紫苑「ドラコルル長官」
己と同じくらいの背丈の男に背後から声をかけられ、ドラコルルは振り向いた。男は真っ黒なスーツに身を包み、胸元に喪主の証として白い花を挿していた。
「将軍は──」
「あちらです」
男は人集りの方を手で示した。政界の名だたる重鎮、軍の関係者、ピシアの者たち。様々な人間が入り乱れる集団の中をすり抜ける男の後を、ドラコルルはついて行く。
「ここです」
会場の奥、花が飾られた壁よりも手前に、大きな棺が鎮座していた。
その周りを、男と同じく壮年の男女、そして若者がそれぞれおよそ10人ずつ囲んでいた。ドラコルルは彼らにお辞儀をしてから、棺の側に立った。
まだ蓋は置かれていない。沢山の花に埋もれ、そこに横たわる人物に向かって、ドラコルルは口を開いた。
「お久しぶりです、ギルモア将軍」
ああまたか、とドラコルルは盛大なため息をついた。
時刻は夜の11時。ピシア本部の将軍執務室を訪れたドラコルルは、来客用ソファに横たわる人物を見やった。帽子とケープは脱いでいるが軍服は着たままの老人のそばに跪き、体を揺する。
「ギルモア将軍」
何度か揺さぶれば、老人の瞼が重たげにゆっくりと開かれた。半目の眼差しがドラコルルを捉える。
こんなところで寝られては風邪を──そう言おうとしたドラコルルを、ギルモアの小さな声が遮った。
「ダンダ?」
ドラコルルはサングラスの下で赤い目をぱちぱちとさせた。知らない単語だ。
「からだ、よくなったのか?」
年老いてなお、並大抵のものを寄せ付けぬ威厳を持ち鋭い眼光を飛ばす男が、赤子のようにふにゃりと笑みを浮かべていた。
ドラコルルが驚きのあまり何も言えずにいると、ギルモアの目はまた閉じられていく。すぐに寝息が聞こえ、我に返ったドラコルルはまたしてもため息をついた。
「副官、ダンダという言葉に聞き覚えはあるか?」
「いえ」
ガヤガヤと人の話し声で満たされる食堂で、長身の男と大柄な男が2人並んで食事をとっていた。
副官は最後のデザートを頬張りながら首をひねる。
「ダンダ……ダンダ……聞いたことありませんねえ」
「そうか。おそらく人の名前ではないかと思うのだが」
ドラコルルは息を吐いた。あの時ギルモアが口にした言葉。初めて見せた表情。それらがひどく気になって、こうして人に尋ねているのだがどうにも成果は上がらない。
「今、ダンダとおっしゃいましたか?」
2人の背後から声が掛けられた。振り返ると、黒い軍服に身を包んだ男が立っていた。知らない顔だがピシアの事務員であることは分かる。
「君は?」
「失礼しました! 事務局のヨナンと申します」
セキュリティカードを見せられ、ドラコルルは頷いた。副官は男に話しかける。
「おい、今ダンダと言ったか?」
「はい……もしかして、ギルモア将軍からお聞きに?」
「何故分かる?」
ドラコルルの言葉に男、ヨナンは一瞬、何かを堪えるような表情を浮かべた。
「……ダンダ、という人間を知っています。ここではそれしか言えませんが……」
「食堂で話せる内容ではないと?」
「はい」
ドラコルルは顎に手を当てた。ふむ、と一言呟いてから、彼は口を開いた。
「掛けたまえ」
ドラコルルの執務室、ソファに座っているのは部屋の主であるドラコルル、その隣には副官、正面向かいは事務員のヨナンだ。
「ここなら誰かに聞かれる心配もない。念のため鍵もかけておいた」
事務員の男は初めての執務室に落ち着かない顔をしていたが、上官2人に見つめられ切り出した。
「ダンダ、というのは……ギルモア将軍の配偶者の名前です」
「あの人結婚してたのか!?」
大声を上げた副官にドラコルルは「声を抑えろ」と囁く。そして、目の前の部下に向かって矢継ぎ早に問うた。
「確かなんだろうな?」
「はい」
「何故そう言える? 根拠は?」
ギルモア将軍のプライベートは謎に包まれている。ドラコルルでさえ、どうやら家族がいるらしい、ということぐらいしか分かっておらず、副官以下多数の部下たちでは将軍は独り身だと思い込んでいる者が多い。
事務員は深呼吸をし、そして、何か覚悟を決めた目で2人の上官を見た。
「実は、私は……ギルモアの実子でして……」
「ええっ!?」
副官は大声を出したが、その横のドラコルルはただじっと正面の男を見据えていた。
「人に言うなとキツく言われていたので誰にも言ったことはなかったのですが、本当です」
ドラコルルはじろりと部下を見やった。
確かに、彼とギルモアには共通点が多い。背格好が似ており、厳つい目つきと高い鼻、それから声が似ている。ヨナンの方が雰囲気は柔らかいが、親子だと言われれば納得できる。ただし、性格は全く似なかったようだ。
「どうぞ調べてもらっても構いません。ただ……ひとつ聞いても良いでしょうか?」
「何だ?」
部下は目線を下に落として尋ねた。
「どういった状況で、その……ダンダという名前を聞いたのでしょう」
「……先日の夜、将軍が執務室のソファで眠っていらっしゃった」
ドラコルルは語り出した。
「ここ何ヶ月かはずっと執務室で寝泊まりされていて……いや、それはともかく、ソファで眠っている将軍を起こそうとしたら、寝ぼけていたのか私に声を掛けてきてな。『ダンダ、体は良くなったのか』と」
部下の表情が固まる。
「親御さん、病気なのか?」
副官の問いに、彼は顔を暗くした。
何かいけないことを聞いただろうかと副官があわあわし始めたその時。ヨナンは震えを抑えるような声音で言った。
「父は……2ヶ月前に亡くなりました」
ドラコルルと副官の頭の上に疑問符が浮かぶ。代表して副官が尋ねた。
「えっ? でも将軍は生きてるじゃないか」
「え?」
男は一瞬呆気にとられた顔をして、「あ、ああー、ああ……」と感嘆を羅列すると、少々気まずそうに答えた。
「ああ……ギルモアは私の母でして」
「は!?」
副官がまたしても叫んだ。
「なるほど、父君がダンダという方だと」
「そういうことです」
ドラコルルの補足にヨナンは頷いた。
副官は「へえ〜」と呟くとソファに背中を預けた。
「珍しい。将軍の年代だと男同士で結婚してる人全然いないよな」
「そうですね。私の周りは皆、男女の両親ばかりでした。両方男なのは我が家くらいでした」
「……で、将軍は寝ぼけて長官と旦那さんを見間違えたと?」
副官の言葉にドラコルルは肩をすくめた。
「どうやらそうらしいな」
「父は細身でしたが長官と同じくらい背はあったので、そのせいかもしれませんね」
ドラコルルはあの夜のギルモアの顔を思い出した。
ギルモアがあんな風に微笑んだのも、ドラコルルを夫と勘違いしたのだと考えれば納得だ。仕事場で見せる顔と家族に見せる顔は皆違う。ギルモアももれなくその類の人間だったのだろう。
だが、その微笑みに応えてくれる人はもういない。
「母は、いつも執務室で寝泊まりを?」
「ああ、ここ何ヶ月かはそうだな」
「やはり、そうですか……」
ヨナンは肩を落とした。
「やはり、とは?」
ドラコルルが男の言葉を反芻して問い返す。
「家に帰っていないみたいだと、妹から聞いているんです……父が死んで、葬式が終わってからは……」
男は膝の上で組んでいた手を離し、また組み合わせる。沈んだ顔の部下に、ドラコルルは考えを巡らせた。
半年程前から、ギルモアは誰よりも早く退勤するようになった。ちょこちょこと有給を使って休むこともあった。勿論仕事に影響は出ていない。ギルモア本人がそのように調整していた。何故かは聞かなかった。ギルモアは他人に口出しされるのをひどく嫌っており、仕事に支障もないのだからと急いで帰るギルモアを見送っていた。
急に3日休むと連絡が来て、その次の日からだっただろうか。定時になっても帰らず、残業に明け暮れ、そして執務室で夜を過ごすようになった。一応執務室の奥にある仮眠室で寝ているようだが、先日のようにソファや執務机で寝てしまうことも少なくない。
あの3日の間に何があったのだろうと不思議に思っていた。
まさか、それが伴侶の死だったとは。
「もう歳ですし、家に帰ってゆっくり休んでほしいんですが、きょうだいみんなメールも電話も無視されているんです。それに……かなり前ですが、実家に母宛の荷物が届いていて」
「荷物?」
副官は小首を傾けた。男はまっすぐ2人を見て、はっきりと答えた。
「父から母宛に送られた、データディスクなんです」
「全く、突然呼び出しおって……そんなに重要な話か」
ドラコルル、副官、ヨナンの秘密の話し合いの翌日。
長官執務室のソファにどっかりと我が物顔で座る老人、ギルモア将軍。その向かい側に座るドラコルルは常の態度で答えた。
「ええ、とても重要な話がありまして」
ギルモアは訝しげにドラコルルを睨みつけた。
「最も、私ではなく彼からですが」
ドラコルルは執務机の方を手で示した。すると、机の下から人影が2人現れる。
1人は副官。もう1人は、息子であるヨナンだ。
「は……?」
ギルモアは呆気に取られた顔で息子を見た。
「言ったろ。母さんに渡したいものがあるって」
その言葉に、ギルモアは立ち上がり怒声で返した。
「お前、職場でそう呼ぶなと言っただろうが!」
副官は将軍の後ろにつき、ヨナンは将軍のすぐ横まで歩み寄った。
「こうでもしないと受け取ってくれないかと思って。長官に協力してもらった」
ヨナンはギルモアにデータディスクを差し出した。
「何だそれは?」
「前メールしただろ。母さん宛に届いてたよ……父さんから」
瞬間、ギルモアは顔を強張らせて一歩後ずさった。
「母さん?」
母の態度を疑問に思ったヨナンが声をかける。ギルモアはさっと体を翻し、一目散に扉へと駆ける。
「待って!」
事務員が叫ぶ。ソファの後ろに立っていた副官はすぐさま床を蹴り、ギルモアの行手を阻んだ。だが老体とは思えぬ見事なステップでギルモアは副官を避ける。
「お待ちください!」
ギルモアの腕をドラコルルが掴み上げる。
もう片方の腕を副官が掴み上げた。ギルモアは左右から抱え上げられ、振り解こうと上体を何度も捻った。
「離せ! 離せと言っとるだろうが!」
「……何でだよ」
ギルモアの目の前に部下の男が立った。
「家にも帰らないで……父さんからの荷物も受け取らないで……墓参りだって、行ってないんじゃないのか」
俯く彼の拳はワナワナと震えていた。
「母さんにも受け入れる準備は必要だろうと思って、1ヶ月くらいは様子見するつもりだったけど、こんなの……」
男は、母譲りの釣り上がった目を、怒りの色に染めてギルモアを見た。
「父さんを拒んでるみたいじゃないか、忘れようとしているみたいじゃないか!」
ドラコルルは脇に抱えるギルモアの顔をちらりと窺った。息子の言葉に大人しくなったギルモアは僅かに眉間に皺を寄せ、口を引き結んでいた。その横顔には、怒りとも悲しみともつかない、何とも形容しがたい表情が浮かんでいた。
「ドラコルル長官、スクリーンをお借りしてもよろしいですか?」
「ああ」
部下の言葉に、ドラコルルは頷いた。
「……何をする気だ」
母の言葉にヨナンは怒りを抑えた表情で答えた。
「ディスクの中身を確認する……父さんも、本当は母さんだけに見てほしかったんだろうけど、しょうがないだろ」
息子は唇を噛みながら、壁に埋め込まれたスクリーンを起動させる。
ギルモアは、ドラコルルと副官に左右から掴み上げられたままソファに座っていた。感情を失った人形のように項垂れていた。
逃げ出す素振りは見せなかったが、左右の2人は念のために拘束は解かずにいた。上官を連行しているようで気まずいのか、副官は落ち着かなさげにソワソワしていた。
部下の男がリモコンのスイッチを押すと、スクリーンに人が映し出された。顔は青白いが優しそうな顔つきの老人だ。青い患者服に身を包んでいる。後ろにベッドの背もたれ部分が見えることから、病室で撮影したのだろう。
『……あれ? これで録画できてるのかな? うーん……』
男は首を捻りながら、録画機器を弄っている。
ドラコルルは、俯いたままのギルモアが身を硬くしたのを感じた。
『あ、ランプ付いてる。じゃあ大丈夫だね』
すぐにホッと安堵の息をつくと、後ろに下がってカメラに向き直った。
『もしもし、ギルモアくん。元気にしてる?』
男は手を振った。ギルモアは俯いたままだ。
『僕が死んでから1週間後に届けてもらうよう頼んであるんだ。今時は便利だね。あ、今日はね、体調良いんだ。最近天気が良いからかな』
ヨナンも、ソファの後ろに立ってスクリーンを見つめていた。
映像の中で男はニコニコと笑っていたが、やおらに顔を曇らせる。
『……ごめんね、君を置いて逝くことになってしまって』
ギルモアは膝の上で拳を握りしめていた。
『ただでさえ体弱いから、君や子供たちにいっぱい迷惑かけたのに、病気になっちゃって……君もまだ仕事大変なのに……』
男は目線だけ下に向けて、申し訳なさそうに言葉を紡いでいたが、スッとカメラに目を向けた。
『でも、沢山お見舞い来てくれて嬉しかったんだ。ありがとう』
男は優しい微笑みを浮かべていた。
『僕はもう永くないけど、ギルモアくんのおかげで人生楽しかったよ。色んな場所に行けて、子供もたくさん生まれて……何より、ギルモアくんがそばにいてくれたから、ちっとも寂しくなかったよ。体が弱いのも、病気になっちゃったのも僕のせいだからさ……だから、気に病まないでね』
男は穏やかな声で語りかけた。
『それから、ちゃんとご飯食べて、ちゃんと睡眠とってね。仕事も無理しちゃダメだよ。もう若くないんだからさ』
まるで口うるさい母親のように男は言った。
『それから……』
男は言葉を一旦切る。目を泳がせ、そしてすぐに真っ直ぐ前を見つめた。
『僕のこと、忘れないで』
男は今にも泣き出しそうな顔で、懇願するような声で言った。
ギルモアは目を見開いて顔を上げた。映像の中の夫と目が合う。
『時々で良いから、思い出して……お願い……』
カメラ越しでも、男の目が潤んでいるのが分かった。男は袖で目元を拭うと、無理やり笑顔を作って言った。
『それから、ギルモアくんは僕よりうんと長生きしてね。子供たちのこれからも、孫たちの成長も、ちゃんと見ててね。それで……いつか君を迎えに行くから、その時に教えて。僕が死んでから、どんなことが起きたかを。僕、楽しみにしてるから』
男はにこりと微笑んだ。
『約束だよ。必ず、迎えに行くから』
ギルモアはスクリーンから目を離さない。ずっと、目をまん丸にして映像の中の夫を見つめていた。
『愛してるよ、ギルモアくん。またね』
力強い眼差しと言葉の後に、男はカメラに向かって手を伸ばす。そして、ぶつりと映像が切れた。
映像はここまでだった。
ドラコルルは何も言えなかった。ただ、映像の中の男の言葉に圧倒された。間際の命が紡ぐ、伴侶への愛の言葉というのは、こんなにも重く、赤の他人の自分ですら心に迫るものだったとは。
と、横から啜り泣く声がして、ドラコルルは我に返った。音の方、ギルモアを見る。
両眼からポロポロと涙を流し、紫の軍服に涙の染みを作っていた。
ドラコルルと副官は腕を外した。ギルモアは背を丸め、片手を口に当てて嗚咽を漏らしていた。
「父さんを忘れようとしているみたいだ」という部下の叫びがドラコルルの脳裏に浮かんだ。
おそらく、ギルモア将軍は夫を忘れたかったのではない。忘れたいのなら、夫と見間違えたドラコルルに、体は良くなったのかと微笑みかけたりはしない。この方は受け入れられなかったのだ。夫は病から回復することなくこの世を去ったのだと、もう家に帰ってもそこにいないのだと。データディスクを受け取ろうとしなかったのも、夫の死を認めてしまうようで嫌だったのかもしれない。
ドラコルルは静かに立ち上がった。鼻を啜っていた部下の男に、ここに座れと手で示す。副官には外に出るぞとハンドサインを送った。
執務室には親子だけが残された。ソファに並んで座る2人は、しばらくの間は感情のままに泣いていた。落ち着いてきたのか、ギルモアは鼻声で言った。
「……もう一度、頭から見せろ」
「……うん」
息子は微かに笑って頷き、リモコンの再生ボタンを押した。
一方、外に出た2人は。
「なんか、すごかったですね」
「ああ」
副官の言葉にドラコルルは同意を示した。
「将軍が泣くところ、初めて見ました」
今までギルモアは人に気を許したことがあるのだろうかと、時々疑問に思っていた。身内ですらほとんど信用しない人間だ。家族とどんな関係を築いているのだろうと思っていた。
「私もだ……将軍も、あの人には心を許していたんだろう」
普段の振る舞いからは想像できないが、お互いに深く愛情を注いでいたのだろう。素直で優しい夫にしか見せない顔も沢山あったのかもしれない。だからこそ、彼の死を受け止め切れず逃げ回っていたのだ。
「とりあえずは、2人の気が済むまで待とうか」
「そうですね」
突然呼び出しておいて、しかもプライベートの領域に踏み込んでしまった。後で将軍に文句を言われるだろうか。
そんなことを考えながらドラコルルは苦笑いを浮かべた。
ギルモアの葬式は滞りなく終わった。参列者が続々と退場する中、ドラコルルは逆行するように歩き出した。その後ろには、途中で合流した副官がいる。
「長官、副官」
喪主用のマイクを片付けていたヨナンは、近付いてきた2人に気付いて顔を上げた。
「お疲れ」
副官は気軽く手を上げ、疲れを滲ませた顔で言った。
「いやあ、すごい面々だなあ。お偉方ばっかじゃないか」
「いやあ、私も驚きです。元気なうちに母に参列者名簿を作ってもらっていたのですが……連絡するのドキドキしました」
力なくアハハと笑う喪主に、ドラコルルは声をかけた。
「後はご家族でか?」
「はい……最後の、お別れをしようと思います」
ヨナンは棺に目を向けた。憔悴を隠し切れていない彼の肩に、ドラコルルは手を置いた。
「しばらくはご家族でゆっくりしてくれ。何かあればいつでも聞く」
「ありがとうございます」
ヨナンがそう言った直後。
キイィ……。
やけに甲高い、扉が開く音がした。
もう会場はギルモアの親類とドラコルル、副官しかいない。
誰か忘れ物でもしたのだろうか。皆が振り返るが、そこに人影はない。ただドアが、人ひとりが通れるぐらいに開かれているだけだ。
立て付けの悪い扉が勝手に開いたのだろう、と皆が思ったその時。
フッと会場が暗転する。
「!?」
ピシアの3人は周囲を見回し、気配を探った。
地位のある人物の葬儀だ。何者かから襲撃を受けた可能性がある。ヨナンは弟に照明のスイッチを入れるよう指示を出し、ドラコルル、副官と共に棺の前に立ちはだかった。
コツ、コツ。
規則正しい靴音が聞こえる。音は扉の方から始まり、少しずつ棺の方へと近づいて来る。
息を合わせ、ドラコルルと副官は同時に走り出した。コツ、コツ、と動く足音の主に向かって手を伸ばす。
しかし、2つの手は虚しくも空を切った。
振り返ったドラコルルは、今もなお靴音を出しているはずの人物めがけて体当たりを繰り出す。だが、何かにぶつかった感触はない。
避けられたか。勢い良く駆け出したため、止まるまで数歩要した。靴音は後方から聞こえる。
振り返って睨みつけるが暗闇しか見えない。足音は真っ直ぐ、棺に背を向けるドラコルルに向かっていた。
足音はドラコルルの目の前まで迫り、そして──股の間を潜り、後ろへと抜けていった。
ドラコルルは闇の中で目を丸く見開いた。まるで、音の主の体をすり抜けてしまったかのようだ。
あり得ない。暗闇で見えないが、確かにそこに人がいるはずだ。だが、人間の仕業とするには今起きている現象の説明がつかない。
コツコツと鳴り響く靴音は、ギルモアの棺の前でぴたりと停止した。
どこからか、リン、と鈴の音が鳴る。
それはまるで、優しく呼びかける声のようだった。
それから何秒経ったか、何分経ったか。パッと照明が明るくなり、闇に包まれていた会場は光を取り戻した。
ドラコルルと副官は真っ先に喪主の方へ駆け出した。
「大丈夫か?」
「はい、私たちは何とも」
ドラコルルの問いにヨナンはハッと我に返ったように答えた。
「何だったんだ今のは……」
副官が呟く。
ヨナンの目には動揺が浮かんでいたが、すぐに顔を引き締め棺の方へ向かった。
「何が起きたかは分かりませんが……とりあえず、母と棺の確認、を……」
棺の中を覗き込んだヨナンは言葉を失った。
「どうした?」
ドラコルルも棺の中を覗き込む。ギルモアの子供や孫たちもわらわらと集まり、ヨナンと同じように棺の中に目を向けた。
「笑ってる……」
花に埋もれるギルモアの口元は、安心しきったような笑みを浮かべていた。少なくとも、参列者から花を手向けられていた時までは、こんな緩んだような顔ではなかったはずだ。
ドラコルルはその顔に見覚えがあった。
「……旦那様に、会われたのでしょう」
ギルモアの子供たちが一斉に顔を上げた。
一度だけ、寝ぼけたギルモアに向けられた柔らかな微笑み。あの時の顔とそっくり、いやそれ以上の笑顔だ。
何をやってもすり抜けてしまうあの足音の主こそが、きっとギルモアを迎えにきた夫だったのだろう。
根拠はない。非科学的なことを信じるなんて文明人としてどうかと思わなくもない。しかし、あの足音を聞けば、この微笑みを見れば、ギルモア将軍はようやく愛する夫と会えたのだと、そう思わずにはいられなかった。
「そうか、さっきのが……ちゃんと、父さんは迎えに来たんだな」
ヨナンは、胸の前に置かれたギルモアの手に触れた。
「良かったね、母さん……」
涙混じりの声でヨナンが呟く。他のきょうだいたちも、鼻を啜り、目元を指で拭った。
ギルモアの手元で、紫のシオンが美しく咲き誇っていた。
紫苑(シオン)の花言葉
「君を忘れない」
(終)