無知【オル相】 何も考えたくなくて、適当にカートに入れた本が詰まった段ボールの中の一番上に重ねられていたものを手に取った。文を目で追い、端的な情報として処理していく。
ノートを開き重要そうな部分はメモを取る。一冊目が終わったら二冊目。それが終わったら三冊目。どの本にも共通して書いてあることは最重要事項。本によって説が違うことは併記して状況によって判断することになる。
無心で、努めて無心で行っていた作業の途中で息苦しさに気が付いた。集中のあまり自分で呼吸を止めていたらしい。
そして集中が切れた途端、切り離して知識の蓄積だと行って来た目の前の光景が自分ごととして降って来る。
恥ずかしさが一気に込み上げ、顔を覆って頭を激しく左右に振った。
(そんなんじゃない。これは。万が一があったら、何も知らない私じゃ迷惑をかけてしまうから)
忘れてくださいと彼は二度言った。
最初は、飲み会の席で。
二度目は、部屋から去り行く間際に。
忘れられるわけがない。あんなこと。
なのに彼はあれからいつも通りで、あの夜の出来事が本当になかったかのようで、私ばかりが思い出している。
首筋に近づいた匂いを、触れた体の熱を、持て余した欲を混ぜ合って辿り着いた先の快楽と虚しさを。
あれはなんだったのだろう。
酔った彼は、誰にでもああなのだろうか。
誰にでも、あんなことを、するのだろうか。
考える度にないはずの胃の辺りがぎゅっと痛む。もやもやとした気持ちが出口のない体の中を彷徨って、握り締めた手の中で服がしわくちゃになった。
(万が一って、なんだ)
あの行為の先に何があるかわからない程無知じゃない。でも正確なところは知らないに等しいから、こうして知識を集めるために本を買い漁って勉強して。
(……もう一度、あの相澤くんに逢いたいって。酔って、普段の心の壁が溶けて消えてしまったみたいな彼を包んで、キスして、舐めて、吸って、溶かして、もっと奥まで入り込んで、私が私でなくなるくらいの何かを知って、酸欠になるくらいの全力疾走をして事切れるような目眩く夜を)
「期待しているんだ」
自分のものとは思えないか細い声に自嘲する。
意図せず彼が私の心に打ち込んだ楔はきっと一生抜けない。誰にも抜かせてなるものか。
しかし何も知らなかった私が知識を得た私になったからとて、彼に酒を飲ませて拐かす意気地もない私のままに変わりはなく。
忘れてくださいという言葉が、今日も呪いと祈りの間で無知だった私の記憶を揺さぶり続ける。