トワ【オル相】「……もしもし」
相澤がスマートフォンの画面に出た名前を見た瞬間僅かに眉を寄せた。それは予期せぬ相手だった時に見せる反応に似ている。ただ、会話を始めた声色はポジティブともネガティブとも言えない。ただ戸惑っている、それが口調に強く現れているとオールマイトは感じた。
相澤はオールマイトちらりと見て席を立った。
ソファで隣に座って本を読んでいたオールマイトは電話が緊急の呼び出しではないと悟り、遠ざかる風呂上がりの黒髪を見遣ってから本に視線を戻す。
玄関近くまで歩いて行った相澤が戻ってきたのは十分ほど経ってから。どうにも煮え切らない顔で、むにゃむにゃと口元に「どうしようか」という迷いを浮かべている。それはオールマイトに助けを求める仕草ではなかったし、視線はチラともこちらを見ない。下からむにりと指で唇を持ち上げて、次第に眉間に皺まで寄って来る。どすん、と腰を下ろしたソファが予想以上に跳ねて、一瞬バランスを崩して思考の海からはっと浮かび上がった相澤の腰にオールマイトは手を回して支えた。
「すみません」
「どうしたの。難しい顔して」
「……昔の知り合いから、ちょっと相談されまして」
昔の知り合い、という単語は便利だ。そのままにも、違う意味にも取ることができる。
どちらで読み解けばいいのかとオールマイトが黙っていると、裏を探られたと思ったのか相澤は溜息を吐きながらぐしゃりと髪を掻き回した。
シャンプーの香りがふわりと漂う。
「ストーカーに狙われてたことがある人なんですが。一時期、ガードのために俺が恋人のふりをしていたんです」
「恋人」
「のふり」
オールマイトが意図的に止めた言葉の続きを相澤は間髪入れず紡いだ。わざとだろ、とじろりと睨む視線がオールマイトの表情を見て翳る。
「……その方が、何の用だい」
ざわつく心を押し留め、オールマイトは感情を乗せないようにして淡々と尋ねた。
「また狙われているようだからガードを頼めないか、と」
プロヒーローへの依頼なら、オールマイトが口を出すことではない。ないけれど、それはつまり相澤が他の誰かの恋人役をするということだ。
(……それは嫌だけど、依頼で。ふりで。本人でもない人間の私情で邪魔するものじゃない)
オールマイトは何も言えなくなって黙り込み、顔を手で覆う。
「オールマイトさん」
「ごめん。今口を開くと大人気ないことを言ってしまうから、少し時間をくれないか」
みっともないところは見せられない。年上として、恋人の過去の恋愛遍歴に何も言ってはいけない。手の届かない過去に女々しさや悋気を見せたところで事態は好転するわけがないのだから。
しかし、ふと交わした会話が今になって実感を伴って蘇る。思い出したままにぽそりと口にした。
「……その彼女って、前にマイクくんが君の元カノって言ってた、東京にいた頃の病院かどこかで事務をやってたっていう清楚な女の人?」
チッと舌打ちが聞こえる。オールマイトの耳に入った瞬間、マイクめ余計なことを、という自動翻訳がなされたけれど、そうです、と相澤は不承不承頷いた。
「君はふりだと言ったけれど、周囲はそう思ってなかったんだね」
「……どこから秘密が漏れるか分かりませんでしたし」
「ということは、彼女側から見たって、君はちゃんとした元カレだ」
「否定はしません」
(元カノさん、再びストーカー被害に遭っているのが本当だとしても何年も経っているのにまた相澤くんを頼るのか)
「オールマイトさん」
オールマイトは乱れた気持ちのまま、しおりも挟まず本を閉じた。
「困っているのなら助けてあげたらいい」
「怒っているんですか?」
「いや。自分の心の狭さに辟易しているだけだよ。君に八つ当たりしてしまいそうな自分に嫌気が差してる。先に休むね」
相澤は席を立つオールマイトを止めなかった。黙って見送る相澤がどんな顔をしているかも見ることなくリビングを去る。
愛し合うはずだった大きなベッドの上に一人体を横たえ、枕元の淡いオレンジのライトが仄かに照らす天井を見上げて、結局大人気ない態度を取ってしまった恥ずかしさにじたじたと顔を押さえて身を捩った。
(ああもう私ただの嫉妬深いみっともないおじさんでしかなかった!過去にぐじぐじ言うなんて、そんな何の解決にもならないことしちゃった!でも元カノさん、相澤くんとヨリ戻したくて電話してきた可能性はゼロじゃないよね?!でもそんなこと言っても相澤くん絶対信じないし、だからってダメなんて私が口出しすることじゃないし……)
堂々巡りの思考は、結局自分の感情より相澤の決断を支持する方に回る。恋人はプロのヒーローなのだ。
助けを求められたら、応えて欲しいと思う。
かちゃり、とドアノブが回る。
相澤がゆっくりと入って来た。
「……起きてますか、オールマイトさん」
他に誰もいないのに潜められた声は、申し訳なさを纏って床に落ちた。
オールマイトは寝転んでいた上半身を起こす。
「起きてる。ごめんね。みっともないところ見せて」
「……いえ。彼女の件は、ファットに頼むことにしました」
「ファットくん?」
突然出て来た名前にオールマイトが目を丸くした。
「彼女、今大阪に住んでいるので。そもそも俺が駆けつけることのできない距離でストーカーに対し恋人のふりをするのは合理的じゃありません。勿論ファットにも恋人のふりを頼むのではなく根本的な解決を依頼します」
「なるほど」
護衛がメインなら距離は何より大切だ。
「それに……今の俺にはあなたがいますから。あなたに苦しい思いをさせてまで俺がまた彼氏のふりをするのは合理的じゃないでしょう」
ぱちくりと瞬きを繰り返すオールマイトに相澤は都合が悪そうに目を細めて唇を尖らせた。
「ちゃんと言いましたよ。恋人がいるから今はその嘘は吐けないと」
「言う必要はなかったろう?ファットくんに保護を頼むのなら」
「護衛をという依頼にならね。それは、俺に、という指名に対する誠意ある回答のつもりです」
「……そう、か」
気がつけばベッドが軋んで目の前に膝をついた相澤がいた。
「恋人のふりですから、腕を組むくらいはしましたけど触れ合ったりそういうことは一切していません」
「……うん」
毒気を抜かれたオールマイトの前で相澤は言葉を重ねる。
「……交際の誤解をしている人はそれなりにいるでしょう、でも」
「うん」
オールマイトは相澤の髪に手を差し入れ後頭部を押し下げる。幾億の言葉より触れ合わせた唇の奥に真実はある。絡めた舌に吸い付く力が強くて、オールマイトはそのまま体を反転させ相澤の背中をベッドに押し付けた。
「君の今の恋人は私だ。それだけでいい」
「オールマイトさん」
「君の過去に心揺れる弱い男でごめんよ」
「……あんたも、妬いたりするんですね」
新しい面を垣間見るのは面白かったと言わんばかりに茶化した視線を送る相澤の目を手のひらで覆って隠す。
「妬くさ」
「あんたのものですよ。今も、明日も、ずっとあんたが望む限り」
「なら、確かめなくちゃ」
首筋に齧り付いて吸い上げる。相澤は怒らなかった。