めのうちはぎこちなく毛布に包まっていたのだが、おかしなもので日を重ねれば段々と気兼ねがなくなってくる。寝入り際は気を遣って背中越しに「おやすみ」の挨拶をしていたはずが、寝返りが多い体質でもないのに夜が明ければ対面して「おはよう」とどちらからともなく挨拶をするのが日課になっていった。
今日も間近に人影を感じる。寝顔を見られていると分かって尚、体勢を変えず目も開けないでいるのは相手がマヒアだからだ。これが他者であったなら、そんな怠惰を己に許さない。覚醒した時点で既に身を起こしている。慣れとはなんとも恐ろしいものだ。
本日は何も予定がない。ターゲットが目立った動きさえ見せなければ。急ぐ用がないのなら個人的にはまだ惰眠を貪っていたい気分だ。
(マヒアは…流石に起きるか…?)
こちらを起こさないようしているのか控えめに身じろぎしているが、マヒアが目を覚ましているのは明白だ。このまま起き上がらずにいれば、いずれ一人で寝室から出て行くだろう。
アイヴスはそう思っていた。
そう思っていたのである。
思っていたのだが。
(………ん?)
シーツに伸びた手をそろりと誰かに掴まれた。誰かなど、一人しかいないのだけれど。
起こすつもりなのだろうか?それなら身を揺すって呼び掛ければいいのに。
何故こんな、起きることを願っていないような。起きないでほしいと祈っているような腕の掴み方をしているのだろう。
無抵抗のままでいると腕がシーツから浮く。
睡魔に浸った頭はまだ思考が鈍い。疑問に思っている間におずおずと腕の中に何かが収まった。
何かなど、一人しか…いない。
(…………ん??)
持ち上げられた腕は手が離された瞬間、重力に従ってパタンと元あった位置に落ちる。それで持ち主の意思とは関係なく両腕は完全にマヒアを囲い込んでしまった。
思いがけない行動に肩が強ばる。されど今起きているとバレるのは、なんだかとてもマズい気がして全身の力を抜いた。
(なんだ?どういう状況だ?)
戦場で冷静に指示を飛ばす司令官が面目ない話である。そうはいっても真白に染まった脳内は疑問符ばかりが生み出されていった。
これは、目を開けるべきか。否か。
アイヴスは理性を総動員して次に取るべき行動を議論した。現在の時点では満場一致で『否』である。現況を精査するにはあまりにも情報が少ない。
だが、頭のどこかでを瞼を上げたい気持ちもあった。逃げられないように抱き込んで「なんでこんなことしてるんだ?」と目と目を合わせて意地悪く囁いたら一体どんな顔を見せてくれるだろうか…なんて。
(案外良い性格してたんだな、俺は)
自身の知られざる一面を垣間見てしまい、嫌そうに長い溜息を吐いた。途端に腕の中にいる褐色肌がビクンと跳ね上がる。慌てて寝たふりを続ければ怖々と様子を窺っていたマヒアの肩がゆっくり下りた。
(危ねぇ…)
仄かな緊張感に思わず口調が荒んだ。
しかし、ここからどうしたものか。
アイヴスは徐々に平静を取り戻しつつあった。落ち着いてくれば腕の中で大人しくしている者の状態が知りたくなる。
視覚が使えないのなら他の感覚を駆使するだけだ。例えば、接する肌の部分からマヒアがアイヴスの鎖骨辺りに顔を埋めていること。鼻に当たるクルリと自由に遊ぶ毛先の髪と愛用しているシャンプーの匂い。自分のではない少々早い鼓動と小さな息吹の音。
密着しても嫌悪はなく、むしろ心地良い温もりで吹き飛んでいた眠気が蘇ってきそうだ。
ここに潜り込んで来てから一向にマヒアからのアプローチはない。眠ってしまったのかと思えばそうでもなさそうだ。よく仕掛けられる悪戯の一環にしては、からかい混じりの楽しげな笑い声が聞こえない。
いよいよ内心で首を捻っていればマヒアが枕にしている腕から伝わる肌がさっきよりも熱を帯びている気がした。具合でも悪いのかと一抹の不安がよぎる。もしや口も聞けない容態で密かに助けを求めているのでは、と悩んだ末に悟られぬよう薄目を開いた。
アイヴスの胸部に顔を埋めているのでマヒアの頭頂部しか視認できない。
ほかに何か異変の手がかりはないかと探りを入れていると耳がほんのりと色づいている。病症特有の発汗は見受けられない。顔色も分かりにくくはあるが見える範囲では問題なさそうである。呼吸も正常だ。
強いて言えば寝間着代わりに着ているインナーシャツをぐしゃぐしゃになるほどめいいっぱい握り締められているが。
そこで、ふとある推測に辿り着く。
まさか。いやいや。待て待て。まさか。
(嘘だろ?お前…まさか、突然こんなことしておいて…今更照れてるとか…言わないよな…?)
疑念は触れ合う肌がますます熱を上げていくことで確信へと変わっていく。もし手が空いていたのなら頭を抱えて蹲ってしまいたいところである。
とはいえ、こんな妙なタイミングで動揺を悟られるわけにはいかない。奥歯が砕ける覚悟でギリギリと噛み締め、呻き声一つ漏らさぬよう必死に耐える。
決してマヒアに対して怒っているわけではない。戸惑いは大いにあるが。
ただ、この、どうしようもなく勝手に湧いてくる九割の気恥ずかしさと一割の甘ったるくて苦しい衝動を抑え込むには怒気並みに強い感情が必要なのである。
込み上げてくる諸々をどうにかこうにか飲み込んでいると、
「ア…アイヴス?」
吐き出す息に微かな音が乗った程度の微声がアイヴスの名を象った。それは返事を期待していないように聞こえる。待ちに待った向こうからの反応だ。望み通りに無言で待機していると、更に声は続く。
「あ…あのさ、その、お、起きてたり…する?」
起きているか?あぁ、起きているとも。
(でも、マヒア。お前はそれを望んでいないだろう?)
それなのに、二言目の言葉に起きていてほしいと願いが込められているように聞こえるのは。
アイヴスがそうであってほしいと思っているからだろうか。
すっかり冴えてしまったが起き抜けの頭には些か難題である。考えても埒が明かないなら行動に移すのみだ。
アイヴスは布が擦れる音一つ立てずシーツの海に腕を滑らせる。マヒアが気づいた時には緩やかだった腕の檻が、がっちりと抱きすくめるほどの強固なものに変わった。
「アイヴス⁉」
慌てた声を歯牙にもかけず、まるで寝惚けていると言わんばかりにマヒアの頬に自身のそれを擦り寄せる。互いの顎に伸びる髭がこそばゆい。
想定外であろう行動にマヒアの肩が激しく震えた。それに対して暴れ出す前に腕力で閉じ込める。
探り当てた耳が羞恥に焼け焦げて火傷しそうだ。その熱に構わず炙られた耳殻に守られた小さな穴に唇を押し当てる。
「さぁてな。どちらの方がお前にとって都合がいい?」
穴めがけて低く囁き声を投げ込む。ついでとばかりにふざけてフッと吐息もオマケしてやるとマヒアが形容しがたい悲鳴を短く上げた。
散々かき乱してくれたのだから、これぐらいの仕返しは妥当だろう。
ふるふると震えたまま黙り込んでしまったマヒアをしっかりと抱き締めてアイヴスは問いの答えを待つ。
(…できれば今度は起きている時にやってほしいもんだ)
【END】