許可を求めています【オル相】 カリカリカリ。カリカリカリ。
幻聴かと思った。
寮の自室で持ち帰りの仕事のためにパソコンに向かっていたら、廊下の方から変な音がした。時刻は深夜だ。一度目は顔を上げて視線で音の出所を探る。元々テレビもないこの部屋では、静寂の耳鳴り以外に聞こえるものはない。息を潜め、上げた視線を止めたままにする。部屋の灯りの届かない、玄関の暗がりをじっと見つめた。
カリカリカリ。カリカリカリ。
やはり確かに音がする。幻聴ではないらしい。
俺は作りかけのファイルの保存ボタンを押して立ち上がった。足音を消して玄関に近づく。人感センサーのダウンライトがぽっと闇を照らした。
音は、外から聞こえる。
正確には、玄関のドアの、廊下側から。
「……誰かいるのか?」
イタズラにしては意図の読めない音に呼びかけ、返事がないのを確認する。
ドアノブを握ってそっとドアを開けた。
隙間には見慣れた廊下が見えるだけ。
「……っ?」
視界の外から足元に何か纏わり付いた。感触にハッと下を向くと、豊かな毛の猫が俺の左足に尻尾を絡ませながらくるくると回っている。
「ね、こ?」
「にゃあ」
あのカリカリという音は猫の爪が扉を引っ掻く音だったのかと納得したと同時に、新しい疑問が湧き出た。
雄英の敷地内に野良猫が出入りするのはまああることだ。野良とはいえ識別番号は振られていて、センサーに引っかからないようになっている。幾度と無く俺はこっそりと野良猫に餌をあげて来たが、こんな毛並みの猫は見たことがなかった。とはいえ、敵の罠なら何かしらの防衛措置が発動しているはずだ。
しかしここは寮の三階だ。
玄関の隙間を縫って入り込み、階段を登ってピンポイントでこの部屋に辿り着いたとは考えにくい。
罠か偶然か判断しかねるまま、甘え続ける猫に手を伸ばした。
「……」
前足の付け根から手を差し入れ抱き上げる。
猫はさしたる抵抗もせず、黙ってぶらりと垂れ下がった。
じっと顔を見る。
茶トラというには淡い色の毛をして、とにかく毛量が多い。そのくせどこか毛がダマになっている訳でもなければ、不潔な感じもない。整えられている容姿から、野良では無さそうな印象を受けた。
「飼い猫……でも首輪はねえのか」
「にゃあ」
迷子なら明日届け出ればいい。時間はもう深夜だし、今から飼い主を探しに出るより明日の朝から動いた方がいいだろう。
綺麗な青い目をした猫は、俺に抱き上げられて緊張している様子もなく、だらりと全身の力を抜いたままだ。
「お前、もう少し緊張感を持ちなさいよ」
よいしょと赤ん坊を抱くように持ち替えてぽんぽんと背を叩いた。途端にごろごろと喉が鳴り始める。
「警戒心無さすぎだろ……」
腕の中に湯たんぽを抱いた瞬間とろりと眠気が襲って来た。昨夜も二時間ほどしか寝ていないし、今夜も今から眠ったとしても三時間眠れれば良い方だ。
眠気覚ましに片手で眉間をぎゅっと押して揉むと、にゃぁと猫が呑気に鳴く。
部屋に戻ってベッドに降ろした。猫はふんふんと枕と布団の匂いを嗅いで、俺を見上げてにゃあと鳴く。
まるで、一緒に寝ろと言わんばかりに。
「ま、いいか」
どうせ明日にはいなくなる猫だ。一晩くらいぬくみを借りたところで、バチは当たるまい。
俺はノートパソコンを閉じ、大きなあくびと共にベッドに体を滑り込ませた。猫は匂いを嗅ぎつつ、枕に頭を乗せた俺の顔に鼻先を擦り付けた。擽ったい毛の感触だけれど、まるでくちづけめいたそれにあっけに取られた隙に猫は布団の中に入り込み俺の腰の辺りで丸くなる。
布団を持ち上げて覗き込めば、暗闇の中で目が光った。
「……おやすみ」
「にゃ」
人の言葉を理解しているような返事をされて、俺は目を閉じるとあっという間に眠りに落ちた。
次に襲って来たのは圧迫感だ。
猫が腹の上にでも乗っているのか、と思いながら目を開け、隣にあった視界一面の肌色に目を見張る。
「は、」
何が起きたのかわからず体を強張らせた俺の隣で、呑気なあくびと共に体と腕を猫のように伸ばして上半身を起こしたのはオールマイトさんだった。
カーテンの隙間から差し込む朝日に煌めく髪の色が、昨夜の猫の毛色を彷彿とさせた。どこかで見た色だと思ったのはこのせいか。
「あ、おはよう相澤くん」
「……昨夜の猫、あんたですか」
オールマイトさんはご名答と口にする代わりににっこりと笑って頷いた。
「助かったよ。まさか寮に帰って来てから猫になっちゃってさ。遅効性の個性事故だったんだろうなあ。仕方ないから助けを求めにドアノブにしがみついてなんとか開けたら……ほらここ、オートロックじゃない?キョロキョロしてるうちにドアが閉まっちゃって、でも鍵なんか持ってないし持ってても猫の手じゃ開けられるわけないし、廊下で途方に暮れて君ならまだ起きてるかなってワンチャン助けを求めに来たんだ」
「……そうですか」
毛並みがやたら艶めいていたのも、突然謎の猫が寮内に現れたのも、オールマイトさんが変身していたのだとわかれば辻褄が合う。
「バスタオル貸しますから、部屋に戻ってください」
俺は大の男二人が寝るには狭いベッドの足元から落ちるように抜け出て、うちにある一番でかいバスタオルを布団に包まったままのオールマイトに差し出した。
見える範囲裸なのは猫になっていたからだろう。ならばきっと、布団の中も全部裸に違いない。
「ありがとう」
オールマイトさんが立ち上がり腰にバスタオルを巻くのを体の向きを変えて視界から外す。
「出勤したら念の為ばあさんにチェックしてもらってくださいよ。一過性のものならいいですが」
「そうするよ。一晩の宿、どうもありがとう」
変色した傷痕にどうしたって視線は向いてしまう。それを断ち切って俺はぺたぺたとフローリングを裸足で歩き玄関に向かうオールマイトさんの後を追った。
「猫になったのに自我は保ててたんですね」
「君の言葉もわかったよ。あんな優しい顔するんだね」
「そんなことはありません」
「猫だったら君にこんな甘い顔してもらえるのかと思ったらしばらく猫でもいいと思ったくらいさ」
「だからそんなことは」
そこまで言いかけて俺はふと昨夜の記憶の引っ掛かりにつまづいた。
自我を保て、自分の意思で行動できたオールマイト。
寝入り際のあの、謎の唇への接触はなんだったのか。
はっと顔を上げた俺の表情の変化に、何に引っ掛かったのか見透かした顔をしてオールマイトさんは目を細めた。
「……猫なら許してくれるだろ」
ああ、故意なのか、と、思う。
気の迷いでも事故でも無く、ましてや個性事故の解除要件でもないなら、あれはオールマイトさんの確固たる意思のもとに寄せられた唇なのだと。
「猫のうちにもう一回くらいしておくべきだった」
「猫と人のキスは感染症の点から避けるべきです。どうしてもしたいのなら人型の時に俺に許可を取った上でどうぞ」
「え」
「お帰りはそちらです」
ドアを開けてオールマイトさんを押し遣る。狼狽えたままの表情が閉じたドアの外へ消えた。
俺は玄関に立ち尽くしたまま、額をドアにぶつける。冷たさが心地良い程に顔が熱い。
取り返しのつかないことを言った気がするが、そんなことを言わせたのはオールマイトさんのせいだ。
俺は悪くない。
ポン、とベッドの上のスマートフォンから通知の音がする。許可を求める何かだったらどうするべきか答えあぐねたまま俺は玄関から、布団が乱れたベッドをぼんやりと眺めていた。