この問に応えてみせよ こんな時でも涙は一滴も出ないのだと、丹恒は誰よりも両親に近い位置に座りながら思う。数日前に旅行に行くと出かけた二人の姿が最後に見る姿になるなどあの時の丹恒は思ってもいなかった。
特別良くも悪くもない至って平凡な家族だったと思う。
小さな頃は親戚でよく集まり、従兄と遊び、家族に報告して。そんな幼少期の中でも嫌な記憶というものは一つも無く、小学校や中学校でも嫌なことなど一つもない。
なのになぜ目の前で棺の中で眠っている姿を見て涙は流れてこないのだろうか。
「……まだ、高校生らしい」
「どうしましょう、うちは難しいわ」
「俺の所だって面倒等みれないさ」
がやがやとまわりの大人たちの声が聞こえてくる。自分のことなのだろうと無意識に判断をして、丹恒は顔を歪める。
小さな小さな声で丹恒に聞こえないように声を潜めながら「両親が死んだのに涙さえ流さないなんて」という声すら聞こえてくる。
自分ですら思っていたことに自嘲気味に笑みがこぼれてしまいそうだった。そんなことは誰よりも自分が思っている。なぜ、涙の一つも出ないのだろうと。
表情が乏しいとは昔から言われていたが、こんな時くらい出てもおかしくはないはずなのに。自分は何かが欠けているのだろうか。
このまま此処に居たところで自分を引き取る者等見つかるわけがない。高校二年生の丹恒ならば、何かしら手続きさえ済ませてしまえば一人で生きていけるかもしれないとゆるゆると顔を上げた。
「余が引き取ろう」
丹恒が何か声を出す前に、他の誰かの声が聞こえてくる。聞いたことのある声に声の主の方へ視線を向け、何故…と小さな声で呟く。
小さな頃はよく遊んでいた。親戚の集まりでは必ずと言っていいほど一緒に居たし、自分から彼の姿を探して後ろをついて歩いたりもしていた。
だが、ある日を境に丹恒のことを視界にすら入れなくなり親戚の集まりにすら来なくなったはずだ。そんな彼がどうして、丹恒を引き取るというのか。
「…丹楓」
「家の片づけもあるだろう? それくらいならば此処に居る者達ですぐ終わる筈だが?」
名前を呼ぶとちらりと一瞥をくれる。随分と久しぶりに丹楓と目が合った気がした。
丹楓の言葉を聞いた大人たちは皆が近くに居る者達と顔を見合わせると重たい腰を上げた。
何をどう片付ければ良いのかわからず、呆けたような顔で丹楓のことを見つめていると丹楓が丹恒の前に腰を下ろす。
「其方の荷物は何処にある?」
「…二階の、部屋だが……」
「数日寝泊まりできるだけの荷物を持ち、玄関へと来い」
何故そのようなことを言うのかわからないが、このまま此処に居ても仕方がないと丹楓に言われた通りに部屋へと向かう。
寝泊まりできるだけの荷物というと、着替えと教材等だろうか。引き出しから手前にあったものを選び鞄の中に詰めていく。
小さな旅行鞄に仕舞いこんで、丹恒はちらりと自分の部屋を見回してから部屋を後にした。
「来たか…やけに少ないな」
「着替え等があればいいのだろう?」
「まあ良い、乗れ」
テレビで流れる度に父親が「この車は高くて、俺には買えない」と言っていた白い外国製の車の助手席を開けられ、丹恒は荷物を後部座席へ置くと助手席へ腰を下ろした。
この従兄と会わなくなって時間が経ってしまっているせいだろうか、自分よりも年上だったのだと実感してしまう。
白壇のような香りがする車内に何故だか安心してそっと息を吐き出した。
何かを話すこともなく、丹楓が運転する車に乗り普段は通らない高級住宅街を抜け大きなマンションの駐車場へと入っていく。車を停め、降りていく丹楓の後ろを荷物を抱え直してついていく。
丹楓はオートロックの鍵を開け、エレベーターの最上階のボタンを押す。その間とくに何かを話すこともなく、エレベーターの起動音のみが響き丹恒は丹楓の顔へともう一度視線を向けた。
「今日から其方も此処で暮らすのだ」
「…此処にか?」
「そうだ、其方一人ではあの家は管理が難しいだろう」
エレベーター迄ついていって今更かもしれないが、丹恒は丹楓が引き取ると言っていたこと事態が半信半疑であった。あの時は誰かがそう言わなければいけないようなそんな空気ではあったので、丹楓が気を使っていたのではないかとそう考えていたのだが。
最上階についたエレベーターから降り、丹楓が玄関の扉を開けても丹楓が言葉を撤回することはなかった。
「其方が増えた所で、部屋はまだ余っておる。余の仕事部屋の隣の客室を使え」
部屋の扉を開けられ、中へと入る。ベッドとサイドテーブル。勉強ができるような机がるのみで部屋の中の物は少ない。
此処でこれから暮らすのだろうか。それならば、丹恒が元居た家はどうなるのだろうか。
丹楓は丹恒には管理が難しいと言っていたが、まさか売り払われてしまうのだろうか。
大きな家ではなかった。小さな家ではあったが、そこそこに思い出はある家だったと思う。思い出ごと手放さなければならないのだろうか。
「――――、丹恒」
「……なんだ」
丹恒へ視線を向けていた丹楓が小さく息を吐き出した。丹恒が抱えたままだった荷物を手に取るとベッドへと置く。
「泣きたいのならば泣けば良いだろう」
丹楓の言葉に丹恒は目を見開く。別に泣きたいとは思っていない。自分は涙さえ出ないのだと、さっき自分自身に自嘲していたのだ。涙など、目には浮かんでいないはずだった。
「…泣きたいわけではない」
「…堪えるということは誰にでもできることではない。だが、泣きたい時に涙を流さぬのは毒でしかないだろう」
「俺、は」
丹楓の手がゆっくりと伸ばされる。避けることも拒否することもできるのだが、体は動かず丹楓の指先が頬に触れた。
「泣けば良い、丹恒」
するり、と丹楓の指先が撫でるように動く。強い言葉では無い筈だが、何故か息を飲んでしまう。目元が熱くなるのを堪えるようにく、と唇を噛み丹楓の肩に額を乗せた。
じわりと丹楓の着ている服が濡れていくのを感じながら、丹恒は息と一緒に堪えきれない嗚咽を吐き出した。
どれくらいの時間そうしていただろうか。後頭部に丹楓の手が置かれていることを感じて丹恒は顔をゆるゆるとあげた。人前で泣くなど小さな時以来で、恥ずかしさすら感じる。
「もう良いのか」
「…すまない、見苦しいところを見せた」
「見苦しく等ない、手洗い場は出てすぐの所にある。冷やしてこい」
「ああ」
丹楓が差し出してくる手ぬぐいを受け取り、部屋を後にする。
言われた通り手洗い場は部屋を出てすぐの所にあり、自動で水が出る形になっていた。手ぬぐいを濡らしがら丹恒は胸につかえていたものが取れていることに気づき、ふ、と息を吐き出した。
涙が出なかったわけではなく、涙の出し方がわからなかっただけなのだと丹楓に教えられた気分だった。哀しくなかったわけでもなんでもなく、ただただ本当に不器用なだけ。
なぜか丹楓に「泣けば良い」と言われた瞬間、自分でも驚く程簡単に涙が溢れて来たが。それだけ我慢をしていたのだと納得して、湿らせた手ぬぐいを目に押し当てた。
手ぬぐいを何度か濡らし、押し当てることを繰り返した後部屋に戻ってみると丹楓の姿は既にそこにはない。
一軒家とは違いマンションよりも狭いだろう、部屋を覗き込みながら丹楓を探す。丹恒の隣の部屋は仕事部屋だと言っていたのでそこと、手洗い場を除いて恐る恐る扉を開け色々な部屋を覗いた。
どこも物が少なく、丹楓が言っていたように部屋が余っているというのも嘘ではないように思える。ならばやはり丹楓が言っていたようにとこれから共に暮らすということになるのだろうか。
最後にリビングへの扉を開け中を覗き込むと大きなキッチンの方で冷蔵庫を開けている丹楓の姿が見える。
「丹楓」
「もう良いのか」
「ああ、すまない…手間をかけた」
「その程度、手間という程でもないだろう…此方へ寄れ、見せてみろ」
丹楓の言葉に従い、丹楓の傍に近寄る。冷蔵庫の中を見ていた視線が丹恒の方を向き、指先が伸びてくる。
「…っ」
「まだ少し紅いな」
「もう、大丈夫だ」
「明日もまだ学校には行かぬであろう? 療養せよ」
「そこまでひどいものではない」
つ、と目元をなぞられくすぐったさに片目を閉じる。丹楓はこんなに優しかっただろうかと不安になってしまう程に気遣われている気がしていた。
両親を亡くし間もないこともあり気遣ってくれているのだろうと理性は言っているが、視線すら合わなくなり顔も合わせなくなった丹楓の小さな頃の姿が脳裏を過る。面影もあるので、同一人物であることは確かなのだが、本当に丹楓なのだろうか。
「丹楓、聞きたいことがある」
丹楓が殊更優しく感じてしまうのは丹恒の気のせいなのかもしれない。葬儀が終わった直後なので、そう感じてしまっているだけだろうと丹恒は納得し、これからのことを丹楓に相談すべく名前を呼ぶ。
「ダイニングの方で話そう…先にルームサービスを頼むが、食べたいものはあるか?」
「…とくにはないが」
「そうか」
何処かへと電話をかけ、横文字の聞きなれない料理の名前を何個かあげた丹楓の姿に此処は高級マンションで自分はやはり場違いなのではないかという気持ちにすらなるが、電話を終えた丹楓に導かれるままダイニングの椅子に座り顔を見合わせてしまった。
「聞きたいこととは?」
「俺のことだが、本当に此処に住むのだろうか」
「先ほども言ったがその問の答えは是だ。弁護士にも伝えてある」
「……迷惑ではないのか?」
丹楓が実家を出て一人暮らしをしていることを知らなかったが、未だ高校生である丹恒が此処で暮らすことは丹楓にとって重荷になるのではないだろうか。
「其方一人を養うくらいの蓄えはある、その点についても問題は無い」
「だが…」
「……其方が気にするのであれば、家事を分担しよう」
「家事…」
丹恒はおとがいに指先で触れ考える。家に居た頃は家事等したことはなかった。両親が気づいたらしてくれていたので当たり前ではあるのだが、丹恒にとって家事というのは小さな頃に習った家庭科の授業以来だと言えるだろう。
簡単にできることではないと思う。だが、何もしないまま丹楓の元で暮らすのは気が引ける。それならば慣れずとも丹楓の手伝いをしたい。
「わかった」
「基本的なことは余が教えよう」
「よろしく頼む」
「他に聞きたいことはあるか」
「……家の、ことだが…」
丹恒が居なくなればあの家に住む者が居なくなってしまう。誰も住んでいない家をそのままにしておくことは良いのだろうか。
「其方が成人するまでは、弁護士を通じて余が手入れをしよう。成人した後は其方の好きにするが良い」
「…家に寄りたい時は寄ってもいいのか?」
「無論だ、あれは其方達の家だろう」
「そうか」
あの家がすぐに無くなってしまうわけではない。それだけで丹恒の心の中は少しだけ軽くなったような気がした。
「他にはあるか」
「いや…、今は思い浮かばない」
「そうか」
丹楓はそう言うと椅子を引き、キッチンのカウンターの上に置かれていた小さなカードを持ち戻ってくる。
「此れを其方に渡そう」
「…これは」
「余のカードだ、暗証番号は其方の誕生日になっている」
「こ、これは、受け取れない…!」
差し出されたものは黒色をした小さなカードではあるが、これが所謂クレジットカードなのだと丹恒は気づいていた。両親が買い物をするときに使っているのを見たことはあるが、丹恒自身が使ったことはない。
これ一枚で数千円から数万円まで動かせてしまう、それもその金の出どころは丹楓の銀行からだろう。そんなものを受け取るわけにはいかない。
だが、丹楓も引くつもりはないのかカードを仕舞う素振りはなくじっと丹恒の方へと視線を向けてくる。
「勘違いをするな、此れは食材等これから住むにあたって必要なものを買うためのものだ。其方がどうしても必要とするものがあるならば此れを使っても構わぬが、基本は生活費だと思え」
「…生活費」
「余が外に出れぬ時に、食材の調達等を頼む際に必要だろう」
「……そういう理由ならば、わかった」
丹恒は丹楓の手からカードをおずおずと受け取ると、傷をつけないように大事に手のひらで包み込む。こんなに小さな物なのに、どんなものよりも高額に見えてくる。
丹恒が受け取ると同時に、チャイムの鳴る音が聞こえ丹楓が席を立つ。先ほど頼んでいたルームサービスとやらが届いたらしい。
ワゴンで運ばれてきたそれに目を瞬かせながら丹恒は丹楓の方へ顔を向ける。
「食べられる範囲で良い、其方は食事をとり、早く休め…後のことは明日話そう」
丹恒の前に料理とカトラリーを並べ終えた丹楓はそれだけを言うと部屋を後にした。仕事でもあるのだろうと、丹恒は目の前の料理へと目を向ける。
カトラリーの使い方等わからないが、とりあえず食べれるものを食べようとフォークへと手を伸ばした。