「……それでマヒアさん、無事にチョコを渡せたんですよ」
鼻息を荒くして喋り通す学生の話をロハンは半分も聞いていなかった。
ここの扉には用務員室と書かれたプレートがありロハンの仕事場を意味している。本来学生の入室は禁じられているが部屋主の許可があれば入ることができた。許可とは即ち雑務の助手をするということである。
話をする二人の手には針と糸が踊っていた。それは倉庫の奥で埃を被っていた万国旗の虫食い修繕に使われている。
ロハンが穴の空いた旗達を広げてどうしたものかと悩んでいた時。何やら陽気にスキップしている姿が目に映った。だからいつもの癖で「暇なら手伝え」と声をかけてしまったのが運の尽きだった。
異常なほど目を爛々と輝かせているのに気づき、やっぱりいいと断っても時既に遅し。「手伝います」と元気よく返事をされてどうでもいい話に付き合う羽目になってしまった。
「そうか」
「少しは興味を持って下さいこっちは今世紀最大級の幸福を感じてるんですから」
「人の恋路に首突っ込んでんじゃねぇよ」
「興奮状態の人間によくそんなド正論突きつけられますね⁉︎」
ぎゃぁぎゃぁと騒ぐ学生にロハンは呆れた溜息を吐く。毎度毎度口を開けば、とある二人の一進一退な恋話が激流のように流れ出てくるのだ。正論や文句なんかを言いたくなるというものである。
「……そういえば商業用の広告だかレシピだか、せっせと作ってたっけな。お前」
「自然な流れで足下に落とすのは大変だったんですから。バレないか冷や冷やしましたよ」
ケラケラと笑ってパチンと縫合した糸を切る。きちんと縫われた旗が机に置かれ、次なる外国旗を手にしていた。阿呆みたいな話をしながらも、そつなく仕事をこなすところがロハンに重宝されている所以である。
「でも結局ご自身でアレンジしてオリジナルチョコを作ったみたいですけどね。やっぱり器用な人なんだなぁ。箱もチョコも凝ってましてね。それを仲睦まじく食べて……。はぁーお二人の姿を思い出しただけで胸がいっぱいになります」
「……待て。まさか、その場にいたのか?」
「だから、そう言ってるじゃないですか。話聞いてましたか?」
「「無事にチョコを渡せたんですよ」ってところは聞いてた」
「一番最後ですよそれ⁉︎最初から終盤までマルっと聞いてないってことですか⁉︎」
日の丸を片手にショックを受けた学生が憤慨しながら机を叩いた。
「バッチリ、死角になってる席で、聖ウァレンティヌスに感謝しながら、拝見してたんです‼︎」
「お前はまたそういうストーカーじみたことを……」
ロハンが何やら額を押さえて呻く。軽犯罪的な話には関わりたくないと首を振って切り替えるように学生の前にズイッと手を差し出した。
「アイツらの話はもういい。おい、そのシャツ脱げ」
突然の追い剥ぎ発言に学生は手を止めてキョトンとした顔を向ける。
「……安物のシャツなんで売っても二束三文ですよ?」
「誰が売るか。上から二番目と袖口。ボタン取れそうなんだよ。気になって仕方ねぇ。ついでに繕ってやるから貸せっつってんだよ」
パッと学生が自身の身だしなみを確認すると、言われた箇所のボタンがほつれてぶら下がっていた。今頃気づいたのかとロハンが半眼で見つつ手を揺すって急かす。
「じ、自分で縫いますよ」
無精を指摘され思わず持っていた旗でみっともない部分を覆う。が、ロハンがまだ僅かに残っている数枚を目で示した。
「お前のノルマがまだ終わってねぇだろ。俺はお前が口動かしてる間に終わらせて手が空いてんだ。早くしろ」
(……それならロハンさんが万国旗を縫えばいいのでは?)
学生はふと思ったが敢えて沈黙を選んだ。自分が気づいて相手が気づかないはずがない提言を口にするのは野暮だと思ったからである。何より折角の厚意に水を差したくない。
それに、とロハンの前にある縫い目が目立たない万国旗たちを横目で見た。自分でやるより仕上がりが美しいのは間違いなかった。
学生は悩んだ末、言われたとおりシャツを脱ぎ「じゃぁ……お、お願いします」と言葉に甘えて手渡す。託された方は「ん」とシャツごと手を引っ込めた。
それから再び互いの手元で針仕事が始まってしまう。学生はなんとなく話の腰が折れてしまい先程の話を続ける気を無くしてしまった。代わりに目についたモノを話題にする。
「ロハンさんってモテますよね」
「……あ?」
てっきりさっきの話でも蒸し返すと思っていたロハンは予想に反し、自分の話を挙げられて不覚にも反応が一拍遅れた。顔を上げれば学生が指でどこか指し示している。目を向けて言葉の意図を理解した。
「どうだかねぇ。全部付き合いだろ」
人差し指の先にはカードや小さな花、小包といった贈り物でできた赤い小山がこんもりと形成されていた。
「今日という日に贈り物をされるってだけで充分モテてますよ」
学生の一言に言われた本人はただ肩をすくめるだけだった。
(付き合い……という割には本気度が高い物もありそうだけど……)
流行に敏感、とまではいかないがある程度は聞きかじっている年代である。遠目から見ても値が張っていそうな品々が見え隠れしていた。学生が教えるべきかと迷っている間にロハンの方が先に口を開く。
「お前はどうなんだよ?」
「え?こういった行事に縁があるような人間に見えますか?」
ロハンが放った疑問が疑問で返ってきた。拗ねている風でもない。単純に興味がないのが見て取れた。
「見えるかどうかなんて知らねぇが他人に余計な世話は焼いてるだろうが」
「あのお二人限定ですよぉだって押したくなるような背中してるからぁ」
琴線に触れる話題に学生がわぁっと突っ伏す。それに対して机を挟んだ向かいから「うるせぇな。手を動かせ」と冷徹な言葉が飛んできた。取り乱しを恥じていそいそと居住まいを正した学生は万国旗に針を通す作業に戻る。
落ち着いたのを見計らってロハンは続けた。
「親しげにしてる奴らは多そうに見えるが?」
「友達は多いですよ。ありがたいことに。でもそれだけです」
仲は良くてもそういった仲に発展しない、と暗に学生は言っている。特段惜しくもなさそうだが、耳を傾けていたロハンはボタンを括り付けながら
「なんだ。そいつら見る目ねぇなぁ」
とぼやいた。学生はぱちくりと目を瞬かせてロハンを見る。それに気づかないままロハンはシャツから目を離さず裁縫に没頭していた。
からかっている、というわけでもないらしい。知らず知らずのうちに漏れた言葉だろうか。
学生は顔を向けられていないのをいいことにやんわりと目を細める。それがロハンが日頃心に抱いている本当の評価ならば嬉しいと素直に思った。
パチンとこれまた何回目かの鋏が鳴る。シャツの手直しが終わったらしい。惚れ惚れするほど鮮やかな手際に慌ててスピードを上げる。幸い、手にしている一枚が学生に課せられた最後だった。
「終わったか?」
「わっ、待ってください。もうちょっと」
「急がなくていい。焦ってやると指刺すぞ」
ロハンが学生のシャツを広げたりひっくり返したりしながら忠告する。どうやら他に直すところはないかと点検しているようだ。何もないと判断するとシャツを畳み黙って席を立ってしまう。用務員の動向を気に止めず、学生は手仕事を終わらせることに専念した。
「よし、終わった」
「ご苦労さん」
針を針山に刺したタイミングで紙コップと茶菓子が置かれる。手伝った礼として用務員が協力した学生に配るのが恒例だった。菓子が目当てか、用務員と親しくなるのが目的かは人それぞれであるが。
「いただきます」
カップに口をつければ、いつも出されるコーヒーとは風味が違っていた。
(あっ、カフェモカだ。珍しい)
コーヒーの苦みの奥にココアのほのかな甘さを感じて胸中が温かくなる。今日この日の特別仕様だろうか。それなら手伝えてラッキーだな、と茶請けを見る。なんとこちらもチョコレートだった。
「ありがとうございます。万年ゼロ個でしたが今年はゼロじゃなくなりました」
学生がチョコレートを両親指と人差し指で丁重につまみ、左右に揺らして報告する。
「そんなに喜ぶな。貰いもんの処理だ」
ロハンはロハンで贈った方にも貰った方にも失礼な横流し案件を正直に曝露してくる。
合理的な考えをする人だと知っているので学生は大して驚かない。むしろ先程の小山を鑑みれば確かに一人で食べるには苦しい量だと納得する。
でも、と学生はどうにも引っかかりを覚えた。目の前の人はこういった想いの込もった贈り物を平気で他人に渡す人だろうか。
(うーん、あげない……こともないんだよなぁ)
ありえない話ではない。でも、どこかでなにかが違うと訴えかけてくる。
何故こうも釈然としないのか。何故そんなことが気になってしまうのか。学生は降って湧いた問題に頭を悩ませる。チョコを凝視したまま黙ってしまった学生をロハンもまた口を挟まず興味深げに正視していた。
(もしかして今、開けなくてもいい扉を開けそうになってないか?)
そう思いつつも扉の鍵をそっと差し込んでみる。一つ言えるのは鍵を差し込んだのは好奇心からではなく学生自身の意志だ。
「これ、本当に他の人から貰ったモノですか?」
対面した眼鏡の奥にある瞳は一見優しげな下がり目なのに意地の悪い光を湛えていた。
「さぁな。お前はどっちだったら嬉しい?」
「……大人の人はズルい言い方をしますね」
堪らずと言った調子でロハンは大口を開けて笑い出した。学生は問題の答え合わせがないと踏んで不満そうに貰ったチョコの包みを剥がしていく。
「いいです。チョコが食べられるならどっちでも」
「からかって悪かった。そうむくれるな」
お詫びのつもりだろうか。もう一つチョコレートが登場した。これで同一人物からとはいえ他人から貰ったチョコは二個目となる。学生の人生において記録が一気に更新された。
剥き出しになったチョコレートと包み紙に包まれたチョコレート。二つを掌に並べて学生はポツリと呟いた。
「どっちでもいいですけど。でも、やっぱりロハンさんが誰かから貰ったものよりはロハンさんが直接くれたものの方が何倍も嬉しいですよ」
そう言って学生は滑らかなショコラブラウンを口に運ぶ。それは付き合いやその場しのぎで渡されているモノにしては遙かに芳醇で濃厚な味がした。
【END】