幕間の楓恒㊵ 額に触れてくる冷たい手の感触にゆっくりと瞼を押し上げながら、自分の意識が現実世界にいないことは薄々と気づいていた。
アーカイブ室という誰でも入れる場所で寝起きをしているが、寝ている自分に触れてくる者などピノコニーに降り立った仲間達の代わりに列車の留守を任されている今はいないと気づいていたからだ。
ならば、誰が自分に触れているのか。
ひんやりとした其は誰の手なのか。
己が丹恒としての意識をもった時から感じている其が誰なのか気づかないわけはなかった。
「…丹楓…」
「もう少し警戒をしたらどうだ」
すぐ目の前にあった顔をぼんやりと見つめながら名前を呼ぶと、呆れたように息を吐き出しながら額に触れていた丹楓の手が離れていった。
生まれた時から寝ている時は夢の中で。起きている時は心の中に居た丹楓に今更警戒もないだろうと俺も息を吐き出しながら、其れを告げることはせずにゆっくりと体を起こす。
一本の楓の木と、足先だけを濡らすような水と、散見される蓮の花というちぐはぐな空間も既に慣れてしまった。
この空間が俺と丹楓が夢の中で会う場所になったのは生まれてからずっとなのだから。
「警戒ができぬというならばそれでも良いが、余に対して安心感など抱くな」
「…抱いていない」
「其れが真の言葉だと?」
丹楓の手がゆっくりと伸ばされてくるのを目で追いかける。
追いかけるだけで、止めることはしない。言葉で止めた所で丹楓の手が止まらないことは知っていて、手で制したところで反対の手が伸ばされるだけだろうとわかっていたからだ。
だから、丹楓の手を止めないのは俺が丹楓に対して安心感を抱いていたからというわけではない。
伸ばされた手が、指先が首筋へと近づき、触れ、撫で上げる。
このやり取りすら何度目か俺には既にわからなかった。
「強張りすらしないではないか」
「…お前がこんな風に触れてくるのは初めてではないだろう」
「問題は其ではないと何度其方に言えばわかる?」
つつ…と指先でくすぐるように、愛でるように撫でられて感じたのは体が小さく震えてしまうようなくすぐったさだった。
「余は、其方に植えられた余の記憶の種の証拠だと何度も言っただろう」
感情が乗らない声で言いながら丹楓は指先を動かして、首筋から頬へ、頤へと愛撫を続ける。頤を掴まれ、丹楓の顔を見つめるように強制されても俺はやはり警戒心も不信感も抱いていなかった。
「其方の此の体の何処に根を張っているかわからぬ種の、芽の証拠だ。余の記憶を其方に植え付け、来る日には其方の意識すら塗り替えるかもしれぬぞ」
「…丹楓はそんなことはしないだろう」
「此れは余の意思の問題ではない。種が根を張り、芽を出し、花を咲かせるのは植物の原理だろう」
頤に触れていた手は離れることなく、もう片方の手で優しく押されろくに抵抗などしていなかった俺は微量の水の中に体を浸すことになってしまった。
濡れた体が冷たいと感じて、考える程には丹楓にこれだけ諭されていても俺は丹楓を警戒などしていなかったし、丹楓のこと自分に害をなす存在だとは思っていなかった。
害をなすのであれば、俺の意識を乗っ取り塗り替え、丹楓としてもう一度返り咲きたいのであれば俺にこんな諭すようなことを言う必要はなく、俺が生まれた頃に瞳に涙をため、抵抗しながらも飲み込んでしまった種を、そんな種が成長していることに気づいていない俺をただ何もせず放置していれば時の経過と共に丹楓として返り咲けたはずだ。
警戒をしろ、安心するなというのは丹楓が俺の意識と俺の体を、丹恒という存在を守る為に発している言葉なのだと俺はもう気づいてしまっていた。
「丹楓」
覆いかぶさってくる丹楓の体に腕を回す。丹楓の髪が頬を撫で、其れがどうにも擽ったい。
やはり俺に丹楓を警戒することはできないようだ。
「余は何度でも言う。警戒をしろ。抵抗をしろ。余に安心感など抱くな。敵だと思え、丹恒」
そんなことを言いながら近づいてくる丹楓の顔にゆっくりと瞼を下ろした。
丹楓に応えることはできないが、丹楓に答えよう。
「俺は、お前を受け入れたい。丹楓」
安心感を抱いていないなど、丹楓の言う通り嘘だ。
この深層心理の世界で俺が目を覚ますまで触れてくる手の感触に体の力が抜け、俺の名を呼ぶ丹楓の声に安堵してしまう。けれど、それが嫌ではない。
俺の中の種が、花を咲かせた時にどうなるか、俺はきっとよくわかっていないのだろう。
それでも俺の中にいる丹楓を受け入れたいと、消えて欲しくないと、いなくならないで欲しいと思ってしまっているのだからもう戻ることはできないのだ。
「余は其方の中で花を咲かすくらいならば朽ちても良い」
触れた唇に小さく息を飲みながら、ゆっくりと体の力を抜いた。