丹楓さんと丹恒くんのお話 聞こえてくる波の音に瞼をゆっくりと持ち上げる。
普段と変わらぬ開拓の旅で、星がどこからともなく拾ってきた資料をアーカイブにまとめそのままアーカイブ室で眠っていた筈。波の音が聞こえるような場所にはいなかったとは思うが、と辺りを見回すが波の音が聞こえてくるのみで景色は不明瞭なままだった。
一歩を踏み出しても己が今何処にいるかもわからなければ進んでいるのかどうかもわからない。
早々に此れは夢であると判断をし、この夢から覚める為になにをすべきか考える。
だが、状況もわからない現状では案は浮かんではこなかった。
「丹恒」
聞き覚えのある声に呼ばれ、振り返る。そこにあるのは変わらない不明瞭な景色だけで人の姿はない。
記憶の中から声の主の名前を探す。普段呼び合うような名前ではないが、自分とは切っても切り離せない存在の名前だ。
「丹楓」
「鱗淵境へと来い」
「突然なんだ」
「今すぐだ…酒も忘れぬように」
「丹楓!」
姿も見えぬ存在は言いたいことだけ言い終えると黙り込んでしまう。それどころか、徐々に意識が浮上し夢から覚めるように促してきた。
自分があの夢を見ていたのは丹楓によるものだと気づき、心の中で大きく息を吐き出す。一方的に夢で呼びつけ、消えていく。どこまでも夢で見る記憶の中の姿と変わらない。
はっ、と息を吸い込み目を開けるとアーカイブ室の天井が見えゆっくりと体を起こした。
「鱗淵境…と、酒、だったか…」
誰かの気配は感じるのに誰の姿も見えない夢というのは思いのほか精神的にくるものがあったらしく、薄らと汗が滲んでしまっていた額に手を当て汗を拭うと寝る時に脱いだ上着を羽織る。
酒は鱗淵境に向かう途中に買っていくことにしよう。
夢の中で見る丹楓は酒の味には厳しい印象があった。この列車には碌な酒はないので、羅浮で高すぎずそれでいて安すぎない酒を買う事にしよう。
どのような酒を好んで飲んでいたのかは生憎と夢の記憶ではわからなかった。
列車を降り、羅浮へと入ると既に夜更けの遅い時間なせいか灯りのついている店は昼間よりも少ない。酒が売っていそうな店を探し、店主へと声をかける。
酒の良し悪しは生憎とわからないので、店主のおすすめを一本購入し、人目につかないように鱗淵境へと向かう。
波の揺れる音が耳を撫で始めた頃には、鱗淵境の龍尊の像の傍で腕を組んで立っている丹楓の姿が見えていた。
「来たか」
「……丹楓」
丹楓の姿を見て知らず警戒してしまったのは、いつかの時此処で一戦を交えた記憶が残っているからだろう。
体を強張らせた俺に丹楓はゆるりと手を挙げると何もしないと主張をしてくる。
「裁くつもりも鍛錬もするつもりも余にはない」
「……信じられると思うのか」
「するつもりならば酒を頼むはずがないだろう」
「………」
片手の持った酒器へと視線を落とす。動揺で手を小さく揺らせば中酒がちゃぷりと揺れた。
普段の俺であれば警戒を解くことはないだろう。だが、目の前のこの男の言は嘘を言っていないのだと無意識にわかってしまう。
丹楓の経験を夢で見た回数は数知れず、この男がそんな嘘を言うような男ではないのだと夢の記憶が伝えてくるからだ。
はぁ、と息を吐き出し丹楓の隣へと歩み寄る。ちゃぷ、と揺らしながら酒を手渡せば礼を言うでもなく其を受け取り、何処から出したのか盃に酒注ぎ始める。
「此方は其方の分だ」
「俺も呑むのか」
「余が呑むだけならば、其方を呼ぶことなどせん」
酒が注がれた盃を受け取り、視線を落とす。ゆらゆらと揺れ続けている水面には夜空の月が映り込んでいる。
これが月見酒というのだろうと、視線を空へと戻すと丹楓が盃に口を付けているのが見えた。
「…ふむ、悪くはない」
「そうか」
酒のことなどわからず店主に任せたのは正解だったらしい。口に合わないと言われるよりも余程良い返答に、ふっと小さく息を吐き出すと丹楓の視線が此方へと向けられる。
「其方も呑め」
丹楓の言葉に手に持っていた盃に視線を落とした。揺らせば水面の月もゆらゆらと揺蕩う。
酒を呑む機会が全くなかったわけではないが、そこまで多い量を飲んだことはなく目の前の丹楓に比べれば酒を嗜む機会も少なかっただろう。
だが、呑めないわけではない。
瞳を閉じ、盃に唇をつける。
僅かに口の中へと流れ込んだ独特の味を舌の上で感じながら、こくりと喉を動かした。
「意外と呑めるようだな」
「…そこまで強くはない」
「そうか」
お互いどこを見るでもなく手元の盃や夜空の月を眺めながら酒を呑み続ける。
酒器から次の酒を注いでいた筈の丹楓の手が止まり、酒器を置く。
睫毛を震わせながら瞳を閉じ、再び開いた瞳で手元の湖面の月を眺めているようだった。
「月を見ながら嗜む酒は悪くないだろう」
丹楓の言葉に己の手元の盃へと視線を落とす。
先ほどよりも僅かに時間が経ったからだろうか、映り込んでいた月の位置が変わっている。この月も隣に居る丹楓は見ているのだろう。
己の手の中にある小さな月を見、次いで夜空に浮かぶ月へともう一度視線を向ける。
誰かと月を見ながら酒を呑むのは、初めてかもしれない。
とくに羅浮の鱗淵境でこんなゆったりと酒を呑むなど、今まで考えたことすらなかった。
隣で盃に口を付けている丹楓にならい、己も盃に口を付ける。
先ほどと同じ酒を呑んでいるはずなのに、先ほどよりも飲みやすく感じてしまうのは何故だろうか。
「丹楓」
俺から丹楓に声を掛けたのは、何回か盃を傾けた後だった。程よく体に酒精が回っていると感じながら、丹楓の方へと視線を向ける。
「何故、俺を此処に呼んだんだ?」
どうしても気になっていたことではあった。
あの日、俺は丹楓に、俺の未来は己で開拓すると、俺の未来の姿は丹楓ではないと告げ、振り返らずに進めと言われた、あの日。
あの時に消えてしまった筈の丹楓がどうして俺を呼んだのだろうかと、酒を呑み始めた頃から気になっていた。
盃へと視線を落としていた丹楓の視線がもう一度己へと向く。
表情から感情を読み取ることはできない。
「龍尊の伝承を経ち、己の、丹恒としての道を行くと言った其方のことが余は気にかかっていた」
丹楓の手がゆるりと此方へと伸ばされる。
なにをするのだろうかと体を強張らせたが、髪にだけ触れ丹楓の手は離れていく。
しかし、丹楓の手が触れた刹那に姿が本相に戻ってしまい髪は長くなり角が顕現する。
何故こんなことをするのかわからず、目を見開くと目の前の男は小さく息を吐き出しながらそれでも緩く笑みを浮かべているようにも見えた。
「祖の力は強力ではあるが、万能ではない。己の道を進むという其方の未来は悔いのないようにしろ」
丹楓の言葉を俺により早く届ける為なのか、どうしてかはわからないが丹楓が言葉を紡ぐのと同時に緩く風が吹き俺と丹楓の髪がふわりと揺れる。
ああ、つまりこの男は。
あの日、丹恒としての道を選んだ俺の今後を気にかけていた、ということなのだろうか。
其れは普段悪夢の中で見る丹楓の姿とは違い、穏やかな夢の時に見かける丹楓の姿と何処か酷似しているような気がして瞼を伏せる。
この男は冷徹ではあるが、冷酷ではない。民のことを、仲間のことを想う心があったのだろう。
「丹恒」
名を呼ばれ、丹楓へと視線を向ける。やはりどれだけこの男の顔を見ても、どのような感情で今の表情を浮かべているのかまではわからない。
「其方は何故此処に来た?」
丹楓の言葉に、俺はようやく鱗淵境に来るという選択肢の他に丹楓の言葉を聞かないふりをし来ないという選択肢もあったのだと気づかされる。
夢の中で鱗淵境に来いと丹楓に告げられた俺はそこまで考えていなかったというのが正しいが、どうして俺は来たのだろうか。
手元に残された湖面の月を見つめ、考えをまとめる為に瞼を閉じる。
来ないとは始めから考えていなかったはずだ。
呼んだ理由が気になったというのも確かにある。だが、それ以上の理由がある。
あの日、俺に一言を告げ消えていった丹楓のことが俺も気になっていたんだろうと。どのような存在としてあの場に現れたのかわからない丹楓が、あれを最期に姿を見せなかった。それが俺は無意識に気にかけていたんだろうと。
閉じた瞼を震わせながら開き、丹楓へと視線を向ける。
此方を射貫くようにじっと見つめる視線を受けながら、俺も視線を外すことはない。
「お前が気になっていた」
ゆるゆると開かれた丹楓の瞳が、伏せられ、ふっ…と小さく笑みを零す。
「そうか」
丹楓はその言葉だけを言い、それ以上のことは何も聞いてはこない。
丹楓が再び手元の盃を揺らす姿に、己の盃へ次の酒を注いだ。
「其方は盃を交わしたことはあるか」
丹楓の言葉に、酒器を置き視線を向けるとす…と丹楓の盃が差し出される。
夢で何度か見た光景ではあった。盃同士を触れさせ、その後に酒を呑む。
此れが盃を交わすということなのかはわからないが、丹楓の盃に己の盃を触れさせ、口へと含む。
同じ酒を呑んでいるはずだが、一番口に合うのではないかと思ってしまったのはなぜなのだろうか。
「この酒器が空になるまで、暫し余に付き合うが良い。丹恒」
「…俺はあまり吞めないぞ」
「ふ…、わかっておる」