祈りを添えて君に世界を送る ポストに何か届いた音がした。
確かめに行こうとマヒアが上体を起こしたが、それより早くパタパタという軽快な音が走り抜ける。マヒアは目元を緩めて役目を足音に譲り、調子の悪い洗濯機のご機嫌伺いを始めた。
往復を終えて家の中に戻ってきた愛娘に声をかける。
「何か来てた?」
天上の天使だってこんな愛らしく笑わないと自慢できる満面の笑顔が仕事の成果を手渡してきた。
よくできました、と頭を撫でて一つ一つ確認していく。大半が請求書やら明細書やらだ。それなのに足元の羽のない天使はにこにこと鼻歌を歌っている。
「あと、これも」
弾んだ声でもう一枚差し出してきた。チラリと横目で見れば上機嫌な理由を知る。マヒアは片方の眉を曲げながら受け取った。
「ねぇ!はやくよんで!」
自分以外の誰かが彼女を喜ばせるのは癪ではあるがお姫様の催促に拒否はできない。マヒアは作業を中断してキッチンへとエスコートした。
二人分の湯を沸かしてクッキーを用意する。その間、大きな瞳は絵葉書に夢中になっていた。
「どんな写真?」
「きれいなしゃしん」
毎回繰り返される問答にマヒアは苦笑する。語彙の少ない子どもの回答はワンパターンなのに何故だかいつも質問してしまう。
茶の準備を終えてマヒアも席に着くと、待ちきれずといった勢いで葉書が押し出される。はいはい、と手に取って裏返し記された文字を目で追った。
「"今はとある雪山にいる。吸った空気が肺を凍らせ、吐いた息が氷になるほどとても寒い。手や足の指が悴み」
「かじかみ?」
「雪で遊んでて指が冷えて動かなくなっただろ?あれのこと」
「ふーん」
理解したのか疑わしい返事でクッキーをつまんでいる。続きをせがむ目線にマヒアは読み聞かせを再開した。
「手や足の指が悴み、体すら自分のものだと思えないほど感覚が鈍い。体の感覚がなくなるのは恐怖だ。段々と自分がここにいないような気さえしてくる。それでも雪と光しかない世界は美しい。恐ろしいほど美しい。とても言葉では表現できない。それなのでせめてこの感動が伝わるよう写真を送ろうと思う"」
そこで一旦切ってからマヒアは後を継ぐ。
「"君の健やかな日々を祈っている"」
それほど長くない文章を最後まで読みきってマヒアは絵葉書の写真を見た。
日の出の瞬間を雪山の山頂から撮影した構図の写真だった。体験が綴られた文面を読んだせいか背筋がゾクリと冷えるようだ。
けれど、筆舌に尽くしがたい美しさがあった。差出人が述べたように。
雪と絶壁と光だけの写真なのに人が到底創り出せない色彩と世界があった。
しばらく見入ってからふっくらとした手に返す。戻ってきた絵葉書を愛少女は大切そうに撫でた。
「そっかぁ。この人、いまはさむいところにいるんだね」
娘が写真に釘付けになっているのでマヒアは先程声でなぞったメッセージ欄と対面している。
そこには読み上げた文とマヒア宅の住所しか記されていない。
この絵葉書には差出人の名がなかった。
そんな不審物がマヒアに届くようになったのは、世界を救う大きな任務を終えて落ち着きを取り戻した頃だった。
地球滅亡の爆弾を処理する手助けをした。その結果、明日の太陽が上る。ならば生活は続いていく。人生はそこで終わりではないのだから。
マヒアは報酬が入って温かくなった懐を糧に数ヶ月間は自由気ままな生活を送っていた。
行きたい場所に行き、過ごしたい地域で過ごし、やりたいことをやった。
始まりはカラフルで小さな家が建ち並ぶおもちゃの町みたいな都市の一角に長期滞在していた時のこと。アパートのポストに一枚の葉書が入っていた。
瞬時に緊張が走った。誰にも居場所を教えていない。月に一回の数字が書かれた書類以外の見慣れぬものを見て何事もないと楽観するには、マヒアはあまりにも裏の事情を知り過ぎていた。
誤送であることを願いつつ恐る恐る手に取ると差出人の部分が空欄だった。益々怪しい。マヒアは平静を保つため自分のテリトリーである部屋に帰った。
深呼吸してからザッと文字に目を走らせた。
"やぁ、元気にしているだろうか?
こちらは有名なリゾート地に来ている。照りつける太陽。熱された砂浜。どこを見ても視界を埋める人。正直、辟易しているところだ。
だが、海の色は素晴らしい。波の音も格別だ。観光地なだけあって飯も美味い。
夢を壊さないためにも嫌気の差すものが写っていない綺麗な風景を送ろうと思う。
最後に…。
君の健やかな日々を祈っている"
マヒアは首を傾げる。まるで親しい友人へ送るようなごくごく普通のありふれた手紙だった。
やはり誤送かと宛名を確認すればマヒア宛になっている。
裏を見れば書いてある通り、リゾート地らしいベタなリゾート地が写し出されていた。ただし人っ子一人いない、海をメインにした見目麗しいものである。さざなみが聞こえてきそうな紺碧の海に目を奪われていたが、我に返り推定危険物の調査を開始した。
暗号、隠語、あぶり出し、材質、インク……。思いつく限りの手段で探ってみても脅威の匂いが全くしない。
つまり、これは自分宛ての悪意なき絵葉書ということになる。
バラバラに切り刻まれた友好を前にマヒアは妙な罪悪感に苛まれた。
(いや、じゃぁきちんと名前書けよって話だから)
マヒアは正論で心のモヤを散らすと、今度はバラバラになった紙片をジグソーパズルの要領でつなぎ合わせていった。
その継ぎはぎだらけの一枚は手元にある。そして、それ以降に送られてくるもの全て取りこぼすことなく。
そう、絵葉書の到来は一度で終わらなかった。
どういう訳か、どんなに居を変えても絵葉書は必ず届けられた。期間はまちまちであるが一年以上間が空けられたことはない。
監視されているのか。それとも地道に住所を探し出しているのか。住所特定の手段は計り知れない。
他人に知られれば気味悪がられるだろうと口外していない。秘密が漏れそうな小さな口には緘口令も敷いた。なんらかのお節介で絵葉書が途絶えでもしたら、未だ目にしたことのない色鮮やかな景色を楽しみにしている我が子が可哀想だ。
マヒアは茶を一口飲んでから、ふと思案に耽る。
実は差出人に心当たりがあった。心当たりというよりは、そうであったら…という期待に近い推測だ。
脳裏に浮かぶのは気難しい顔をした男である。その男は任務完了の通信を最後に所在生死共に不明となった。
何故その男が第一候補に挙げられるのかと問われてもマヒアには胸を張って提示できる根拠はない。
同僚と呼ぶには携わった任務が一つだけだ。
友達と呼ぶには付き合いがあまりにも短い。
知人と呼ぶには関わった時間が濃厚過ぎた。
互いの深い部分を曝け出す前に二人の行く道は呆気なく分たれた。惜しむ暇さえなく。
そうなると分かっていたのに一人で歩く道はなんだか味気なかった。歩き慣れた道のはずである。でもふと寂しいと思った時にあの男と肩を並べていたら……なんて哀愁が込み上げてくるのだから堪ったものではない。
そんなシリアスは自分に似合わないと遊び呆けていたらコレが現れた。忘れることを責めるみたいに。
(…まぁ、所詮俺の勝手な思い込みなんだけど)
確証はない。なので面識のない危ない別人からかもしれない。だが、それでもいい。
「……またコレクションが増えたなぁ」
「うん!これもはってね」
絵葉書がベタベタと隈なく貼られた壁を思い浮かべる。保管していた幾枚もの絵葉書を見つけられてしまったが最後、自分の部屋に貼るのだと駄々をこねられたので丸ごと献上した。
今ではちょっとしたモザイクアートのようになっている。
(この子が喜んでいるうちはちゃんと送ってこいよな)
マヒアは心の中で注文しつつ、ついでに恥ずかしがり屋な差出人の安否を想った。
※ ※ ※
数ヶ月後のよく晴れた午後。
小さなシャベルと大きなシャベルを並べてマヒアは花壇づくりに精を出していた。
「よし、じゃぁチューリップ植えようか」
一球持っただけでいっぱいになる掌の持ち主がぱぁっと顔を輝かせる。直後、ポストマンのバイクが近づくエンジン音がした。
コトンッと物音を残して去っていくのを見送る。目線を落とせばそわそわと動く愛らしい顔が球根とポストを行き来していた。どうやらポストの中身が気になるらしい。
「お嬢さん。俺がポストの中身が逃げ出さないよう見張ってるから君は球根を植えてしまいなさい」
マヒアが茶化して言うと「おねがいよ、ぱぱ」と真剣な表情で釘を刺してきた。それからせっせと十球ほど植えて土を被せる。
土仕事が終わりポストに向かいそうな体を抱え上げた。わぁわぁと攻防を繰り広げて汚れた手足を洗うと「よし」を出す。途端にリードから解き放たれた犬の如くポストへ突進していった。
ふぅ…と一息吐いて水を飲んでいたら子犬が帰ってきた。不思議そうな顔をして。
「どうした?」
手にしているものに目をやると封筒だった。待ち望んでいたものではないのでガッカリしたのだろうか。
「あのね」
説明しようともごもごしている。しかし、言葉が見つからなかったようで封筒を手渡してきた。封筒にはここの住所以外の記載がない。けれど、いつもの絵葉書ではない。
訝しく思いながら中を検める。そこには一枚の写真が入っていた。
(この場所は…)
「ちかくのこうえんだよね」
無邪気な声が告げる。散歩するのに適した距離にある公園。うちの天使のお気に入り。秋には銀杏並木が公園全体を覆い尽くすかのように色づく名所。
ちょうど、この写真にある風景のように。
マヒアは僅かに震える手で裏を見る。
"送ることを迷ったが……。
俺が綺麗だと思った景色を君にも見せたくて始めたことだ。
この景色もそう思った。
それだけだ。
君の健やかな日々を祈り続ける。
by I "
いつもと差異がある絵葉書だ。
そもそも絵葉書ですらない。現像した写真に直接無造作に書かれたものだ。
加えて添えられていた体験談もない。
更には世界のどこかではなく見覚えのある近所ときた。
そして、結び句の変化とこれまで一度だって書かれたことがなかった一文字。
(……あぁ、最後か)
マヒアは悟った。分かりやすく終わりがきた。物事の終止はいつだって突然である。
足元にいる娘が心配そうにこちらを見上げている。幼心にも何かの気配を察してるようだ。
最初に思ったのは、この子が残念がるだろうな…ということ。
次に思ったのは、自分は予想以上にこんな紙切れ一枚を心待ちにしていたのだということ。
(だって、そうだろ。世界が終わることより絵葉書が来なくなることの方がこんなにも恐ろしいんだから)
マヒアは床に膝を付けると眉尻が下がっている柔らかい顔に自分の額を擦り付けた。少しだけ元気を分けてもらう。
「ヘイ、ベイビー。ちょっとパパと散歩に行こうか」
心に決めると行動は早かった。己の首にマフラーを巻き、散歩を喜ぶ娘に上着を着せる。
件の差出人がいるとは限らない。ああいう性分の人間は頑固で意固地で素性を晒さないと決めたら貫き通すからだ。いない可能性の方が高い。
だが、一縷の望みを持って向かう。さて、そこで問題だ。
もし仮にいたとして。自分は果たしてどうするのだろう。
(えぇい。案ずるよりもなんとやらだ)
ごちゃごちゃと考えるのは後回しにした。自分はあの男に居てもらいたいのか、そうでないのか。それだってよく分かっていない。心の整理がつかないまま体だけが前に前にと進んでいく。繋いだ小さな手の温もりだけが唯一の活力だった。
到着して見通しの良い公園を見回す。様々な濃淡の黄色に埋もれた視界は眩しい。
「ぱぱ、あそんでいい?」
公園に来た理由を知らない愛子が遊具を指差す。
「あぁ。でも知らない人には」
「ついていかなーい」
体力が有り余っている子どもは走り出していた。転ぶなよ、と後ろ姿を見守っていたらカサカサと不自然な音を耳が拾う。
振り向くとそこには記憶のままの、いや、記憶よりも少し小汚くなってる男が歩いてきた。
あの封筒を送付したのは数日前のはずである。姿を消すには十分時間があった。それなのに今目の前にいるということは。
(アイヴスも会いたかった、ってことでいいのか?)
「久しぶりだな」
あの日の唐突な別離を感じさせない軽い挨拶だった。拍子抜けしたマヒアは気を引き締めるため眉間に力を入れる。
「そうだな。でも俺は不思議と久しぶりって感じはしないよ。正体不明の絵葉書のおかげで」
皮肉を乗せて応答すればアイヴスは気まずそうな顔を見せた。それでマヒアは一旦溜飲を下げる。
「聞きたいことは山ほどあるけど、ひとまず……元気そうでなによりだよ」
アイヴスは柔らかく微笑んだ。就いてた職種柄、堅苦しいイメージだが元来こういった表情の方がよく似合う。
「マヒアも」
それから遠目から遊具で遊ぶ子どもたちを眩しそうに眺める。
「可愛い子だな」
それが自分の子どもに向けられた世辞だと踏んでマヒアは誇らしげに讃える。
「あぁ、宇宙一だよ」
本音で返せばアイヴスはしみじみと頷いていた。その横顔はとても優しい。
「……アイヴスからの絵葉書を毎回楽しみにしてるよ」
ポツリと呟けばアイヴスは一瞬目を見開いて「そうか」とだけ囁いた。
「俺も、楽しみにしてるんだけど」
暗に繋がりを断ち切らないでほしいとマヒアは伝えてみる。真意を読み取ったアイヴスは困ったように笑った。
「変なことしてすまなかったな。もうお前の家にアレは送らない」
「……なんで?」
マヒアは諦めずに問う。原因が、きっかけが、何故こんなにも急に終焉が訪れたのか。それが分からなければどうしようもない。
「……子供がいるとは知らなかった」
隠すことでもないと謝罪でもするかのように力ない口調でアイヴスが言った。
「転々と移る住所は調べられても、私生活まで踏み込みたくなくてな。何を今更と、言われるかも知れないが……。妻子ある身に不気味な手紙を送り続ける気はない」
調べられていたのはあくまで住処までで家庭内情までは手を出していないらしい。アイヴスなりの良心の境界線というわけだ。
それなのに何故いきなり子どもの有無が発覚したのか。
(もしかしてウチを訪ねてくれたのかな?)
住所を知っているのならありえない話ではない。近くまできた際に立ち寄ってくれたのかもしれない。そこで娘の存在を知ったのだとしたら。終わりを告げる黄葉の写真に至るピースが揃っていく。
戸籍まで立ち入っていないのならば。子どもが側にいると知らなかったのであれば。
(……あれはずっと俺だけに宛てられた言葉たちだったのか)
場違いな結論に行き着きマヒアの胸中がにわかにざわめき始める。
マヒアは首を振って仕切り直し「あのさ」と前置きをした。娘に目を向けているアイヴスの顔がこちらに戻る。
「あの子、里子なんだ。……ちょっと訳ありの孤児で、どうにも見過ごせなかった」
アイヴスが今度こそ驚いた顔をする。
「期待を裏切って申し訳ないけど俺の家族はあの子だけ。不気味に思う人間はいない。喜んでるのは二人ほどいるけど」
仕込んでもいないタネ明かしをしてマヒアが愛しい名を大声で呼ぶ。まだ発達してない足を懸命に動かして転がるように走り寄ってきた。
「ほら、ハニー。挨拶して。俺の大事なお友達だよ」
「こんにちは」
「こんにちは。しっかり挨拶できて偉いな」
知らぬ人に褒められて他人を蕩けさせる笑みを浮かべている。アイヴスは壊れ物に触れるような、異常なほど慎重な手つきで頭を撫でた。
「上手に挨拶できたレディには後でビックリするようなヒミツ教えてあげるね」
しゃがみ込んで聞こえよがしに桜貝の耳に耳打ちする。それを聞いた青い瞳がギョッと目を丸くする。
ヒミツという甘い誘惑のワードに好奇心の塊である子どもは弱い。案の定今すぐにでも暴き立たい意気込みを感じる。
たじろいでいるヒミツの正体に今度は立ち上がり低い位置にいる子に聞こえない音量で耳打ちする。
「絵葉書、ありがとう。あの子が目にする世界が少しでも綺麗なものであれば、と思ってたんだ」
真摯な眼差しを向ければアイヴスは目を伏せて「少しでも役に立てたのなら、よかった」とこぼした。
マヒアは目を細めて二人を見比べている至上の宝を抱え上げた。
「ごめんな、ベイビー。もっと遊ばせてやりたいがパパはお友達とお茶がしたくなっちゃったんだ」
にこやかに晴れていた顔の雲行きが怪しくなる。アイヴスが「いや、俺はいいからゆっくり遊ばせてやれ」と止めているのを無視して言いくるめる。
「でも、さっきも言ったろ?帰ったらすごいヒミツが待ってるぞ」
子どもとは現金なものだ。面白いくらいに意見をくるりと翻す。帰る意欲を見せる娘とは対照的にアイヴスが苦い顔で「頼むからヒミツのハードルを上げてくれるな…」とぼやいた。
【END】
《帰り道の話》
「色んなところ行ってたんだなぁ」
「マヒアもだろ」
「いや、でも山頂とか海底とか流石に体力なくて無理だって」
「体力も時間も持て余してたからなぁ……」
「……」
「大丈夫だ。少なくとも君たち二人と俺が会っても迷惑はかからない」
「そうじゃなくて。……またどこか行く?」
「……時がくれば」
「……そっか」
「だが、しばらくは居るつもりだ。やりたいこともできたし」
「やりたいこと?」
「あぁ。結婚してないときいて安心したからな。まぁ、地道に口説いていこうと思う。お前の天使にも認めてもらわないと」
「………ん?は?」
【END】