あなたと【オル相】 メッセージアプリの黄緑色の枠が、軽やかな通知音と共にスマホの上部にポップアップで浮き上がる。
七時頃帰るよ、という文字を目で追い俺は唯一濡れていない小指で画面をスワイプした。短く、はい、とだけ打ってからシンクに戻った。キッチンカウンターの上に置きっぱなしの画面は更なるメッセージをすこんすこんと知らせ続けていたが、俺はそれを放置して切った野菜をまな板から鍋に移す。じゃがいもは下茹でしてあるからそこまで火の通りに時間は必要ないはずだ。
背後ではピーピーと炊飯器がご飯が炊けたことを教えて、グリルからは魚の焼ける匂いが漂う。おたまで鍋を掻き回し、適当なところで味噌を溶かした。
一度グリルを開け魚の焼け具合を確認する。
(あと二、三分ってとこか)
引き出しを戻して炊飯器を開け、中の艶めいた炊き立ての飯をしゃもじで十字に切った。
ガチャリと遠くでドアが開く音がする。
時計を見た。まだ七時には十五分早いが。
「おかえりなさい」
俺はキッチンから顔だけを覗かせ、努めて平穏に、冷静に、いつものように声を掛ける。
「ただいま!」
しかし、俊典さんは靴を脱ぐのもそこそこにスーツケースも玄関に置き去りにしてこっちに突進してくる。
「会いたかった!相澤くん!」
こっちの反応もお構いなしにぎゅうぎゅうと抱き締めて、なんなら軽く持ち上げて俺の体を振り回してまで顔を擦り寄せ髪に鼻先を埋め俺の名を呼ぶ。
犬か。
俺を解放して尚、きらきらと感激で少し潤んだ目で見つめてくる。長年の付き合いだ、今がキスのタイミングだというのはわかるし、したくないかと言われれば勿論したい。だが今の俺には優先すべきことがある。
俊典さんのネクタイを引けば全てを察して利口な犬は俺に届く位置まで身を屈める。僅かに唇を触れさせて離れれば、物足りないと眉を下げる顔が目の前にあった。
「魚が焦げます」
「それは困る」
「今日のご飯はなあに?」
コンロに向かう俺の肩に負担にならない程度の体重をかけて俊典さんは付いてくる。そんな暇があるなら荷解きをしろと思うが、これはこれで嬉しい。
「豚汁とおにぎりです。日本食が恋しい頃かと思いまして」
「恋しいなあ。あっちのご飯も美味しいけどね」
「ほら、おにぎり握るから離れてください」
「私も一緒にやりたい。いい?」
「どうぞ」
予定なら七時ちょうどに完成しているはずだった飯だ。俊典さんは上着を脱いで丁寧に手を洗い始めた。
「飯、炊き立てなんで熱いですよ」
「オーケー、気をつける」
俺は焼きたての鮭を皿に移して身をほぐす。俊典さんは慣れた手つきで椀型にした手に白米を乗せ、窪ませたところに鮭を摘んで落として綺麗な形におにぎりを握る。
無駄のない手つきの、指と手を眺めた。
皺が深くなり、肉が落ちて筋が目立つようになった手の甲。艶が落ちてつるりと滑りの良くなった肌。何万、いや何億もの人を救った手が重ねた年月を今更ながら認識する。
「ん?」
不意に顔を上げれば、俺を見下ろす優しい眼差しを取り巻く全てにも刻まれた年月。
「……老けましたね」
「ひどい」
「事実を見たまま言っただけです」
「君はいつまでも若くて可愛い」
「髭のおっさんを捕まえて?」
「髭があってもなくても髪が長くても短くても君はあの日からずっと永遠に私の可愛い相澤くんだよ」
慣れたはずの歯の浮く台詞も、今日ばかりは素直に沁みる。
「早く食べましょう」
「そうだね、温かいうちに。お土産もあるんだよ、君が好きそうな──」
玄関に置きっぱなしのスーツケースを振り返りつつおにぎりを皿に盛り付けようと身を屈めた俊典さんの唇に俺は不意打ちでキスをした。驚いた目の中に俺が映っている。
「腐るものじゃなきゃ後回しにしてください。土産より俺が欲しいものわかってるでしょう」
「……困った。そんなことを言われたら食事をすっ飛ばしたくなるじゃないか」
「俺の飯が食えないと?」
「ふふ。食べる、食べるよ」
「良く噛んでくださいね」
テーブルにおにぎりの皿と豚汁をたっぷり盛り付けた器を運ぶ。箸はもう何年も前に日本各地を巡った時に買った塗り箸だ。物持ちがいい俊典さんに二人で使おうねと言われてから、こんなに長い間使い続けることになるとは思わなかった。
いただきますと手を合わせる。
美味しそうだね、と楽しそうに箸と椀を持つ俊典さんの笑い皺に、やっとこの人が帰って来たのだと俺はようやく安堵した。