紫苑 ─one year and after─余命1年と聞かされた時、真っ先に頭に浮かんだのは、残された妻はどうなるだろうかという不安だった。
ずっと体調が悪い日々が続いていた。いつものことだからと特に気にも留めていなかった。妻と一緒に夜ご飯を食べていたある日、突然吐き気を催して、トイレで胃の中のものを全て戻してしまった。吐瀉物には僅かに血が混ざっていて、血相を変えた妻にすぐに病院へ連れて行かれた。
自分の身が病に侵されていることを知ったのは、検査を受けた翌日だった。
その病気自体は、特に高齢な人間が患いやすいもので決して治らない病じゃない。治療薬もちゃんとある。しかしそれは早期に発見できればの話で、僕のように末期に近い人間には手遅れだった。
去年の健康診断では異常なしだった。おそらく、元々体が弱いために一気に病気のレベルが進んでしまったのだろうというのがお医者さんの見立てだ。普通の人なら、今からでも治療を開始すればそれなりに進行を遅らせることができるらしいけれど、虚弱な自分の場合は、多少進行を遅らせたとしても体のほうがもたないだろうとも言われた。
つまり、僕はあと1年程で、この病気で死んでしまうということだ。
医者から告げられたことをありのままに伝えた時の、妻の顔は今でも忘れられない。仕事を早上がりして帰って来た妻は、「嘘だ」「医者が適当なことを言ったんじゃないのか」とソファで声を荒げた。傍目から見たら妻はただ怒りに叫んでるように見えると思う。けれど違う。彼が大声を上げるのは一種の防衛反応だ。傷ついた心を守るための盾のようなものだ。
妻は怯えている。僕を失う恐怖に。置いていかれる絶望に。目を見れば分かる。
ごめんねと声をかけると、妻は押し黙った。今にも泣きそうな顔をしていた。
ごめんね、ギルモアくん。
そう囁いて、妻の背中に手を回す。いつもより強い力で、しがみつくように抱き返された。
それから、子供たちを実家に呼び寄せて病と余命について話をした。1番年上の長男は妻と同じように泣きそうな顔をして、長女と次女は「1年……嘘でしょ……?」と同時に呟いた。次男は俯いて拳を握っていて、三女は顔を青ざめたまま絶句していた。
妻が産んでくれた、大切な5人の子供たち。この子たちと共にいれるのもあと1年。初孫もまだ小学校にも上がっていない。今いる孫の成長を見届けることも、これから新しく生まれてくるであろう、僕と妻の血を継ぐ命を祝福することももう叶わない。
当分は家で薬を飲んで、病気の進行を遅らせることにした。小説のお仕事も引退した。
昼間はよく娘たちが家に来て、体調の悪い僕のために食事を作ってくれたり、家事を代わりにやってくれたりした。以前は忙しくて仕事場に泊まり込むことのあった妻も、ちゃんと毎日家に帰って来るようになった。毎日体の調子を聞かれて、昨日と変わらないよと答える。一緒に夜ご飯を食べて、一緒に寝る。そんな穏やかな日々が続いていた。
余命宣告から半年経ち、症状が急に悪化した。ずっと吐き気が酷くご飯はほとんど食べられなくなったし、体が思うように動かせず1人で歩くことも難しくなった。入院して治療を受けることになった。ずっと個室のベッドに横たわって、暇つぶしのためにと子供たちが持って来てくれた本やアルバムを読むことくらいしかできなかった。それでも、夕方になると必ず妻はお見舞いに来てくれた。病院から職場までの距離を考えると、多分定時に退勤してすぐ来てくれているんだろうな、と思う。時々、平日にも「今日は休みをとった」と言って、朝から夜までずっと病室にいてくれることもあった。昔話に花を咲かせることもあったし、看護師さんが来ないタイミングを見計らって、一緒にベッドで寝てもらったこともあった。昼過ぎの暖気が心地良くて、そのまま2人で眠ってしまった日もあった。勿論子供たちも、配偶者や子供を連れてよくお見舞いに来てくれた。僕が食べやすいようにとさっぱりしたフルーツをよく持って来てくれて、みんなで分けて食べるのは楽しかった。
けれど、もう吐き気どめの薬も効かなくなって、立ち上がることもしんどくなっていった。この機を逃したらもうチャンスはない。そう思った僕は、家族ひとりひとりにメッセージを残すことにした。子供たちには手紙で。妻には映像で。比較的体調が良い日に書いて、録画して、そういうサービスを提供している会社に送った。僕が死んだ1ヶ月後に届くように頼んである。みんな読んでくれるかな。観てくれるかな。
子供たちには、生まれてきてくれてありがとう、沢山の思い出をくれてありがとう、それからママのことを頼むよと。妻には、ずっとそばにいてくれたことへの感謝と、ちゃんと食事と睡眠をとるようにと、そして……僕を、忘れないでくれと。
言うつもりはなかった。けれど、喋っているうちに、ああ僕は死んでしまうんだと、もう二度と妻に会えなくなるのだと、酷く不安になって、何でもいいから妻にしがみつきたくなって、あんなことを口走ってしまった。妻が忘れないでいてくれたら、時々で良いから思い出してくれたら、僕もまたそばにいられるんじゃないかと、そんな風に思ってしまった。
思わず溢れた涙を拭って、無理矢理笑顔を作って、君は長生きしてねと、いつか迎えに行くからとも言った。僕がいなくなっても、妻にはできるだけ元気でいてほしかった。永くはない僕の分まで、子供たちのことも、孫たちのこともちゃんと見届けてくれと、そう頼めば、彼も悲しんでばかりはいられないと活力を取り戻してくれるだろうと思った。半分はそんな方便だけど、残り半分は本気だった。人間が死んだらどうなるのか分からないけれど、意地でも何でも幽霊になって、妻を待ち続けるつもりでいた。会うためなら何でもしてやると思った。
そしてまた体調は一層悪化し、流動食すら食べるのが難しくなった。1人では起き上がることすらできなくなった。1日のほとんどを寝て過ごすようになって、妻や子供たちがお見舞いに来てくれても、眠っていて気付かないこともたびたびだった。
お医者さんも、最期の時が近いと判断したのだろう。数日だけ、妻と一緒に家に帰してもらえた。久しぶりの、思い出が沢山詰まった我が家。もう立ち上がることもできなかったから、ずっと妻に抱きかかえてもらっていた。1日目は有給をとった妻と2人っきりで、ソファでくつろいで、ご飯を食べて、夜は一緒のベッドで寝た。次の日からは子供たちが家族を連れてやってきて、久々に賑やかな日々を過ごした。
また病院に戻って、それから1週間後。ずっと寝てばかりの生活なのに、その日は何故だかとても眠たくて、頭もなんだかふわふわしていた。
お医者さんも、看護師さんも、慌ただしそうにしていて、なんでだろうって思った。
……あれ、ヨルマ? お見舞いに来てくれたの?
マーナに、スーも。2人も来てくれたんだ。
ジルにヨナンまで。お仕事、だいじょうぶなの?
みんないるんだ。うれしいな。
ねえ、ギルモアくんは……まだ、おしごとかな。
あいたいな。
はやくきてくれないかな。
……あ、ギルモアくん!
きてくれたの。ふふ、みんなそろったね。
て、あったかいや。
ギルモアくんがにぎってくれてるから、あったかい。
ほっぺたも、あったかい。
ギルモアくんがなでてくれるから。
ギルモアくんが、ずっとぼくをよんでる。
うれしい。
ねえ、もっと、なでて、よんで
ぎる も あ く
「ギルモアくん」
夫の呼びかけに、軍服を纏ったギルモアはゆっくりと振り返った。夫が包装された箱を手に、隣に腰掛けてきた。
「ほら、これ、この間マーナがお供えしてくれたお菓子。食べよう」
「ん」
ここはギルモア邸──正確には、現実世界のギルモア邸の「写し」だ。
死後、迎えに来た夫に連れられ、道無き道を行き、見知らぬトンネルをくぐり抜けると、かつて自分が暮らしていた世界と同じものがそこに広がっていた。
夫曰く、あの世にはこの世と同じような世界が広がっており、死者たちは生きていた頃と同じような暮らしをしているらしい。自分の家も、現実世界と全く同じ場所に、全く同じ作りで存在していた。ひとつ違うのは、庭にシオンの花が咲き乱れていることぐらいだった。現実世界で誰かが死者に供えたものは、この世界で暮らす死者に届くらしい。
ソファに2人で座るのも、何十年ぶりだろうか。ギルモアと夫は娘に供えてもらった菓子を頬張った。瑞々しいフルーツが詰まった饅頭だ。
「美味しいね」
笑顔の夫に、ギルモアの表情も和らいだ。
晩年も、夫は病による苦痛に耐えながらも、自分や子供たちがそばにいると嬉しそうに笑っていた。病院から電話がかかって来て、急いで夫の元に駆けつけたあの日もそうだった。もう声を出す気力もなかったのか、口だけ小さく動かして自分を呼び、嬉しそうに微笑みながら眠りについた夫のそばから、ギルモアは離れることができなかった。もう1度だけで良いから、名前を呼んでほしかった。自分に笑いかけてほしかった。
「ダンダ」
「なあに?」
ギルモアが呼ぶと、夫は振り向いた。
「……美味いな」
「うん、そうだね」
また、自分の名を呼んで、微笑みかけてくれる。こちらが呼べば返事をしてくれる。それだけで嬉しくて、胸が温かくなる。
「そういえば、この世界でずっと暮らしたとして、将来はどうなる?」
ギルモアはふと心に浮かんだ疑問を口にした。
「生まれ変わるらしいよ」
「はっ!?」
夫の言葉にギルモアは驚きの声をあげた。
「死んで、生まれ変わって、また死んで……そうやって、人の魂はあの世とこの世をぐるぐる回るんだって。他の人に教えてもらった」
「ならば、俺たちはいつ生まれ変わるんだ」
ギルモアは弱々しい声で尋ねた。せっかくまた会えたのに、すぐに引き離されてしまうのではないかと、そんな不安に襲われた。
「今のペースだと何百年後とかじゃないかなあ」
「何百年だと!?」
またしてもギルモアは声を上げた。
「すぐには生まれ変わったりしないよ。古い魂から順番に生まれ変わるんだ。僕もギルモアくんも、この世界じゃあまだ新人だからね。当分先の話だよ」
最後の菓子を口に入れ、夫は言った。
「ま、新人といっても僕の方がこの世界の先輩だからね。何でも聞いてよ」
得意げにふふんと笑った夫だったが、ギルモアはまだ不安そうに目線を彷徨わせていた。
「……生まれ変わったら、記憶は全て忘れてしまうのか?」
夫は真面目な顔をして答えた。
「分からない。忘れてしまうって言う人もいれば、思い出せないだけで記憶は残り続けるって言う人もいる」
男はギルモアに身を寄せ、その背中に手を回した。
「忘れちゃっても、忘れなくても、僕たちはまた会えるよ」
ギルモアは夫の顔を見た。夫はにっこりと、太陽のように笑っていた。
「前世で強い結びつきがあった人間同士は、生まれ変わってもまた何かの縁で繋がるって聞いたんだ。もしかしたら僕たち、前世からずっと一緒だったかもしれないよ」
ギルモアはオカルトは信じないタイプだ。だが、こうして夫と再会し、死後の世界に来てしまった以上、夫の言葉も全くの嘘だと思えなかった。
とりあえず、何百年かは──正直途方もない時間だが、これから先もずっと夫と共にいられるのならばそれで良い。
ギルモアは夫に体を預け、夫の腰に手を回した。幽霊に触れると冷たいなんて怪談を聞いたことがあったが、それが作り話なのか、はたまた幽霊同士ではまた違うのかは分からない。ただ、夫の体は生きていた頃のように温かい。
「ギルモアくん」
「ん?」
夫の優しい声に、ギルモアは返事をした。
「僕の名前、呼んで」
「……ダンダ」
ギルモアは夫の名を呼んだ。夫は満足そうに微笑んで、ギルモアに頬擦りをした。
ギルモアも口元を緩ませ、夫の温もりをただ感じていた。(終)